僕と新たな出会い・4
ミズホから届いたミカドの親書は予想もしていなかった内容だった。宮様が寂しさのあまり気鬱の病にかかってしまったので、亮仁と碧子を早く戻してほしいと言う催促だった。
亮仁は正式に養子になるのだろうが、なぜ碧子までと思った。ユリエに事情を聴くと、ミカドには碧子と年の近い皇子が三人いて、ミヤコに行った折にその内の誰かと娶わせたいと言う御言葉を頂いたそうだ。僕の承認を受けてからでないと、正式な返事は出来ないが母親としては結構な御縁かと思う、そう答えたらしい。
「で、碧子は、どうなの?」
すっかり帝国になじんだ碧子は、変な訛りも取れた。だが食べ物はいつまでたってもミズホの物が一番好きみたいだ。こういう事はいくら幼くても、本人の意志を尊重してやりたい。
「ミズホに戻ります。そして保仁様のところにお嫁に行きたいです」
「保仁様って、以前碧子が文通していると言ったお相手かな?」
「そうです。もともとは母上と保仁様の母君のお手紙のやり取りでしたが、保仁様が桜を描いたお絵かきを送って下さったので、私もお返しに帝国の花の絵をお送りしたのが始まりです」
保仁様の母君はユリエのまたいとこか何かだ。元は女官であったが、ミカドの御寵愛を受けて保仁様を産んだらしい。何というか、経歴的にも似通っていると、母親同士も親近感が有りマメに文通をしているようだ。ミズホと帝国の距離は遠いから、どうしても情報は一月以上は遅れた物にはなるのだが、それでも互いの宮廷の様子が良くわかるわけだ。
「なら、僕からは碧子が、その保仁様と仲睦まじい夫婦になれるように、ミカドにお手紙を書かなくちゃいけないな」
「はい。お願いいたします」
それにしても……碧子の「ミズホに戻ります」発言は、少しショックだった。「行きます」じゃなくて「戻ります」って、帝国はやはり碧子には「母国」では無いのだった。しょげている僕にヤタガラスが言った。
「碧子は生まれた時からミズホとの縁が強いんじゃ。また、グスタフはミズホに行く事も有ろうよ」
「そうだなあ。有るかもしれないけれど、そうそう行けないだろう。それはそうと、ヤタガラスはどうするんだ。最初の予定通り戻るのか?」
「ミズホの者たちは、我がいなくても何とかやって行こうよ。チャスカに出会ったのじゃから、当分こちらに残る必要が有ろうよ。それとも何か、グスタフが面倒をしっかり見るのか?」
「え? 今だって見てるだろう?」
「いや、その、妻というか妃というか、そういう者にする気は無いのか?」
「正妃になるのはヤタガラスも知っての通り、アンニカでほぼ決まりだ。今更取りやめって訳にはいかない」
「側妃とか公式愛人とかはどうなんじゃ?」
「それぞれ条件が有る。側妃の場合は特定の国との親交・友好に寄与すると思われる貴族や皇族の娘だし、公式愛人は未亡人か離婚した成人女性だ」
「うーむ。じゃあ、ユリエの後釜はどうなんじゃ?」
「お、おい。後釜って、どういう意味だ。子供らを送ってミズホに行くにせよ、ユリエにはすぐに戻ってもらうつもりだ」
「ユリエがチャスカに服をやったろう。あれはユリエ本人がそうした事も考えているからじゃないのか?」
「僕は、そこまで考えてなかったな。まあ、聞いてみるよユリエ自身に」
「それはそうするべきじゃな」
夜、二人きりになった時ユリエが言った。
「チャスカに月の物が参りました」
「ユリエに任せておけば、安心だな。チャスカの言葉も随分まともになってきたし……」
僕はどう切り出したものか悩んだ。言葉で聞くのは難しい。僕は無言でユリエを抱きしめた。抱きしめて感情の奥まで探るべきだろう。子供の単純な思考や感情は読み取りやすいのだが、成長するにつれ、心の内部に様々なものが積もるせいか、厚ぼったい日記帳を読み返すような感じで丁寧に探って行かないと、知りたい事柄を見落とす。ましてや僕よりも年上で複雑な思考と感情を持ち合わせているユリエの場合、間違いなく読み取るのは難しい。でも、できる限り読み取りたいと思った。
「今度はミズホに行っても、用事が済んだらすぐに戻るんだよ。子供らは成長して親の手元を離れてしまうものだろうけれど、僕はユリエを一番必要としているんだ。その事を忘れないでくれ」
