僕の外遊、あるいは漂流・2
「ううっ、ぎ、ぎぼじばるい、ううう」
「ほれっ、振り落とされんなよ」
スタビライザーなんてついてない、ちょっと大型の漁船程度の船だ。話には聞いていたが凄まじい揺れで、僕ら一行四人は吐きっぱなしだ。空は真っ暗じゃなければ、微かに鉛色になる程度で一日中暗い。家康師匠の心配りで僕は非常に防寒効果の高い毛皮のコートを着ているが、それでも寒い。風が強いせいで体感温度がよけいに低いのだろう。コートに覆われていない部分は、どこもかしこも寒さでちぎれてしまいそうだ。
「おおう、ウサギが飛んでるぜ、気をつけろ」
三角の波のてっぺんが白い飛沫を飛ばして、数限りないウサギが広い原っぱを飛び回っているような、そんな波の状態になったら、突風の前触れなんだそうだ。何とも有りがたくないウサギだ。メインマストが不気味な音を立ててきしむ。船底に叩きつける様な波の音がして、船の速度が急に上がって、凄い衝撃が船体全体に走った。僕らは船べりに体を半ば縛りつけていたが、甲板を歩いて居た屈強な男たちが、豆粒か何かの様にはじけ飛んだ。
「うっ、痛えな。頭をぶつけちまった」
「もう少しで、冷たい海に放り出されるとこだったぜ」
「お、おい、ありゃあ、なんだ!」
船の行く手を塞いだのは小山の様な巨大な氷の塊だった。
「ひょっとして、ひょっとするのか?」
「ひょっとするぞ」
吹きすさぶ烈風の中で震えあがりながら聞いたのは、遠吠えだ。犬かと思ったが、犬のはずがない。
「狼だ、白い狼だ!」
「で、出たー」
真っ白い狼がいきなり船に飛び移った。続いて二匹の灰色狼までやって来たのだ。狭い甲板は、いっぱいいっぱいだ。海を渡って船に乗り移る狼が並みの狼の訳は無い。三頭とも銀色の不思議な光り方をする眼をしている。体も、僕の知っている普通の狼より一回りは大きいようだ。やっぱり噂の狼なんだろうと思っていたら、いきなり脳裏に言葉が飛び込んできた。テレパシーか。白い狼の思念だ。
(おい、兄弟。やっと見つけた)
(やっぱり、君は僕の兄さん?)
(失礼な。姉さんだ)
(あ……そうなのか)
(弟、あれはお前のつがいか? あの女知ってるな、事情を)
(つがいって、よくわからんが,僕の子供を産んだ女だ)
(ふーん、生意気にコブつきか。若い男はあれでも一応弟らしいが、血の匂いがお前と随分違う。変な奴もいるな。あの灰色の髪の男だ。アイツには何も言うなよ。ラナに行くんだな?)
(そのつもりだ)
(大事な話があるが、今日は伝えるのを止めておく。ラナで会おう。船は進めてやるから、安心しな)
狼三匹は、去った。いつの間にかかき消すように大きな氷山も見えなくなった。
「狼たち、黙ってましたね」
「ユリエには聞こえなかったか? 直接心のうちに話しかけてきたのだったが」
「残念ながら、まったく分かりませんでした。狼は……御兄弟でしたか?」
「白い狼が姉さんだと名乗ったよ」
僕らは三日三晩嵐に揺られていたわけだが、その後は嘘のように揺れが収まり、大した風も無いのに潮の流れが速まり、船は一路ラナの方角を目指した。
「俺も随分長い間ここらの海を見てきたが、こんな奇妙奇天烈な事は初めてだぜ。あの狼、あんたの何なんだ? まさかとは思うが……」
「まさかかも知れないが、内密に頼む」
「この年まで生きてきても、まだまだ、世の中訳の分からん事が多いんだなあ」
静かになった晩から、まともに飲み食いが出来るようになった。と言っても、せいぜい乾パンに干し肉にリンゴ、そして茶だが……これでもこの船では良い食事の方らしい。翌日も丸一日船の上で過ごし、夜にはラナに到着という予定だったが、着岸を目前にして、僕ら四人だけが体がしびれてしまった。
「お、おい、お前さんたち、どうなっちまったんだ」
「し、しびれ薬……だ」
「誰かに仕込まれたって言うのか」
僕が微かに首を振ると、ハルドル船長は驚いたようだった。
「犯人なんて、あの灰色の髪の小僧っ子しか考えられねえや」
「あいつ、俺らの手伝いをするとかなんとか言って、茶を淹れたりしてたもんな」
「俺が声をかけた時、妙にオドオドしていたことが有って、気に入らなかったんだよな」
ハルドル船長は自分の船でおかしな事をやる者が居たのが、許せないようだった。
「あのガキをふんじばって来い」
「いけね、船長!」
「あいつ!」
救命用の小さなボートが、無断で持ち出されていた。素人でも着岸出来そうだと目星が立つ海域に来たら、さっさと逃げ出したようだ。
着岸したら、いきなり兵士が踏み込んできて、僕ら四人は縄を打たれて囚人護送用の馬車に突っ込まれてしまった。体がしびれて、思うように動けない。ハルドル船長たちは、急いで海に逃げ出した。
「こいつらは謀反人だ。急ぎサルテンまで連行しろ」
そう号令をかけた十人隊長らしき男は、何の疑問も感じていないようだった。皇太子がこんなところに居るはずがないと思っているように見える。
サルテンには今の城主であるクヌートも関知しない様な、古い地下牢や土牢が残っているはずだ。そのどこかに閉じ込められてしまったら、厄介だ。すると、兵たちが悲鳴を上げた。いきなり矢が降ってきたのだ。極北の地に住む民の使う矢だ。
(弟、どうした? こんな奴らにやられるとは)
(うっかり、しびれ薬を飲まされた)
(間抜けな奴だ)
(確かに、悔しいがその通りだ)
(おい、弟、こいつらはお前のしもべではないのか)
(そうなんだが、僕らの顔を知らないんだ)
(主の匂いもわからん、愚かな人間どもだな。誰かお前の顔を知っているまともな奴は居ないのか?)
