僕の外遊、あるいは漂流・3
「いやあ……そのような事が本当に有るのですか」
三日がかりでやってきたクヌートは、モナが僕の実の姉で皇帝の娘なのだと聞いて、本当に驚いていた。
「ですが殿下、伺ったような御事情なら、姉上は随分殿下より御年が上ですよね」
「そういえば、そうだな」
「グスタフ、いらぬことはそうしゃべらんでもよいわ」
急に目の前に姉さんが立っていて、驚いた。僕よりクヌートは仰天したみたいで、ワッ、と声を放って椅子に座ったままのけ反って倒れそうになった。
「無礼な奴。我らの種族では百歳より若ければ若いのじゃ」
寿命は自分で決めるのだと言う。
「では、モナ様、千年生きようとすれば、生きられるのですか?」
「出来ようが、知り合いが皆死に絶えればつまらんからのう。母のミナも祖母のマナも曾祖母のニナも、皆二、三百年で死ぬことにしたのだ」
「死を怖いとは、思わない?」
「なぜ怖いのだ? むくろと毛皮以外、何も無い状態になるだけだ」
酷くシンプルな、それだけに妙に説得力の有る言葉だ。大切な存在、親しい存在の孫・曾孫・玄孫ぐらいまでは愛着がそれなりにあるが、余り先になると、どうでもよくなってくる物らしい。
「死ぬ前に、大事な事だけは子に伝えるのだ」
最低限伝えるだけで、十五年程度かかる。そういう事らしい。
興味深そうに聞いていたクヌートは、モナに質問した。
「人間が信仰してる神は存在するんですか?」
「お前らの世界で力が有る『教会』を始めた奴は、神を見て、神を知っただろうが、伝え方が下手くそだったのだろう。神がいつも人の形の訳が無かろう。それは人の勝手な願いに過ぎん」
「神は本当は人の形では無いのですか?」
「そうさ。人に言いたいことが有れば人になり、狼に言いたいことが有れば狼になる。牛にも馬にも鳥にもなるぞ。この世界を真に作り出した源、そうした存在なのだろうと思うが、本当の所は誰にもわからん。人間に分かるはずがない。悩むだけ無駄だ」
「無駄ですか」
「そんな下らんことをする暇が有るのなら、食い物の心配をする方が先だ。人の群れは大きいが、飢えているものの数が多すぎる。狼の群れは小さいが、飢えているものなどほとんどおらん。おらん様にするのが、頭の役目だ」
「モナ様は、人ですか? 狼ですか?」
「たぶん狼だ」
「たぶん、ですか」
クヌートはそのアバウトさに、驚いている。
「だって、考えてもわからんからな。灰色の兄弟たちはずっと狼の形だし、グスタフはずっと人の形だ。どっちも兄弟で、近しいものだ」
やはり、船で見た狼たちは兄弟なのだ。父親が狼だと、ずっと狼なのだそうだ。
「人の兄弟は僕だけ?」
「人は穢れが多いからな。穢れの少ない、強い魂の男が見つからないとつがう事が出来ない。母のミナも色々探したが、フレゼリク以外、見つからなかった。清らかだったフレゼリクが穢れの波動を生じ始めたので、人の群れに戻したのだ」
モナの解説は分かりにくかったが、穢れの波動と言うのは執着心とか嫉妬とか独占欲とか、そんなもののように思われた。狼には存在しない複雑な穢れた感情は、負担であり、厄介な存在、そう認識されているらしい。ならば、僕だって相当に穢れているはずだが。
「僕だって、相当穢れているよね」
「ああ。穢れている。だが、お前は浄化の力も有る。それにお前は弟で有って、つがいではない。だから群れの中に入れて行けるのだ。沢山人の言葉で話したので、疲れた。用意が出来たら呼べ」
また、モナは急にいなくなってしまった。
「何というか、型破りな姉上ですな」
「噂をすると、また、ぬっとあらわれるから別の話ね」
クヌートはモナの話と僕のミズホ行きの話をしたいようであったが、先ずはここに来て貰ったそもそもの用事から片づける。クヌート本人がヨハンについてトリアまで行き、確実に大宰相と母上に渡すと請け合ってくれて、よかった。更にはグラーン侯爵夫人とも会って僕が謀反人扱いされた件を知らせ、セルマと子供らそれぞれに手紙を渡して貰う事、父上宛の手紙も直接御本人にお渡しする事を依頼した。
「皇帝陛下は、モナ様にお会いになりたいでしょうな」
「父上の方がモナに都合を合わせるなら、案外すぐに会えると思うよ」
