僕の家族の問題・3
僕はヨハンと昼食を共にした。二人きりで話す必要が有ると感じたのだ。大宰相の跡取りでウルリカとは腹違いの、僕とは父親違いの弟であるヨハンなら、色々気づく事も多いだろうし、あの長い旅の途中、スコウホイで別れて以降の事も聞いておきたかった。
「気が澱んで良くない。灰色の髪の父親の所為、ですか。モナ様のおっしゃる事に心当たりが有ります。父はあの腐りきった教会の連中に良いように利用されているのです。恐れながら、それは皇后でもある母上の所為なのですが……」
ヨハンが言うには、母上はいまだに神聖教会の坊主連中が悪行を働くとは信じないらしい。ヨハンが戻ってからでも相当の金額の寄付をしたそうだ。息子の災難を悪い夢か何かだと思い込んでいるようだと言う。現実を見ようとしないそうだ。困った事にその母上自身より、同居人で今や実質的な『夫』である大宰相の妄信ぶりは、息子のヨハンから見て耐え難いらしい。神聖教会の主流派であるネスの子分どもに良いように利用されているのに、それが帝国と教会大本山との有益な関係に繋がると思い込んでいるようだ。
その思い込みぶりが、ヨハンからすると常軌を逸していると感じられると言う。
「思い込みなんでしょうか? 偏った教育の成果でしょうか? どうにかしないと帝国全体に悪い影響が及ぶと心配しておりました。兄上が御無事でお戻りになって、本当に良かったです。あの父の妄信をどうにかしてやってください」
教会は大きな組織なので、多彩な人材がおり、グラーン侯爵夫人が親しい修道女などは貧しい庶民のための医療奉仕や教育のために積極的な活動を続けている。また山奥や洞窟などに引きこもり、厳しい瞑想生活を送るグループも有る。
「よりによって腐りきったネス派と親しくしなくても良いのに、困ったものです」
あの腐りきった破戒坊主のネスは今の所は大聖なのだから、残念ながら教会の主流派と言う訳なのだ。スコウホイで始まったような『新たな教会』を設立しようという動きも、幾つかの国や地域で同時並行的に興ってはいるが、いずれも一地方の弱小教団で、資金も人員も桁違いに豊富な神聖教会大本山には、全く太刀打ちできない。
僕は考えあぐねてヨハンの目の前で鏡を使い、モナを呼び出してみた。人型だったが、顔を顰めていた。
「そのお前の弟は、すぐに住まいを移した方が良い。穢れてしまうぞ。父親も母親もひどく気が澱んでいる。うっ、これ以上話が出来ん」
どうやら、僕が思った以上に事態は深刻なようだった。
僕は御前会議の後、大宰相に話をした。本人の希望も有って、ヨハンを僕の住まいに引き取りたいと申し出たのだ。
「それは、また、なぜですか?」
「ヨハンにとって、ソフス・ネスは思い出したくもないおぞましい存在です。それを母上は理解せず、大宰相も母上にならう。それではヨハンは安らげないですから」
「殿下、そのう……ヨハンはまことに猊下の寵童だったので?」
「自分の意志に反して、そういう立場に立たされたのです。僕自身、ヨハンと同様の被害に遭った犠牲者を多数、大本山で見ました。ネスを大聖猊下などと言うが、先代を毒殺し悪辣な手段で位を手に入れた犯罪者、吐き気を催す破戒坊主で、汚らわしい存在なのだと理解して頂きたい」
「で、殿下、お言葉が過ぎますぞ」
「なぜです? 僕はネスのあの穢れきった魂の波動だけで、吐き気を催しました。ヨハンはまともな神経の持ち主だから、さぞ苦しかったでしょう。母上は……まあ、ああいう見識の無い、ものの見えない所がお有りの方だか、賢明な大宰相までが右に倣う事は無いでしょうに」
僕は大宰相の瞳の感じが、何処かおかしいと感じた。いや、操られているような……真っ黒い気配が胸元から感じられる。メダル? 随分と禍々しい気配だ。僕は無言でそのメダルらしきものを毟り取り、靴のかかとで踏みつけて砕いた。
「な、何をなさいます!」
「何だ、この真黒な気配の塊は」
「ネス猊下から賜ったメダルですぞ」
「そんな穢れた物は、捨てろ!」
僕が初めて見せた乱暴な態度に、大宰相は驚いている。僕はミズホの言葉で叫び正三郎を呼んだ。そして、大宰相の服を脱がせて、風呂に入れて洗うように言いつける。正三郎だけでは難しそうなので、僕のもとに正三郎と共に残ることを志望したミズホの侍をさらに二人呼び寄せ、手伝わせる。
「この方を、風呂で清めればよろしいので?」