(サルテンの城主は、クヌートと言って僕の友だ)
(じゃあ、そいつを呼んでやろう)
ウヲーーーーン、ウヲーーーン
白い狼、いや姉さんが合図すると百頭ほどの狼が一斉に吠えた。その声に合わせて、武装した北の民が雄たけびを上げる。兵士たちは、震えあがった。
「サルテンの城主、クヌートを呼べ」
姉さんが命じると、兵士たちが体を震わせながらも口々に言う。
「無理だ、サルテンなんて、どんなに急いだって三日がかりだ、うそじゃないぞ」
「そ、そうだ。本当に無理なんだ」
「お前らが押し込めたのは、黄金の髪・碧の眼のグスタフだぞ。なぜ押し込める」
すると兵士たちが騒ぎ始めた。
「黄金の髪で目が碧のグスタフって」
「せ、摂政殿下か?」
「おい、金色の髪だったか?」
「分からん、フードで隠れてたからな」
「目は碧だったぞ」
「お、おい、誰か摂政殿下に拝謁したことのある奴、居ないのか?」
「ラナの守備隊長が自慢してたぞ、拝謁したことが有るって」
「呼んで来い、早く」
しばらくして、馬でその隊長らしき男が駆けつけて、護送用馬車の中の僕らの顔を確かめた。
「おおおっ、こ、皇太子殿下、一体どうした事でしょうか。なぜ縄など打って」
隊長は周りの皆を叱りつけた。急いでラナで一番まともな馬車が用意され、僕らはラナの守備隊本部に入った。狼たちは遠巻きについてくる。
縄をほどかれてすぐ、ユリエの持っていた薬を皆飲んで、しびれは完全にとれた。
「僕を謀反人呼ばわりした十人隊長らしき男は、どこだ」
「そ、それが……」
兵士たちが騒ぎ始めた所で、逃げ出したらしい。
「おい、弟、そやつ、つかまえたぞ。受け取れ」
良く響く声に、驚いて外に出ると、銀色の瞳で銀色の髪・白い毛皮の極北の民の服を着た少女が、僕らをいきなり犯罪者扱いした十人隊長を皮ひもで縛り上げて連れてきた。
「姉さん?」
「おうよ。この格好は初めてだったな。お前だけに大事な話が有る。人払いってやつを頼むぞ」
「で、殿下この少女は……」
ラナの守備隊長は北の『蛮族』のなりをした美少女に、目を白黒させている。
「姉上だ」
「そ、そうなのですか?」
守備隊長は訳が分からないと言う表情で、革ひもで後ろ手に縛られた十人隊長を引き立てながら、ユリエ・ヨハン・サウリを促して隣の部屋に行った。
「姉さん、姉さんの名前を教えてよ」
「名前なぞどうでも良いと思うが、無いとお前が困るならモナと呼べ。ミナの娘モナだ」
「ミナとおっしゃるのが、お母さん、ですね? お元気なんですか?」
「子を産んだら、十五回目の夏が過ぎるころには、死ぬのが我が種族では当たり前なのだ」
「そうなのですか……」
「生きているのに飽き飽きしてきたら、子を産むことになっているのだからな、お前が悲しむ事でもない」
「ですが、父が……フレゼリクが、とても会いたがっていたようなのです」
「ミナは会う気は無かった。そんな事はまあ、良い。先ずは大事な話だ」
父上の思い出が『そんな事』で片づけられてしまったが、大事な事の中身が、さっぱり見当がつかない。
「夜空にはためく光を見る事三十回以上の日数走り続けた場所に有る聖なる湖で、白い大鳥から聞いた。ミズホの霊山の聖なる石が輝きはじめたそうだ。人の世にいる白き狼の弟であるグスタフしか触れる事を許されていない石だ。お前が聖なる獣であり聖なる人であり、真の神と言葉を交わせる唯一の存在だからだ。お前は霊山に登り、聖なる石に触れながら、人の世でお前がこれからどう過ごすか、真の神に答えなければならない。その事はこの世界・ルンドの運命にも大きく関わる事なのだ」
「僕はミズホに行って、霊山に登らねばいけないのですね?」
家康師匠の持っている交易船に乗れば、一月程度でミズホに着くだろう。