モナにとって父上は親なのだ。群れに入れるわけでもないのだし、つがいとは条件も違うだろう。
ユリエは、何を支度したらよいのか、戸惑っていた。女ならではの月の物の事も、どうすれば良いのか密かに悩んでいたらしいのだが……モナはこんな風に言いきった。
「この北の大地では、人間も冬の間は月の物が無い。心配無用だぞ」
そういえば、聞いたことが有った。地球の極北の地に住む人たちの場合、冬の間は女性の月経は止まり男性の性的欲求も止まると。極度の低温と太陽光線の不足が、そんな現象を引き起こすのだろうか? ともかくもユリエの悩みごとの最大の物は解消されたようだった。
「身一つで良いのだ」
そう言い切られてしまえば、着替え一枚いらない事になる。だが極度の低温の中、着替えのために衣服を完全に脱ぐことも出来ないから、文字通り身一つで良いらしいのだ。
「お前が本当にグスタフと共に来る覚悟が有るか、否か、ただ、それだけが問題なのだ」
「その点は、大丈夫です」
結局、支度とはいっても荷造りは何もなく、ユリエはクヌートに託す手紙を書き上げただけだった。
僕らはソリに乗って移動するのだ。極北の民が使う犬ソリと同じ構造だが、もっと大きいのと、引くのが狼三頭で、操縦も狼自身がする、というのが違う。僕とユリエは体を並べて寝そべった。その上をモナがまっ白い毛皮で覆い、皮ひもでグルグル巻いた。僕らは暖かい毛皮の中で、殆ど芋虫状態だが、不快ではない。繭の中に居る幼虫の様な気分だ。
「ミナの毛皮だ。しばらく借りてきた。お前らは寒さに弱いから。使い終わったら、また、返す」
死んだ母親の遺骸を包んでいた毛皮なのだ。何か霊的な力でもあるようで、毛皮一枚なのに、外の寒さが嘘のように暖かい。暗い繭のような中で大半横たわっているだけなので、時間の感覚が次第に無くなって来る。耳には凄まじい風の音と狼たちの息遣いが聞こえるばかりだ。
幾度かソリが止まった時は、干し肉を渡された。ゆっくり噛んで飲み下せと言われた。モナが作ってくれたものらしい。何というか軽い漢方薬風味のジャーキー、そんな感じのものだ。水分補給は雪を舐める程度で、その為か排泄衝動も起きない。
「狼の兄弟たちは新鮮な生肉を食べるが、お前らには無理だろう」
確かに、難しそうだった。特に生の臓物は貴重で有るようだが、飲み下せる自信が無かった。それでも一度だけ、モナが細かく切って、海水で洗ったものを口に放り込んだことが有った。
「難しいかもしれんが、飲み下せ。さもないと、聖なる湖につくころには足が萎えてしまうぞ」
そう、脅されて食べたのだったが、洗ったせいか鮮度抜群のレバ刺しという感じで、旨かった。
「普通に美味いよこれ」
僕が言うと、モナは頷いた。
「貴重品だから分けてやったのだ。本当は血も飲み干せると良いのだが、無理だよな?」
唸り声を上げて、顔中血まみれで貪り食っている狼たちを見ると、さすがに無理だと思った。獲物はどうやらかなり大型の草食獣であったらしいが、もとの形はそこにはもうなかった。
そうやって狼たちがエネルギー補給を済ませると、また僕らは毛皮で覆われたそりに寝そべる。そしてまた、白い大平原を突き進んで行くのだ。一人でこの状態だと、気分的にきつかっただろうが、隣がユリエなので、安らかな落ち着いた気分で居られた。
「まるで母親の胎内に逆戻りしたような気分です」
そんな風に言ったユリエの言葉に、僕も賛成だ。
以前の説明通りなら、一月ほど、走り続けたと言う事だろうか。急に雪の少ない森の中に出た。
「ここなら、コケモモの類や、魚ぐらいあるぞ。火も使える。毛皮の交易で手に入れたミズホの服なら有るしな」
モナが僕らに使う事を許した丸太小屋は、毛皮の交易のための物らしい。木の皮で屋根を葺いてあり、煮炊きをし、暖房の役目も果たす炉があった。僕らのためにわざわざ、鉄なべも一個用意されていた。
「お前らの好きな、ぐたぐた柔らかい食い物も、これが有れば出来るのだろう?」
モナは汁物とか、煮物は嫌いなのだ。なじみが無いらしい。肉は新鮮な生が最高に美味いので、調理など保存のために干し肉を作る時ぐらいしか、しないものらしい。後は、魚を串刺しにして焼くぐらいだとか。小屋の使い方を僕らに教えた後は、モナは狼の姿に戻った。