するとユリエの感情は大きく膨れ上がり、幾つかの異なる感情が渦巻き始めた。
僕の言葉をそのまま肯定する気持ち。僕の愛情を信じる気持といずれ薄れると言うあきらめの気持ち。年老いて行く自分の体と変化しない僕の若すぎる体がうまく調和しないと言う違和感。自分は死すべき存在で、若い世代に僕を委ねるべきだと言う責任感。誰かに僕を取られたくないと言う独占欲。僕を残して何れはこの世を去るのだと言う諦念。それから……不意に湧き起ってきた悲しい気分……
正直な話、チャスカの気持がどうであるのかは大して気にならない。あの子はまだ本当に子供だし、それほどの深い絆も無いし、そこまでの義務も感じていない。ユリエが悲しまず、苦しまない方法が見つかれば、それに越した事は無いのだが。
「ミズホに……参ります。亮仁と碧子の母親ですから、私が共に行くべきでしょう。グスタフ様はミッケリや大本山との事も、それに皇后陛下の御容態も色々心配ですし、今は帝国を離れられるわけに参りますまい」
「長い留守番は嫌だよ」
「でも、儀式や……それこそ碧子の婚姻の儀式までとなりますと、かなりの時間がかかりますねえ……セルマ様が御自分は若くないから気が引けるなどとおっしゃいます。私はそのセルマ様より十歳年上なのですから、こうして臥所を御一緒させていただくのもそろそろ切り上げ時かも知れません」
「セルマはセルマ、ユリエはユリエだよ」
「御不自由をおかけしないためにも、若い女子が必要だと思いますが、グスタフ様の御心に適いそうな者が居らず苦慮しておりました。その、セルマ様やヤタガラス様とも相談したのですが、チャスカをそのうち閨にお召しになったらいかがでしょう?」
「ヤタガラスにもそんな事を言われたが、あの子をそんな対象として考えた事は無いよ。無事に国に返してやろうと思うだけだ」
「ですが、あの子を『可愛い』とはお感じになっているのでしょう? あの子はグスタフ様を生涯かけてお仕えする方と思い定めたようですし、あの子になら私も腹が立ちません」
「セルマが……女子修道院に住まいを移したいなどと言ったんだよ。母親の侯爵夫人のお節介の所為だと思ったんだがな」
「侯爵夫人は皇帝陛下のためにお好みに合いそうな若い女子を幾人かお引き合わせしたと、聞いております」
「鹿の園か……」
「何ですか? それは?」
僕はルイ十五世の愛人ポンパドゥール夫人が王のために開いたと言う、娼館・鹿の園の話をした。
「どこも事情は似たようなものなのかねえ。だからってユリエがマネする必要なんて無いのに」
「私は既に、三人の御子を産ませていただきましたし、年も年なのです。侯爵夫人程の事は出来ませんが、やはり引き際と言うものが御座いますから」
ユリエは引き際にこだわっている。未練がましくない名誉ある撤退……か。
「避妊薬なんて飲むのをやめておけば良かった。ユリエが懐妊したら、事情も変わっただろうに」
「孫より年下の子を産むなど、体裁が悪すぎます」
「そうか? 僕は全く気にならないが」
「私は、イヤです」
本当にイヤみたいだ。
「ユリエに嫌われた。泣きたい気分だ」
自然に僕の目から涙がこぼれてきた。
「まあ……泣いてくださいますの?」
「だってそうだろう。この世界に生まれてこの方、一番長い間一緒に眠っていた相手に、もうだめだなんて言われて、平気でいられるもんか」
その日以降、僕とユリエの間でその話題が出る事は無かった。
「亮仁ともっと、話をしておけば良かったと今頃になって思います」
亮太がしみじみと僕に言った。僕も同じような事を思っていた。亮仁は大人しく、口数も少ない。碧子は訛りが取れたが、会話の量が不足気味だったせいか亮仁はところどころ訛ったままだった。それでも学問の方は抜群の素養を示した。黄金宮の図書室の蔵書は大半読破したらしい。意外であったのは嫡子のフレゼリク・レオポルドとは絵を描くと言う共通の趣味が有り、二人が一緒に庭の花をスケッチしていたり、亮仁が水墨画をフレゼリク・レオポルドに教えたりと、仲が良かった。
「兄上に描いていただいた僕の肖像画をサスキア王女に送ったら、とっても喜んでくれたみたいです」