「最も穢れを帯びない、最も清らかな道筋をたどらねばならん。人の使う船は、あまり向かない乗り物だ」
モナが言うには、狼たちと一緒に聖なる湖に行き、そこからは白い大鳥に乗って霊山に向かう事になるらしい。そこまで、僕一人で赴く必要が有るようだ。
「僕一人で、霊山に向かう必要が有るんですよね?」
「お前のつがいなら、連れて行けるぞ……子を産んだつがいは二人か。そのつがい自身がお前について行きたいと強く思わなければ、大鳥は背に乗せてはくれないだろうがな」
「つがいの身に、何か変化が起こりますか?」
「お前の変化は必然だが、つがいは変化を望まなければ、変化しない」
「大きな変化を望めば?」
「つがいの魂の力によりけりだが、余りに大きな変化を無理に望むと人ではなくなるかもしれん。それ以上はわからん」
「僕は絶対、行かなくちゃいけないんですよね」
「聖なる石はお前を呼んでいる。応えるのが、お前の務めだ」
「いつ出かけますか?」
「今すぐ、でも構わんが、つがいがどうするか聞いておかねばならんだろうし、人には狼には必要無い支度なども有るのではないか? ひ弱な匂いの……ヨハン……とか言う弟も親の所に送り返さねばならんだろう」
「ヨハンは、ひ弱ですか?」
「北の大地は受け入れないだろう。帝国であれを待つ者が居るはずだ。早く戻してやれ」
「サルテンのクヌートをここに呼んで、間違いのないように手筈を整えたら、行きます。でも、どうやって行けば良いのですか?」
「聖なる湖までは姉が送って行くと、さっきも言ったはずだ。支度が出来たら、夜空にはためく光に向かって『ミナの娘モナ、グスタフはここだ』と三度叫べ。すぐに来てやろう」
夜空にはためく光とはオーロラの事のようだ。
僕はクヌートの到着を待った。ヨハンを安全に確実にトリアの両親のもとに送る手はずを整えるためだ。
守備隊の宿舎は、質素な宿だったが、十分に暖かく快適だった。
「ユリエはどうする? こうやって屋根のあるまともな建物で過ごす事など当分は出来なさそうな厳しい道のりの様なんだが……」
「ついて行く事をモナ様は認めて下さったそうですから、ついて行きます」
「当分食べるものが生肉とか生魚の冷たいのばっかりになるし、風呂だって無理だ。一日中暗くて、時折オーロラがはためくだけの白い大平原をミズホへ向けてひたすら進むことになるだろうが、耐えられるかな?」
「そのような場所でも極北の民は生きてきたのでしょうし、殿下のお傍に居る事が出来るのですもの。大丈夫です」
赤々と燃える暖炉の火の前に、大きな毛皮を敷いて、僕たちは寄り添っていた。考えてみれば、ユリエはもう三十を超えたのだったが、そうは見えない。寧ろ昔より艶やかな美しさが増したように思う。
「どうなさいました?」
「ユリエって、昔よりもっときれいになったなって、思っていた所だ」
「まあ……それはそうと、しびれ薬を仕込んだ少年は大本山の手の者だったのでしょうか?」
「その可能性は高いな。僕がレーゼイ商会を頼ってミッケリを離れるとしたら、このルートも有りえると言う事で、あらかじめ準備していたんだろうな」
「ネスの派閥ですよね、やはり」
「だと、思うけどな。坊主はどの派閥だろうとあまり信用できないと思っているよ」
「クヌート様なら、ヨハン様を守ってくださいそうですね」
「うん。信用できる。ねえ、ユリエ」
「はい?」
「僕がきれいだって言ったのに、軽く流したね」
「あ、すみません」
「言われ慣れてるからな」
「ああ、申し訳ございません」
「本当に、そう思うの?」
「ええ。少しは」
僕らは顔を見合わせ、クスクス笑いながら、ごく自然に互いを抱きしめあった。