「そうだ。おかしな瘴気を纏っているからすっかり浄めるのだ」
更に侍従に命じて、大宰相に合いそうな大きさの衣服を大至急父上の所から頂いてくるように言いつける。僕の服では大宰相の体には幅が恐らく足りない。父上には取り急ぎ簡単な手紙を書いて、ゆったりめの服を頂くようにお願いする。父上は「後から何がどうなったのか」僕自身が説明することを条件に、御自分が微行の際に使われるものらしい服を下さった。皇帝の服よりははるかに質素だが、一応貴族には見える。
大宰相は言葉の通じない男三人に、風呂場に突っ込まれ、あっけにとられていた様だが、途中からは抵抗を止めたそうだ。
「よしよし、服は自分で着るだろう」
僕の出してやった服を、自分で着た大宰相は、訳が分からないと言う表情だった。
「殿下、なぜミズホの者たちにこのような事をお命じになったので?」
「ネスの影響がいささかも及んでいない人間に、あなたを洗わせた方が効果が高いからです。よかった。大分マシになったようだ」
「マシ、とは?」
「ネスの所から貰ったとかいう禍々しいメダルの帯びていた邪悪な気配が、かなり薄れました。あれは一体何なんですか? ひょっとして母上も似たような物をお持ちなのかな?」
大宰相の記憶は混濁している。かつての切れ者ぶりは、どうしてしまったのだろう。メダルを受け取った時の記憶が、ちゃんと残ってはいないようだ。単に『大聖猊下より賜ったメダル』としか認識していなかった。
「皇后陛下のメダルまで、あのように粉砕なさるので?」
「そうしなければ、ヨハンは心が安らがないですし、あなたの孫のアンニカにも悪影響が及ぶ。危険です」
「危険? 大聖猊下からの頂きものが?」
「だから、その大聖の位に居座っているネスは、人さらいで毒殺犯で悪辣な破戒坊主なのですよ」
大宰相は僕の出した茶を飲みながら、ポツリポツリと語りはじめた。母上の希望で、大宰相の邸に小さな礼拝堂を設けたのだそうだ。時期的には僕の不在中にあたるらしい。その礼拝堂に言わば専属の形で毎日顔を出す司祭がいて、そいつがネスの腹心の一人らしい。その腐れ坊主の説教を母上も大宰相も『ありがたく』聞いているようだ。困ったものだ。
「洗礼をアンニカに授ける儀式をする予定でしたが、ウルリカが『父親であるクヌート様に無断でそんな事は出来ません』と強く主張したので、結局行いませんでした」
「良かった。行わなくて。無垢な赤子に禍々しい穢れた呪いをかけられる所でした」
「そうなのですか?」
「あなたの邸の礼拝堂も問題だが、一番の問題は母上だな。多少手荒な手を使うかもしれないが、結局は皆のためになるのです。僕のすることに、当分口を出さないで下さいよ」
僕は正三郎たちに言いつけ、大宰相を一歩も部屋から出さないようにした。まあ、監禁状態と言って良い。僕は急ぎ父上のもとに向かい、汚染の源であるネスの子分の捕縛と、母上の監禁を許可してもらう。
「ソフィーエも自慢の息子のお前に監禁されるなどとは、思ってもみなかっただろうよ」
父上は悪戯をする子供のような楽しそうな表情を浮かべた。先ほど頂いた服は大宰相に着せたと、事情を説明すると、ますます面白そうになさった。
ネスの子分は近衛たちに連行させ北の塔に放り込んだが、問題は母上だ。僕自身が母上に面会してあて身技で気絶させてから、あの胸糞悪いメダルをしていたので、取り上げて砕いた。それから大きな布袋をかぶせ、密かに父上のお住まいの一角に運ばせた。かつて訳ありの女性たちを人知れず連れ込んだりするのに、皇帝が使ってきた場所だと言う。皇帝が秘密の愛人と楽しむ隠れ家の役目も果たしてようだ。
「クククッ、歴代皇后で、あの場所に連れ込まれた者など居るまい」
父上は久しぶりに夫の権利を主張してみようか、という御気分らしい。もうすっかり夫婦別れした状態だったわけだが、焼けぼっくいに火がつこうがどうなろうが僕はまるで構わない。ともかくも大宰相と居ると周囲を巻き込んで母上が暴走するので、食い止める必要が有った。
母上は大宰相の息子をヨハンの下にもう一人生んだのだったが、ふとした病で赤ん坊の内に亡くなってしまったのだ。その子供の死が余計に教会への妄信を助長する引き金になったらしい。子供の死を嘆く母上に大宰相も強い事を言えず、ズルズル引きずられる形でネスの企みに嵌ってしまったのだ。
