二十二歳の僕と過ぎ行く日々・1
僕は満二十二歳になった。地球では井沢亮太の二十三回忌が行われるはずだ。
アネッテは二十歳で亡くなった。二年たっても、最後の情景は僕の中で薄れる事は無いようだった。
「フレゼリクと……アンニカを……宜しく……お願い……い、た、し、ま、す」
最後の言葉は振り絞るようだった。奇妙な気分だ。本来なら僕はとっくの昔に死んでいるはずなのに、なのにこうして生きている。だがアネッテは亡くなった。何だか不公平で理不尽だと言う気がする。
アネッテが息を引き取った夜、鏡に呼びかけたが誰も反応しなかった。幾日かしてヤタガラスと話した折にはアネッテの魂がどうなったのか聞いてみた。
「さあ、わからん。普通に子孫の誰かを守るとか、生まれ変わるとかだろうかな」
気のなさそうな返事だった。子孫を守る、と言うのは一番普通であるらしい。生まれ変わるのは力のある特別なもので、僕の様に異世界に生まれる者は何か特殊な力を持っている者なのだそうな。
「息子が気がかりで、まだあたりに漂っていそうだ」
そう聞かされてアネッテが亡くなって以降も、僕はアネッテが住んでいた場所で朝食を取る事にしている。必ずフレゼリク・レオポルドと一緒だ。フレゼリク・レオポルドはごく幼い内に母と死に別れた訳で、不憫でならない。近頃は片言で懸命に僕に話そうとする。アネッテはこんな可愛い様子を見る事も無かったのだ。
今はユリエの妹で伯爵夫人になったナタリエが中心になって育てている。ナタリエの夫イヴァル・ケニングは大宰相の弟子とでも言うべき人間だが、今や更に昇進して従来のラナース子爵領に近隣の領地を加えて賜り、ハーマル伯爵となった。
アネッテの乳母は国元に戻る事を希望したので、フレゼリク・レオポルドの婚約者で従妹にあたるサスキア王女に仕えるように推薦したら、そのままワッデン国王に認められたようだ。
世話役のナタリエは育児のベテランではあるし、フレゼリク・レオポルドがワッデンの次期女王の王配となる可能性が極めて高い事を良く承知していて、細やかに配慮している。アネッテの乳母はワッデンに戻ったが、乳母子は帝国で結婚して引き続き仕えているし、メイドから庭師・御者に至るまでサスキア王女に仕えている者の縁者で固めている。
「ただ、料理人は帝国の者とミズホの者にしております」
ワッデンの料理は良く言えば素朴、悪く言えば単純なのだ。食材も限られている。フレゼリク・レオポルドが将来ワッデンに赴く際は、料理人たちを連れて行く予定だ。恐らく彼らはワッデンの料理を変える大きなきっかけを与えることになるだろう。
アンニカは悩んだ末に、クヌートとウルリカの所に返した。まだ幼いのだし、せっかく立派な親が健在なのだ。歪な家庭環境に置く必要も有るまいと思っての事だったが……返してしまうと、思いの外寂しかった。
アンニカも僕を恋しく思ってくれたようで、三日に一度のペースで午後のお茶を一緒に楽しむ。その時はクヌートかウルリカが付き添ってくる。だが、二人がスコウホイに戻るとなるとアンニカとも当分お別れかも知れない。
最近は朝食を終えると、あとは執務やら御前会議やらで夕方まで忙しい。昼食も官僚たちとの打ち合わせを兼ねている場合が大半だ。そんな中でもアンニカとのお茶は貴重な時間だったのだが……
ユリエはこの五年ほどの間、ずっとミズホに居る。手紙のやり取りは有るが、事務的であったり儀礼的であったり、僕の事なんてどうでも良いのかもしれない。そんな気すらしてくる。御前会議の後、ミズホから届いた手紙も大半子供の事だけしか書いていなかった。確かに、それも知りたい事ではあるが、ユリエ自身の事は殆ど何も触れていない。ずっと、こんな調子なのだ。
