僕と新たな出会い・1
熱帯のジャングルかと思う場所で、鳥が木から木へ飛び移っている。長い尾羽をはためかせた不思議な色合いの鳥だ。碧色かと思えは濃紺にも見え、光の加減で金色にも赤にも見える。一声高い声で鳴いたと思うと姿が消え、あとには漆黒の闇が……
「夢か」
傍らのユリエは僕に背中を向けて、深く眠っているようだ。緩やかにまとめた髪はまだ黒々と艶やかだが、何かの拍子に白髪が見つかる。気のせいか近頃、背中が一回り小さくなったようにも感じるのだ。
僕は三十歳になった。確かに二十二、三歳を境に、僕の肉体は老化を停止した。一方でユリエとセルマは並みの女より今も遥かに若々しいが、それでもさすがに二十代には見えない。どうしても僕よりかなり年上に見えてしまう。多少小じわが有ろうが、シミが有ろうが、白髪が出ようが、それも僕と共に生きてきた歴史の一部だと思うから、目にしても僕は嫌になったりしないのに、二人とも年を取る事を恐れているようだった。二十代前半のままと言う僕の状態の方が明らかに異常であるのに……
「醜くなって行く体を御覧に入れるのは、何やら気が引けます」
ユリエはこの頃そんな風に言う。今年ユリエが亡きドランメン伯爵との間に儲けたラウル・ヤイレは、セルマの産んだルイサと結婚し、伯爵家の受け継いできた称号の一つヌーク子爵を名乗ることになった。
「ルイサ殿がドランメン伯爵夫人を名乗るべきですのに……気が引けます」
いやでも世代交代が近い事を意識させられるのだろう。
そのルイサは早々と懐妊した。平成の日本なら中三か高一という年頃だが、この国の貴族社会ではこの位で最初の子を産む婦人も珍しくは無い。そうなると、ルイサの母親であるセルマも、自分が若くないと強く意識するようになったみたいだ。
「ルイサが子を産めば、お祖母ちゃまなのですわ、私も。まあ、どうしましょう」
「僕だってお祖父ちゃまだろうが」
「でも、誰が見てもグスタフ様にもうすぐ孫が生まれるとは、思いませんわ。お若いままなのですもの」
そんなこんなで、セルマも僕と交わる事に気恥ずかしさを覚えるようになったと言うのだ。僕は困惑している。ユリエともこの頃は手を握るだけ、添い寝するだけの夜が続いているし……
ミズホから戻って以来、僕はユリエとセルマの所にきっかり同じ日数通っている。イヴァルには「公平で一番すっきりしてますな」と言われ、正三郎には「律儀でいらっしゃる」と言われている。
ずっと僕はユリエだけを好きでいたかったが、ユリエが許してくれなかったし、セルマも今では大切な妻だ。二人とも満足ではないだろうが、少なくとも公平だ。だからこれ以外の方法は僕には思いつかなかった。子供たちを不幸せな状態にはしたくないし、これが皆が平和に過ごせる一番の方法だと思ったのだ。
ユリエは自分がまた妊娠して勢力バランスを崩すのを恐れ、僕に避妊してほしいと望んだので、僕はずっとあの避妊薬を飲み続けている。だが、最近はその必要も無い夜が多い。
正直言って、体は二十代前半のままの僕には、今の状態は辛い。若い公式愛人を作れだの、新たな側妃を迎えろだの、ユリエもセルマも口にした事が有るが、気を使う存在を不用意に増やすのは勘弁してほしい。かつての父上の様に市井の女性と行きずりの関係を持つと言うのも、あるいは娼婦を抱くと言うのも、どうも気がすすまない。父上には「気軽に楽しめば良いではないか」と言われるが……
どうやら近頃はユリエとセルマは共同で、スコウホイのアンニカを正妃に迎えるようにあれこれ画策しているらしい。確かにアンニカは僕と「魂の相性が良い」特別な存在ではある様なのだが、自分の子供の年頃で月の物が始まったばかりというような娘を後添いに迎えると言うのは、ちょっとばかり抵抗が有る。
子供同士の結婚で、しかも双方の血を引く孫が生まれることが確実になって、ユリエとセルマは互いのかつての恩讐を乗り越え、姉妹のような関係になっていた。そして二人の息ぴったりの連携で、アンニカを正妃に迎える話が、僕の知らないうちにどんどん進んで行く。もう少し後でも良いのでは無いかと思うのだが、案外早くアンニカと挙式と言う事になるのかもしれない。