「美味そうな獣を腹いっぱい食う」予定らしい。冬眠から目覚めて活動し始めた森の小動物が、かなりいると言う。狼の兄弟たちと一緒にじゃれているモナは楽しそうだ。
狼の姿のモナは僕とはスムーズに意思疎通が出来るが、それ以外の人間とだと「ひどく疲れる」らしい。出来ない訳では無いが、込み入った話はしにくくなる。どうしても必要最低限のメッセージ程度になりがちだ。
ユリエは丸太小屋を綺麗に整頓し、限られた食材でなかなかに美味い食事を用意した。僕はモナに貸してもらった釣竿で、魚を釣りに神聖な湖に毎日出かける。ミズホからの大鳥の到来を待っているのだ。人を背中に乗せると言うのだから、相当な巨体だろう。
鍋に煮えたスープと、魚、焼いた芋や山菜の類、そんな食事をゆっくり食べ、炉の火を見つめながら、身を寄せ合って語り合い、眠る。とても安らかな時間だった。ソリで極寒の大平原を飲まず食わずの状態で突き進んだ時の疲れも、徐々に癒された。
「何だか、いつまでもこんな具合に二人で静かに暮らすのも悪くないなと思うよ」
「でも、帝国の皆様は御無事のお戻りを待っておられるでしょう」
「子供らは大丈夫だろうか」
「モナ様が『大事無い』と請け合われたのですから、きっと大丈夫でしょう。セルマ様は注意深い方ですし、侯爵夫人は頼りになる方ですから、万が一怪しからんはかりごとが有りましても、守って下さるでしょう、陛下は殿下と殿下のお子達が大切でいらっしゃるのですし、及ばずながら私の父も精一杯勤めましょう」
確かにそうだ。だが、母上はあまり頼りにならない。それはまあ、自業自得と言うものだが、アネッテは正妻なのに大事な話から外されている格好で、気の毒に思う。そうだ。僕はこの世界で、色々な人と深くかかわってきたのだ。何も無かった事には出来ない。僕は……ただ、好いた女と二人きりで静かに暮らしていたかっただけなのだが、そうもいかない境遇なわけで、今度は何がどうなるのかさっぱりわからない。
前世で事故に逢わなかったら、平凡だが心穏やかな毎日を送る事が出来たのだろう。何の因果で、このルンドに生まれ変わる羽目になった物やら。神様の勝手だか不手際だか知らないが、恨んでばかりもいられない。実際悪い事ばかりでもなかったし。それなりに充実した忙しい毎日を送ってきた。
「つかの間の休暇みたいなものかもしれないな。だから、普段考えない様な事まで考えたよ」
「前世の事を思い返されましたか?」
「うん。気楽な一般庶民だったからね」
「百年後に御光臨あそばす皇后となられる方の事が、今度はわかるかもしれませんね」
「そんなに先の事なんて、わかったとしても、まるで人ごとだな」
「私の寿命は尽きているでしょうね。お妃様方も、私よりは皆様お若いですが……御存命とは思えません。でも、殿下がおさみしくなくお幸せになれるとわかっておりましたら、安心して死ねるような……」
ああそうだ。ユリエは自分で言っていた。八十歳かそこらで亡くなるだろうと。僕は置いて行かれる。そうしたら、会えないのだ。
「いやだ、ユリエ、そんな話をするな」
「私の子や孫が、お仕え致しますように、私は出来る限りのことを致します」
「子や孫は、別の人間だ。ユリエの代わりになんかならない。僕もモナみたいに自分の寿命を決められるようにならないだろうか? そうしたら、すぐにユリエの後を追える」
「殿下……」
数日して、モナが人の姿で久しぶりに現れた。
「おい、夜明け方に大鳥が湖についたぞ。話をしに行こう」
僕とユリエは、モナの後について湖に向かった。まだ、夜は明けたばかりで、様々な鳥の羽音がする。その中に、一際大きな音がして、僕は驚いた。
「あれは……」
「白い大鳥の羽音だ。ほら、見てみろグスタフ」
モナが指差す湖面に、真っ白い鳥がいた。鶴のような頭と長い首で、白鳥を思わせる体だ。周りの鳥たちが胡麻か芥子粒のように見える。
「デカいなあ」
僕の声に、白い大鳥が反応した。
耳をつんざくような、高い鳴き声を発した。そして驚いた事に、大鳥はいきなり高く飛び立って、凄い羽音を立てながら、僕の顔をじっと見下ろしたのだ。