「セルマ様とも仲睦まじくお過ごしください」とかなんとか……そのセルマは確かに良く僕を支えてくれるが、やはりユリエの気持ちがどうなってしまったのか、気になって堪らない。
「あのまま生きていれば、僕も四十四歳なんだなあ」
「この夏は前世での家族全員の姿を一度で見られる最後の機会だぞ、恐らく」
相変わらず僕の七歳児の姿のままのヤタガラスに改めて言われると、再びミズホの御山に行くべきだろうかと言う気がしてくる。ユリエは「清らかな巫女」のような暮らしぶりだそうで、あちらで別の男と良い仲になっている、などと言う事は一切無いらしい。
「ミズホであまたの人に必要とされているから、忙しいのじゃ」
ヤタガラスはそんな風に言う。帝国で習い覚えたさまざまの事をミズホの人々に伝授しているのだそうな。僕が迎えにでも行かない限り、戻らないのかもしれない。
地球での二十三回忌に合わせてミズホに行けば、ユリエは二人の子を連れて帝国に戻るだろうと聞けば、行かない訳にも行かない気がしてきた。
「ミズホにお越しになる前には、御不在中の手配について定めておいて頂きたいものです」
イヴァルに釘を刺された。再びミズホを訪れたいが、なかなかそうも行かない。父上はもうほとんど執務には関わっておられない。御前会議に御出席は願って、御意見は承るが、実務は殆ど僕と官僚たちでこなしている。大宰相の抜けた穴は大きいのだ。まだ次世代は十分に育っていない。
弟たちは六歳年下の大公殿下と呼ばれているロルフ、そして七歳下のコリング伯爵マウリとヨハン・ベルワルド、皆しっかりしてきた。三人の中ではヨハンの出来が一番良い。苦労もしたし、彼だけが皇族では無い訳だが、努力家の上に僕との間の信頼関係も一番強い。幼かったコルネリアはすんなりとヨハンの妻に納まりそうだ。まだ七歳かそこらだが、年より随分としっかりしている。
ヨハンを独立させるにあたってコルネリア自身にどうするか選ばせたのだが「旦那様と御一緒に暮らそうと思います」と、はっきり言い切った。ヨハンも嬉しそうであるし、それで良いのだろう。
田舎に引っ込んだ大宰相の所を、ヨハンとコルネリアはこまめに訪問する事にしているようだ。
「父がこのチビの嫁を可愛がりまして、会いに行くと表情が明るくなります」
そんな様子を聞くと、僕も嬉しい。大宰相は精神的なショックから立ち直りつつあるのだろう。僕が依頼した回顧録も執筆を初めてくれているようだ。
大宰相とは一時期夫婦同然だった母上の方は、昨年あたりから寝込みがちだ。ロルフは毎日母上を見舞うが、ヨハンと僕はあまり立ち寄らない。ヨハンは教会の事と言い大宰相との関係と言い母上が許せない気分なのだろうし、僕は僕で母上と話すと、つい過去の過失に言及して怒らせるような気がするので、気が重い。
父上はお元気だが、女性関係を完全に清算なさりつつあるようだ。僕の良く知らない庶子たちの将来の事も、色々配慮しておやりになる必要も有るのだろう。二十日に一度程度の頻度で『大女亭』に御一緒する。ちなみにもう三十代半ばのヤンとアニタだが、相変わらず忙しそうに働いている。ヤンは妻に逃げられてしまい、アニタは夫を病で亡くした。ヤンには息子オレグが、アニタには娘ヴェラがいる。共に十歳で良く働く。
「一応、文字ぐらい読めないとまずいと思って、昼間はステファンに聞いた塾に通わせてるんだけどさ、さっぱりだよ。それでも帳簿ぐらいは付けられるようにならないと、商売は任せられないって言うと、二人とも頑張るんだけどね」