フレゼリク・レオポルドが兄上というのは亮仁の事で、他は「亮太兄上」「ミゲル殿」という感じで、ちょっとよそよそしい関係なのだった。セルマの産んだミゲルとは数か月違いでしかないし、兄とは言い難いのだろう。そのミゲルは亮太にべったりで、何をするのも一緒だ。
亮太と亮仁は面差しも似ているし、共にユリエの産んだ子であるのに性格は随分と違い、それぞれ腹違いの弟との縁の方が強く、孫全員を父上が夕食に招かれる折ぐらいしか接触も無かった。
幾度かミズホとの間の手紙のやり取りが有り、ユリエは亮仁と碧子を連れてミズホに旅立つことになった。ユリエは「チャスカには言い含めてあります」などと言ったが、何をどう言い含めたか、知りたくも無い。ただ、はっきりしているのはユリエの留守は半年以上になりそうだと言う事だ。
「やせ我慢など体に悪い」
そんな風に父上には笑われるし、ヤタガラスにはユリエの言う通りにしろと言われる。当のチャスカは懸命に仕事をしているのは確かで、他の年配のメイド達も娘の面倒を見ているような感じで色々と教えてやっているようだった。
そうそう切り替えなんぞ、簡単にできるのものではない。だが、父上がおっしゃる所のやせ我慢が祟ったのか、僕はイライラしている事が多くなった。そんなある日、母上の容体が急変した。
「ああ、ごめんなさい陛下、許してね、エリク……」
僕は母上の手を取って、意識を読んだ。
うわごとを言う母上の脳裏には、父上と大宰相の姿が明滅して交互に現れているのだ。
父上は幼い時から夫として意識して育ち、身分も容貌も自分にふさわしい相手として納得できる存在であったらしい。そして父上に愛人がいるのは当然だとも思っている一方で、不愉快でもあり、グラーン侯爵夫人は許し難い存在で……大宰相は幼いころから自分に対して庇護的な立場を取ってくれる頼りがいのある存在で、信頼できる相手なのだった。大宰相と母上は十歳ほども年の差が有る。母上が子供のころ、すでに大宰相は名の有る武人で優れた官僚であった。大宰相を何か頼めば必ずその約束を果たしてくれる誠実な相手として、強く母上は意識していた。一方で父上はとらえどころの無い、本音の読めない相手であったのだ。
母上の中で、父上と大宰相は共に必要な大切な存在であったと言う事だろう。だが、皇后として至らなかったと言う気持ちよりも、大宰相を振り回して苦労を掛けたと言う気持ちの方が若干強そうだった。
「大宰相を呼んでも構いませんか、父上」
僕の顔を父上は凝視したが、頷いた。
「ソフィーエにはエリクが必要だったのだ。夫は不誠実であったからな」
御自分の事を不誠実とおっしゃり、苦い笑みを浮かべられた。
大宰相は手紙を送っても、父上の手前遠慮しているのか母上を見舞おうとはしなかった。大宰相自身が風邪をひいたので、皆にうつすと迷惑がかかるとか何とか言う言い訳の手紙が来たが、メイド同士のネットワークを通じて手に入った情報では、さほど加減も悪くなさそうだ。意を決して、僕は大宰相を迎えに行った。
「お忙しい中、このような田舎までわざわざ……」
挨拶から始める大宰相を押しとどめ、有無を言わせず一番揺れの少ない皇族用の馬車に乗せてしまう。医師も同行させたし、普段の面倒を見ているメイドも一緒だ。
「私もその昔は押しが強かったですが、殿下はそれ以上ですかな」
「そうだな『灰色の悪龍』より『不老の悪魔』はエゲツ無いかもしれん」
かつての大宰相のあだ名を僕が引き合いに出すと、大宰相は声を立てて愉快そうに笑った。
「母上が……意識もはっきりしない中で、父上とあなたの名をかわるがわる呼んでいるのだ。どうやら、母上はあなたに詫びたいらしい。あなたを振り回し、あなたの人生を狂わせたとも感じているようだ。息子としては、その気持ちを受け入れてもらいたいと願っている」
「お小さいころの皇后陛下……ソフィーエ様は、まことに愛らしくていらした。あの方に『ありがとう、エリク』と言って頂くと、天にも昇る心地でしたぞ。そのお言葉が聞きたくて、あれこれいたしましたが……かえってご迷惑をおかけした事も御座いましたなあ」
大宰相の表情は穏やかだった。