「ふうむ。腹を痛めた子の死がなあ。ソフィーエも殊勝な所が有るではないか。やった事は愚かだが」
「できれば母上のお気持ちが荒れることなく、しばらくは大宰相と顔を合わさないでいて下さるとありがたいのです」
「なら、腕によりをかけてお前の母親の機嫌取りをしてやろう。クククッ、エリクに恨まれるかな?」
「本来皇后は皇帝の正妻なのですから、父上が母上と仲睦まじくなられたとしても、愛人に過ぎない大宰相が恨むのは筋違いかと」
「おやおや、グスタフ、本気か? クククッ」
大宰相に恨まれるとは僕も思ったが、子としての感情論は抜きにしても、しばらくは母上に会わないでいてほしいのだった。大宰相は惚れた弱みか、身分上の引け目の所為か、暴走しがちな母上を上手く制御できないのだ。その点、父上は手慣れたものだ。女に対する経験値の違いだけではないと思う。やはり本来の夫として妻の愚行を戒める力は十分にお持ちなのだ。
大宰相の邸にいた、ネス派の影響を強く受けている使用人は皆クビにした。代わりにウルリカの口利きで、スコウホイ出身者をまとめて雇い入れさせた。ウルリカは大宰相の邸を出て、夫のクヌートの邸に居る。アネッテの所でアンニカの養育の件で相談する際に、ついでに大宰相の話もするのだ。
「大宰相も娘の君の口利きなら、不承不承うけいれるかな」
「父に文句は言わせません。ネスの勢力を邸内から一掃しないとヨハンが困るんですもの」
僕の見るところ、ウルリカは立派な貴婦人になったと感じる。かつては依存していた父である大宰相の事も客観的に見る事が出来るし、実務も危なげなくこなせる。実務能力の高さは大宰相譲りなのだろうが。
使用人の入れ替えが済んだ時点で、大宰相を自由にした。軟禁状態の間、表向きは『病で御前会議にも出席できない』という事になっていたのだ。問題の礼拝堂はがらんどうだし、母上は父上のお手元だ。
「殿下、お怨み申し上げますぞ」
「なぜ? 母上の事なら詫びる必要は無いと思っているよ。あなたが母上の暴走を押さえられなかったのが、今回の一件の大きな原因だからな」
「……ですが」
「ヨハンとウルリカは、僕に全面的に協力してくれた。というのも、それが結局父であるあなたのためでもあるからだ。あのままなら、あなたはネスに良いように使われていただろう」
大宰相も理性では事態を理解できたのだ。あのおかしなメダルの呪縛から完全に開放もされたし。だが、『妻』の母上を元の夫の方に取り返されてしまったのは、どうにも辛いようだ。
「別に、母上がメダルの呪縛から完全に解放された後で、あなたと母上がどうなろうと、僕の関知するところではないのですがね」
「殿下はやはり皇后陛下は皇帝陛下と共にあるべきと、お考えでしょうね」
「僕の立場はそうですが。まあ、ヨハンという息子もいるのですから……ね」
大宰相はこの件以来、ますます老人臭くなった。表情も暗い。何やら歩くときの背中まで丸くなったような気がする。逆に息子で僕の弟でもあるヨハンは、無事に父親の邸に戻り、明るい表情で元気に過ごすことが出来ているようだ。
ヨハンのすぐ上の兄で、僕と父も母も同じ弟のロルフは、母上の手元を完全に離れて独立した。その事もヨハンの気分を楽にしたのだろう。
母親べったりのロルフより、苦難をともした父親違いの弟・ヨハンの方が、僕にとって本当の弟という気がする。
「あなたの跡取りは将来有望だと思いますよ」
僕がヨハンを褒めると大宰相は素直に嬉しいらしいが、母上の事を思い返すと恨みがましい気分になるらしい。
それにしてもさっぱりわからないのは父上と母上の関係だ。
「なかなかに新鮮」だと父上は楽しそうだし、母上は相変わらずお綺麗だ。女は魔物なのかもしれないと自分の母親を見て実感すると言うのは、息子としては複雑な感慨があるが。
「アネッテはどんな皇后になるんだろうねえ」
「私は公式愛人なんて作りません」
アンニカを抱っこしながら、アネッテはそんな事を言うのだった。
「別に帝国の法では、皇后の公式愛人は認められている」
アネッテはハッとしてから、気まずそうな表情になった。母上を攻撃する意図は無かったのだろう。
「ああ……その……殿下の事だけを想っていたいのです」
どうやら、それも本当らしい。僕は夫としてどうこたえるべきか、まだ結論を出していなかった。
ロルフの名前間違えてました。