ややこしい僕の事情・4
乳母を追い出して、その後は?
ドロテアと縁切りしたいが、いかんせん、乳児の肉体では意思疎通もままならない。それでも、母上や父上には折を見てチクッた。ドロテアが席を外すと「ドロテアさぼる、うそつき、きらい」とか「ドロテアいじわる、みんなをいじめる」とか「おっぱい、いりません」とか耳元でささやいた。あるいはドロテアに抱っこされるとドロテアが確認しにくいアングルの時は盛大に顰め面するとか、ある程度のデモンストレーションはやっておいた。
「皇太子殿下はドロテア殿がお気に召さないようだ」
「父君、母君の御膝の上ではご機嫌でいらっしゃるのにな」
「黒髪のメイド達はお気に入りのようだな。愛らしいお声でお話あそばすらしい」
上手い具合に噂になってきた。後は守り役を選んで、早くドロテアとバトンタッチさせるべく画策する。
幾人かの人間の脳裏に優れた若手の官僚として意識されている人物、イヴァル・ケニングに狙いを定めることにした。折角なら将来国政を担う有能な人物と早くなじんでおきたいし……
ドロテアは僕に嫌われているのを、ようやく自覚し始めたようで、デモンストレーションを始めてから、一か月以上たってから、あからさまな御機嫌取りを始めた。
「これは珍しい菓子でございますよ。甘くておいしゅうございましょう」だの、「綺麗な絵本でございましょう」だの、袖の下を掴ませる常習犯だけあって、僕にも色々物を差し出すのだ。だが、大半は笑っちゃうことにドロテアが毎日イビるユリエとナタリエの実家、レーゼイ家の系列店で仕入れた物だったりする。
僕が全然喜ばないとなると、今度は泣き落としに出た。鬱陶しい。うるさい。訳が分からん。普通の零歳児に泣き落としは無効だが、僕ならあるいは有効かと思ったようだ。
初めての誕生日当日、大規模な誕生会が開かれ、主だった貴族や官吏・軍人とその家族たちも招かれた。上手い具合にイヴァル・ケニングの親父さんで国璽尚書を務めるハーラル伯爵が僕の所にやってきたので、思い切りニコニコして抱っこをねだる。ハーラル伯爵は学者としても聞こえた人物で、イヴァルは次男にあたる。
「守り役にはイヴァルを、お願い」
僕の発音が一歳児にしては明瞭だし、はっきりした意思表示なので驚いたようだ。
「小官の一存では決めかねますが、何なら陛下の御裁可を仰ぎましょうか?」
非常に生真面目な調子で応じてくれている。
「お願い。父上にもお願いする」
「はっ、承りました」
周りの人間は大学者と一歳児の組み合わせを、不思議だと感じているらしい。その大学者が謹厳・荘重な調子で言葉を発し、皇帝の所に向かうので、何事かと思ったようだ。
「陛下、只今、皇太子殿下より御自身の守り役について御下問を賜りました。そして陛下の御裁可を御希望であられますのでお連れいたしました」
「おや、そうか。乳母はもう嫌なのだよな」
「はい」
「守り役になって欲しい人物がいるのかな? ハーラル伯爵は重い職務が有る故、無理だ」
「イヴァルが、良いのです」
「おお、伯爵の二男か」
父上は膝を打った。すると周りの重臣たちも「確かに適任かも知れませんな」「温厚で忍耐強く、向いているかと」「殿下は人を見る目がお有りだ」などと言い始めた。その様子を見た父上は決心された。直ちにその場にイヴァルが呼ばれ、母上も立会いの下、「皇太子自身のたっての希望で」守り役に任命される事になった。
二男のため爵位や領地もこれと言って無いし、官吏としてもまだ若手のイヴァルはいきなりの抜擢で驚いたようだ。皇太子の守り役は将来の宰相への最短コースでも有り、普通は重臣達の査問会議の末に決定するからだ。大抵は皇太子が七歳ごろに決まるもので、歴代皇帝で最も早い場合でも四歳を過ぎてからだった。
「殿下、わたくしでは乳も差し上げられませんし、襁褓の取り換えは不手際でございますが」
「御食事を食べます。おむつは取れました」
確かにそういわれたって、イヴァルは独身だし、一歳児の面倒を見ろって言うのは戸惑うだろうな。
「そうなのだ。イヴァル、信じがたいかもしれんが、この子は前世の記憶を持つ特別な子だ。さほどお前を困らせはしないと思うぞ」
「そうなのよ、イヴァル。歩けない内からこの子はおむつが取れているの。それに勉強したいのですって」
「勉強を、おしえて、お願い」
それからは親子三人で拝み倒す形でイヴァルを説き伏せ、守り役を引き受けてもらった。
「今夜から、イヴァルと寝ます」
ちょっとばっかし気の毒かなとも思ったが、そうでも言わないとドロテアが出て行かない。「夜だけでもドロテアと一緒が良くない?」と母上に尋ねられたが、「もう、嫌です」とはっきり拒否しておいた。その理由を尋ねられたら「ドロテアは嫌いです」とだけ答えておく。
一歳児の気まぐれで人生を台無しにされたら堪らないとイヴァルは思ったようなので、二人きりになったこの機会に思い切ってテレパシーで語りかけて納得してもらう事にした。守り役と言えば成人するまでの間、両親以上に身近な存在となる訳だし、イヴァルは有能な男なので、彼が生きている限りずっと世話になるはずだ。この際ネタばれしたって構わないだろう。
(ドロテアは職務怠慢だし、勝手に夫を僕の部屋に引き入れて怪しからん相談事を重ねていた。各方面に賄賂を配り、朋輩を陥れた。それにメイド達には尊大に振る舞うし、その権利も無いのに時には打擲するのだ。まだ独身の君に連日泊まり込みは迷惑だろうが、護衛騎士が正式に定まるまでの間、お願いできないだろうか? 宮中も近頃は規律が緩みがちで、不穏の輩が出入りするようだ。安全上、気がかりな点が多い。君の学識だけでなく、剣の腕前も期待しているのだよ。こうやって、直接思念に語りかけた人間は、君が初めてだ。僕のこの能力については周りの者に知られないようにしたい。お願いできるだろうか?)
「ははっ」
宮中の規律の緩みについては、イヴァルも感じていたらしい。賄賂の横行は苦々しく思っている様子だが、ドロテアの悪事についてはノーチェックだったみたいだ。
テレパシーで語りかけた僕の言葉は聞こえないし、見たところ、イヴァルは僕を抱っこして廊下を歩いて居るだけだから、様子を見た者がもしいたならばイヴァルの返事は相当奇妙に感じられただろう。
その晩から、僕は歴代の皇太子が使った豪華な寝室で眠ることになった。そして護衛騎士が決定するまでの約半年の間は、イヴァルと巨大なベッドで一緒に眠ったのだった。
更にその後はユリエと時折こっそり一緒に寝たりもしたのだが……それは僕の周囲のごく限られた人間しか知らない秘密だった。
妹のナタリエとはどういう訳か、ただの一度もそうしたチャンスが無かった。気が付くと、ナタリエはイヴァルと結婚してしまい、僕と別れる事になったのは、まったくの予想外の出来事だった。
御指摘頂いた点、加筆してみました。守り役は一番身近な存在である一人ですから、親より色々知っている方がまあ、普通だろうと思います。