アニタが言うと、ヤンも同意する。
「全然学問には向いてないみたいだね、この子らは」
しかしオレグもヴェラもどうやらこの商売は、好きでたまらないらしい。父上は『おじいちゃん』僕は『叔父ちゃん』と呼ばれているが、事実そうに違いない。父上は最初ガックりしていたが、最近はおじいちゃん呼ばわりにも慣れたようだ。
「おじいちゃんも叔父ちゃんもお上品なお邸暮らしで、色々大変なんだ」とは言っているようだが、ヤンもアニタも細かな事は大人になってから教えると決めているらしい。
僕はアネッテに先立たれてしまいユリエはミズホに行きっぱなしの状態だし、父上は母上とよりを戻したのは良いが今度は母上が寝込んでいる、愛人も会いたい人に限って皆亡くなっている、そんな状態なのでヤンとアニタに言わせると「男女の縁が今一つなのは、親父さん譲り」と言う事になるらしい。
その夜セルマは、僕の気持ちが亡くなったアネッテとミズホにいるユリエの間を行き来しているだけのようだ……とそんな恨み言を言った。珍しい事だ。セルマの想いにちゃんと応えなければいけないとは思っていたが、このところ特にどこか上滑りだったのは確かだった。
「そんなに御心配なら、ミズホでもどこでも行っておしまいになれば宜しいのですわ」
ベッドの中でくるりと僕に背を向けて、そんな風につぶやいたのだ。
「近いうちに、本当に行く事になるだろう」
「ああ、どうしましょう、本当ですの?」
またこちらに、くるりと向き直ったその顔は不安げで、その瞳は濡れていた。僕の子を産んでから深い情のこもった眼差しを向ける事が時々あったが、この瞬間、僕はセルマに本当に愛されているのだと強く感じた。
「本当だが、今度はすぐに戻るよ」
「一か月、いえ、三か月、半年……もっとでしょうか?」
「一か月とちょっと。二か月にはならないよ」
「伯爵夫人のお子様方は、大きくなられたでしょうね」
「リョウタとラウル・ヤイレの養育にセルマが良く尽くしてくれているので、ユリエも感謝しているようだよ」
あの二人にとって、セルマは本音で話が出来る相手になっているようだ。ユリエと離れ離れで居た時間が長すぎるのだから、当然かもしれない。
「何だか自分の腹を痛めた息子たちのような気分で居ますの。伯爵夫人はお気を悪くなさるでしょうか?」
「まさか。さっき届いた手紙にも『セルマ様と仲睦まじくお過ごしください』と書いてよこしているよ」
「そうなのですか? 」
セルマの不安は当然なのだ。五年以上離れていても、僕は一日たりともユリエを忘れた事が無い。だから、ユリエが戻ればどうなるのか不安だろう。更に懸命に面倒を見て情の移った二人の息子らが、実母の帰還と共に遠い存在になるのではないか、そんな心配も有るだろう。
「今年は僕にとって特別な年なんだ。ミズホの御山に登って異世界の様子を見て来たい。かつて僕が暮らしていた世界のね」
「前世ではリョウタというお名前でいらっしゃった、そう以前伺いました」
「ああ。別の世界のミズホに似ている国に暮らしていた。黒い目黒い髪の人間が多い国で、僕も前世では黒目黒髪だった……前世の家族が僕を弔う最後の儀式をこの夏にするはずなのだ。その様子を見て置くべきだ……そんな気がするのだよ」
「前世の御家族が懐かしいですか」
「うん。それなりに幸せであったし」
「前世ではお幾つで亡くなられたのですか?」
「二十二歳だ」
セルマは納得してくれた。
イヴァルに言われた様に、不在中の手配をしっかりしなくては。そして、なるべく早くミズホとの往復が可能な船を用意しなくてはなるまい。