「近頃のグスタフ様は、若々しさの上に何か光り輝くようなものが感じられて、四十も半ばを過ぎでしまったような私では、夜のお相手を致しますのは気が引けるのです」
この頃ユリエはそんな風に言って風呂も一緒に入らない。着衣のまま僕の体を洗ってくれたりはするのだが。元々僕と一緒に入浴する事に抵抗が有ったセルマに至っては、浴室に入っても来ない。
「アンニカ様をお早くお迎えあそばせ。お式が終わりましたら、私は亮仁と碧子をミズホに送りに参ります」
昨夜、とうとうユリエにそう言い渡されてしまった。
僕とベッドを共にした朝でも、ユリエは折り目正しく早起きし、甲斐甲斐しく僕の身支度を手伝う。以前より早起きが辛いのではないかと感じられたし、長かったユリエの不在期間は自分一人で身支度もやっていたのだ。ゆっくり寝ていれば良いと言った事も有るが、ひどく悲しそうな顔をされてしまったので、今はユリエの好きなようにさせている。
ユリエが部屋を去った後、僕はあの夢を思い返していた。あれは……
「おい、グスタフ、お前、我がつがいの夢を見たのか?」
「ああ、あれはヤタガラスのつがいだったのか」
ヤタガラスはミズホに戻らず、ずっと僕の側にいる。ユリエなりセルマなり、夜を過ごした相手と別れた後、こんな風にやってくる事にしているようだ。無遠慮に見えるヤタガラスなりの『礼儀』と言うものらしい。ヤタガラスも僕と全く同じ夢を見たのだと言う。何らかの重大事を知らせる夢に相違ないとヤタガラスは言うのだが、僕にはまるで心当たりが無い。
朝食は必ずフレゼリク・レオポルドと一緒に食べ、昼食は官僚たちと、夕食は大抵父上と一緒だ。母上はもういけないみたいだし、父上も僕が三十三歳になるころにはいなくなってしまわれるのだ。親孝行というより、僕が父上との限られた時間を大事にしたいと言う気持ちからだった。この頃は、時折宮中で暮らす孫達をお呼びになる。全員僕の子供だ。
皇族として遇されている弟たちはそろそろ結婚する。まだ誰も子供はいない。父親違いの弟ヨハン・ベルワルドとワッデン王の庶子であるコルネリアは、早めに結婚させた。
ヨハンが十四歳、コルネリア七歳の年であったから結婚の実態も生じようが無かったが、貴族社会では結婚も有り得る年齢には到達していた。互いに複雑な背景を背負っており、ふさわしい境遇の配偶者はおいそれとは見つからない。幸い相性は悪くなさそうだから、早く話を決めてしまう方が良さそうだと思った。
それでも一応、結婚前に二人を呼んで本人たちの意向は確かめた。ヨハンはすぐに僕の提案を受け入れたし、コルネリアはずっと変わらずヨハンの妻になる気でいた。
「だって、兄上、後五年もすればコルネリアは凄い美人になるでしょうからね。どこかの男に目をつけられるまで放っておく必要は無いと思うのです」
「私はヨハン様の妻になります」
今年そのコルネリアも十三歳になった。かつてヨハンの言ったように、大変な美しさだ。
「綺麗になったなあ」
夫婦揃って僕を訪ねて来たヨハンとコルネリアは、いかにも幸せな新婚の夫婦という感じだった。午後のお茶の時間を共にしたのだが、僕は久しぶりに会ったコルネリアの美しさを褒めずにおれなかった。すると冗談半分にヨハンに言われた。
「僕が先に年を取って死んでしまったら、兄上はコルネリアの面倒も見て下さいますか?」
「面倒を見るって……食うに困らないようになら無論するさ」
「兄上、どう面倒を見るのか一瞬悩まれましたね?」
「兄をからかって面白いか」
「いいえ、そんな。でも、まじめな話、僕が死んだあと兄上が面倒を見て下さるなら、安心ですけどね」
「何を、縁起でもないことを」
「兄上は……本当にお歳をお取りにならないようですね。僕と同じ年と言っても通りそうです」
「まさか、それはないだろう」
「いえ、本当ですわ」
コルネリアにまで、そう断定されてしまった。
ヨハン夫婦が立ち去ると、また不意に、ヤタガラスがやってきた。
「なあ、グスタフ、今夜は街へ出よう」
「そんな事言うのは初めてだな。『大女亭』の食べ物が急に気になったのか?」
