僕の家族の問題・5
「すると、その生まれたての姫は兄上である先の陛下のお子か、あなたの御子か判然としない、そういう事ですね」
「恥ずかしながら……そうなります」
アネッテに良く似た顔の新王は面目無さげにうつむいた。この顔を見ると他人とは思えない。まあ、義理の兄なわけではあるが。
「そしてその姫を僕の嫡子フレゼリク・レオポルドと娶わせたい、そういう事ですか?」
「はい」
僕は考え込んだ。別にこちらにとって悪い話ではない。当事者二人は赤ん坊同士だが同じ年なのだし。
新王が言うには、先の王つまり兄の正妃は夫からの暴力に悩まされており、庇ったことから思いがけぬことに自分と男女の仲になった。その後、彼女が懐妊し夫の死の直後に女児が生まれた。まだ名前も決まってないらしい。
それにしてもワッデンの王室は代々家庭内に深刻な問題が多いようだ。新王にはまだ妃も居ないのだから、子供が居てはまずい訳だ。
僕は自室であの鏡を取り出したが、モナは反応せず、ヤタガラスは建物から出て開けた場所でもう一度呼べと言う返事を寄越した。ヤタガラスが言うには、瘴気が酷いそうだ。
言われた様に城外に出た。城の裏手は巨大な河岸段丘が何段にも続いている。城は一番近い河の水面から二百メートルは持ち上がった位置になるだろうか。
「ここならどうだ、話が出来そうか?」
「ああ、月の光で随分ましになった。それにしてもあの城は酷い瘴気だ。おい、グスタフ、お前の体からも妙な気配が僅かだがするぞ……穢れた水を使った物を飲み食いしたな」
「この国の王と先ほど一緒に食事をした」
「それがいかん」
「昨夜は、そこまでひどくなかったのか?」
「昨夜は庭で鏡を出したのだろう? それに穢れた水の気配はお前の体からはしなかったぞ」
「王が使う水が、穢れているのだな?」
「そうだろうな」
その後モナも呼ぶと、今度は「臭いぞ」と不機嫌ながらも応答してくれた。狼の姿だった。
(変なものを食ったな。穢れた水を使い、邪な人間が用意したようだ。うううむ。王が使う水を清めろ。お前の息子がここに住む時に、苦労するからな)
(どうやって?)
(紋章入りの井戸のふたを開けて、朝日をあてるのだ。しばらくすると黒い塊が見いだせるだろう。それを掴むことが出来るのは、グスタフだけだ。他の者は魔力が強くて触れられまいよ)
僕は迎賓館に戻ると、あの忠義者の爺さんを呼んだ。
「僕の言う事を信じてくれるかな?」
「はい」
「突拍子もない事だと思うんだけど、それでも?」
「はい。陛下は幼いころの御苦労がたたって、おからだが弱っていたとはいえ、かなり回復されていたのですが、即位なさってから目に見えて体調を崩されておいでの様に感じます。毒味の者はおりますが、強い魔力を帯びた毒など思いもよりませんからなあ。なるほど、王族の方専用の井戸ですか」
翌朝、爺さんの案内で問題の井戸に行った。王が居住する建物のすぐ外だ。ワッデン王家の紋章が彫刻された大理石の蓋を取ると大きな岩が見えた。その岩の割れ目から水が豊富に湧き出、そこから傾斜をつけた樋が伸びている。その先は王の食事を作る調理場と浴室、王族の衣類用の洗濯場に分かれているらしい。
蓋を取った水面に朝日を当てて、僕と爺やと僕の供の者たち五人ほどがじっと見つめていると、急に真っ黒い球体が見えてきた。
「で、殿下!」
「うむ。あれだなあ」
水面と地表の高低差は僕の身長程だろう。水面の縁の岩場に比較的簡単に降りられそうだ。それでも皆が心配するので、腰に命綱を取り付けて降りた。水面にもやっと浮かぶ小さなメロン程度の大きさの黒い球は、触れても重さも何も感じない。奇妙なヒンヤリした感覚が有るだけで、果たして掴む事ができたのかどうかも心許ない。だが、僕の手に乗せる事は出来た。
「縄を引いて、僕を引き上げてくれ」
僕が玉を抱えて井戸の外に出ると、皆は呻きだした。咳き込む者もいる。
「な、何でしょうか、この黒い物は」
「魔力を帯びた強い毒らしい。日の光で分解できるそうだ」
僕は一番日当たりの強い庭の通路の敷石に、球を置いた。すると……
ジュン!
一瞬大きな音と共に、煙が立ち上り、球が消えた。
「後はなるべくこの水に触れた可能性のあるものでも人でも、毎日朝日にあてると良いそうです。部屋にも出来る限り朝日を入れてください。それでこの宮殿の瘴気はかなり弱まるそうです」
爺やは米つきバッタのように幾度も礼をしたが、僕らは腹も減っていたし、挨拶もそこそこに、この宮殿の食事は物騒なので、街の料理屋で食べる事にした。
「殿下、この街で一番流行っている旅籠兼料理屋らしいです」
正三郎の案内でやってきた店は、旨そうな食べ物の匂いで満ちていた。
「おや、帝国の御家来衆じゃないですか。うちなんかで朝食を?」
「ああ、女将さん。訳有って、ここで食べさせてほしいんだ」
正三郎は金貨をそっと握らせた。こうした心づけも差し出すタイミングで受け取ったり拒否されたり色々だが、なかなかにさりげない。特別扱いなのだろう。ごった返す一階の席ではなく、二階の静かな小部屋に通された。
「いきなり押しかけてすまないね」
僕が言うと、白髪交じりの栗色の髪の小柄な女将は眉を持ち上げた。誰かに似た顔だ。誰だったろうか?
「もしや……」
(帝国の摂政殿下かい? 黄金を紡いだような髪に綺麗な碧の瞳、いい男だねえ。あの子が手紙で書いていたより、ずっといい男じゃないか)
「もしや、だけど、よろしく頼むよ」
僕がにこやかに言うと、女将さんは一礼した。
「ただの野菜スープとオムレツとパンですが、取り急ぎお持ちいたしましょう」
きびきびとした身のこなしで、下に降りて行った。
「女将の妹は黄金宮で働いているそうです。どなたかの乳母として御奉公に上がったそうで」
「ああ、そうか。アネッテの乳母だ」
「ほう、妃殿下の御乳母様ですか」
僕が妹にあたるらしいアネッテの乳母の話を振ると、昔の事を教えてくれた。僕がアネッテの夫だと察している様子だ。
「いやねえ、離宮とはいっても廃墟ですよ。屋根があるってだけのね。そんな所にお小さい方をほったらかしなんですよ。妹がどうにか食べ物を工面してお持ちしなければお命だってねえ……でもまあ、ドランメン伯爵家の方たちがお助け下さったとか」
あの乳母はアネッテの生母の実家の伝手でアネッテの世話をするようになったようだ。
「と言う事は、女将さんの実家はアネッテの母上とは縁が深いのかな?」
「さようでございます。殿下」
「ああ、良いよ、そんな風に言わなくても」
「はあ。ですが……」
このワッデンは帝国よりずっと身分の差別がきついようだ。
「大したことない腐れ男爵だの馬鹿子爵だのでも、ふんぞり返ってますから」
「ふーん。その割には王女のアネッテの扱いが酷かったんだな」
「ええ。王家の方々の御事情は複雑みたいでして……その、悪霊かなんかの祟りじゃないかって、噂は昔から有りますけどね」
あの玉は悪霊そのものでも無さそうだったが、禍々しいものではあった。女将が部屋を出た後、鏡を出してモナを呼んだ。今度は臭くなかったようで、出てきた。
「毒は取りのけたが、毒のもとがまだ居座っているな」
「毒のもと?」
「ああ。幽霊、亡霊、そんなものだ。グスタフに似ている存在の名残だな」
「僕に、似ている?」
「ああ。グスタフにしか姿は見えず、声も聞こえないだろうが、言う事を聞いてやれば、完全に無に帰す」
朝食を済ませて、再び井戸に戻ると、僕の目にぼんやりかすんだような少年の姿が浮かんで見えた。日本人だと思う。黒目黒髪で黒い詰襟の学生服姿だ。