「ああ、そう言えばそんな屋号だったか。あのお前の兄と姉がやっている店に、何かが来るはずなのだ」
「何が来るんだ?」
「我のつがいと我の気配をわずかにだが纏った、何かがだ」
「気配を纏った何か?」
「うむ。我との間に子が出来て、その者が鳥か人かあるいは獣かわからぬが、何かと気を交わらせ孫が出来、それがさらにひ孫、やしゃごと続いた、そうとしか思えぬのだ」
「つまり、ヤタガラスの子孫にあたる何者かでもあるんだな?」
「そうだ。そうに違いないと思う」
人型のヤタガラスを連れて久しぶりに訪ねた『大女亭』は相も変らぬ繁盛ぶりだ。父上が宮殿内で夕食を取るようになったから、ここ二年ばかりは無沙汰気味であった。ヤンもアニタも四十を超えて良いオジサンオバサンになっていたのは予想の範囲内だったが、今年十八歳だと言うヤンの息子・オレグとアニタの娘ヴェラが夫婦になっていたのは驚いた。
「こいつら、気が付くと子供こしらえてやがって」
なんとまあ、騒々しい調理場の台の上に籠が有って、その中に赤ん坊が寝かされていた。二人目の子だそうな。
「こりゃあ、娘で、息子の方は犬と一緒に二階で寝てるよ」
何て事も無さそうにヤンは言うが、幼児の面倒を見る犬なんて、珍しいのではなかろうか。僕も一度だけ見た記憶が有るが、まっ白い大きなむく犬だった。
「犬やら狼やらと相性が良いのは、血筋じゃな」
ヤタガラスは変な納得のし方をしている。
「それにしてもさ、ステファン、あんた本当に老けないんだね。ヘエエ、こりゃ驚いた」
アニタに言われて、改めて僕は老化しない、イヤできない体なんだと改めて意識した。
「そっちのチビちゃんも、本当はすんごい年寄りなんだろ?」
「あんまり大昔に生まれたんで、自分の年が幾つかよくわかんないんだって」
「前、聞いたように、この子、ミズホの商売繁盛の守り神さんなのかい」
「そうらしいよ。ミズホと帝国を行き来する船乗り達は、『船の守り神』だって言ってる」
するとヤタガラスが緊張した声で、言った。
「グスタフ、耳をすませろ……何だろう?」
微かに奇妙な音がする。僕とヤタガラスで、外に様子を見に行く事にした。三人の護衛の者も一緒だ。
「あ、あっちだな」
風に乗って聞こえる小さな音と言うより、はっきり『声』だと思われる。泣き声のようだ。それも人の。
「グスタフ、あれだ。あの小屋だ」
確かに『大女亭』で使う炭やら、燃料やらを仕舞い込んだ小屋から、その啜り泣きが聞こえてくる。
「誰だ。どうしてここで泣いてるんだ?」
僕が小屋の中に灯りを突きつけて見たのは、女の子だった。ぼろ布をまとい、ガリガリに痩せ、足には足枷らしきものが付いたままだ。年のころは十歳よりは上らしいが、わからない。帝国の言葉はまるでわからないようだった。何か怯えてしゃべっているが、仕方がない。僕は女の子の手を掴んだ。
(僕はひどい事をするつもりは無い。君みたいな子供に足枷をするなんて、どこの悪者なんだろう? 逃げ出してきたのかい?)
女の子は僕の言葉が直接脳裏に伝わって、驚いたようだった。が、僕が手を握っていてやると、握り返してきて、意思を伝えた。
(ここがどこか、怖いやつらがどこのだれか、わからない。私はチャスカ……)
そこで気を失ってしまった。僕は女の子を抱きかかえながら、意識を探った。ヤタガラスも探ったらしい。
「つがいの鳥は、先祖なんじゃな、この子の」
この子の意識の中で、あの鳥は神の鳥で遠い先祖だと意識されていた。後は、いきなりさらわれてひどい目に逢わされた恐怖の記憶ばかりが表に浮かび、深い所まで読み取るのは落ち着いてからになりそうだ。
「じゃあ、この子があんたの子孫か」
「そうなんじゃと思う。それにしても、全然わからん言葉じゃのう。ミズホでも帝国でもなし、その近隣のいくつかの国の言葉を思い浮かべてもさっぱりわからん。聞いたことがない言葉じゃな」
「訳の分からん言葉を話すが、あんたの子孫だろうな。チャスカって言うのが名前かな」
「恐らくそうじゃ。グスタフ、この子を助けてやってくれ」
まあ、ともかく今はこの子を介抱するしかない。他の事はこの子が体力を回復してからだろう。