「あんた、俺が見えるの?」
「ああ、見えるよ」
「わけわかんねえ場所に、召喚されちまったらしい。交通事故で死んだのかどうなのかわかんないうちに、ここに来てたんだ。この国を守れとか、訳がわかんねえや。ヤバそうだから部屋から抜け出したら、ここに嵌っちまってた。抜け出せないんだ」
「手を貸そう」
僕が手を差し伸べると、少年は井戸から出ることが出来た。
「うわあ、明るいじゃんか。今まで真っ暗だったんだぜ、うっとうしい。日本に早く戻りたい。たとえ幽霊でもさ」
「ああ、戻れるといいな」
「俺、水沢豊、あんた名前は? あんたも元々は日本人だろう?」
「井沢亮太だよ」
「じゃあな、井沢さん、あんたも戻れると良いな」
その言葉を聞くと、見る間に少年の姿は陽の光に溶けるようにして消えた。
後から聞いたところでは、誰にも水沢豊なる少年の亡霊らしきものは見えなかったという。あの白髪の爺やに聞くと、ワッデン王家の始まりのころに、異界から神により召喚された者が居たらしい。だがその者は神の命に逆らい逃亡を図ったので、この地に魂ごと封印されたという。
「神、とは神聖教会が言う所の神か?」
「どうやら、違うようです。神聖教会が出来るよりも前の話のようです。まだ、ルンドに魔法やら魔術やらが御座いました古い古い時代だとか」
「ワッデンにはそんな術を使う者がいるのか?」
「もう、いないのではありますまいか? 教会の異端審問は、そりゃあ厳しい物でしたから」
古い古い時代とは言うが、学生服はさほど古い時代の服装ではない。地球とルンド、この世界と元居た世界の時間的なブレはどうなっているのだろう? 僕は水沢豊の魂を開放したことになるのだろうか? モナは完全に無に帰す、と言ったが……まるで謎だ。
再び王と夕食を取った。今度はあの旅籠兼料理屋の二階で、ざっくばらんなものだ。井戸の一件を大いに感謝してくれたようだった。生気の無かった王の表情が明るくなったように感じる。
「王位についてから、ずっと頭痛が有り安眠できなかったのですが、先ほどからその頭痛が無くなりました」
「安眠できると良いですね」
僕は王にアネッテに手紙を書いてやってほしいと頼んだ。
「そうですね。互いにとって唯一の肉親ですから、手紙ぐらいは書くべきでしょう」
それからまだ名前の無い姫の名付け親になってほしいと頼まれた。王の中では、フレゼリク・レオポルドとの結婚は確定事項らしい。
「そうですね。サスキアとしましょう。このワッデンが栄えた時代の女王であったと思いますが」
「サスキア女王の王配はレオポルドという方でした」
「おや、そうでしたか」
「あまたの子に恵まれ、今現在のこの国の貴族の大半は何らかの形でお二人の血を受けているのです」
悪くない名前を選んだようだ。温かい雰囲気の夕食後、王の私室に招かれ、僕と王はそこで赤ん坊のフレゼリク・レオポルドとサスキア姫の婚約を正式に決めた。同一の内容を記した公文書を作り、一部はワッデンに、もう一部は帝国に保存するのだ。双方の乳母や守り役同士の交流は僕の帰国後すぐにも開始し、成長の過程を見て幼いうちから本人同士の交流を心がけるようにする、という事になった。
この交流が、僕の意図以上に良い成果を上げてくれる事になったのだが、その話はまた後日になるだろう。