嵐の前の静けさと僕・3
僕の弟が犠牲に……直接表記は避けましたが、性的な犯罪行為についてです。
「大本山へ、ですか? いや、ヨハンは大宰相、あなたの跡継ぎだから僕がどうこう言う立場には無いですが、なぜまた急に?」
「急でもなく、随分以前から話はございました。本人も希望しておりましたので」
何と大宰相はヨハンを神聖教会大本山の神学校に留学させるのだと言う。
「失礼ですが、学問と言うなら、最近は帝国、それもこの都であるトリアが一番盛んだと言っても良い状況です。我が国では自由な論議も出版の自由も許されておりますから、皆のびのびと研究に励んでいます。自由な気風に引かれて、外国からも多くの優れた学者が集まっていますよ」
「はあ、ですが大本山から見れば異端、あるいは邪教と見なされるようなものも御座いますから」
「僕がミズホの飲食物や武術を好んだり、父上が異教の音楽を嗜まれたりするのは、怪しからんですか?」
「そ、そのような事は思ってもおりません」
慌てて大宰相は否定したが、そう言う意見を口にする保守派と大宰相は、親密なのだ。大宰相は愛人関係に過ぎない母上との仲を「祝福された縁」であると言い切って擁護したネスの配下の聖職者たちに、大いなる「借り」が有ると感じているのだった。教会との間が親密とは言っても、現在の大聖の支持母体である親ミッケリ派に属するグラーン侯爵夫人とは大きく事情が異なる。親ミッケリ派は「ネスが大聖猊下のお命を狙い、毒を使った」と信じている者が大半らしい。セルマの敬愛する修道女なども、ハッキリ口にこそしないが、ネスの暗躍が有ったと確信しているらしい。
帝国の超保守派の老人は「百年ぶりの帝国出身の猊下」が登場することを熱望しており、ネスはそうした老人達の機嫌取りが上手いようだ。父上に言わせれば「あざとく見え透いた機嫌取り」なのだそうだが。ネスは帝国の貧農の息子で、当時の教会の有力者の寵童となって、出世の糸口を掴んだとも言われている。
「ならば、神聖教会の教えを国教から外したのが、怪しからんですか?」
「国の発展、と言う事を考えますと、御聖断であったかと」
顔を見た限りでは、まんざら嘘を言っているわけでも無さそうだった。
「ではなぜ?」
「その、外交においても複数の国家間の釣り合いと言う点は無視できませんし……先進的なのは宜しいでしょうが、その、過激だとか急進的だとか諸外国に受け止められるのは、好ましくは無いかと……」
どうやら、大宰相は自分の息子を神聖教会に送り込むことで、疎遠になった教会を国教としている国々との外交関係を修復するのに役立てようとしているようだ。
「スコウホイで民衆を巻き込んだ反教会の動きは、大本山を焦らせているでしょうね」
「罪の償いを可能にする『御札』を批判した聖職者を帝国が保護した……そう、大本山は受け止めております」
そう言い切るからには、大宰相は最近、大本山側の人物と接触したのだろう。
「僕はスコウホイの大本山に対する怒りの感情は、当然と考えています。ソフス・ネスはろくでもない破戒坊主ですし」
大宰相はネスが金に汚い事は知っていたが、怪しからん性癖については殆ど何も関知していなかったのだ。ネス本人が寵童上がりであると言う噂を、知らない訳でもなかろうに……
「ですが、そのネス大主教が新たな大聖猊下になるのは、ほぼ決定事項の様に私は聞いております。確かに悪い噂も有るようですが、事実と言う訳では無さそうでして」
「いや、僕は単なる噂だと思ってない。実際、胸糞悪いものをネスから感じたし。十分に調査をすべきだと思う。あんな男の側に送り込めば、ヨハンが危険にさらされるんじゃないのかな?」
大宰相には僕の微妙なテレパシー能力について何も話していない。だから、ネスの奴が帝国にいたころ、僕を見て、あれこれ胸糞悪い事を思い浮かべていた……なんて、言う訳にもいかない。
「殿下がそこまでおっしゃるからには、しかるべき根拠がお有りでしょう。確かに慎重で有るべきですな。しっかり調べることにいたします」
僕は大宰相の実務的な手腕を高く評価していたし、おためごかしの適当な返事をするような人ではないと信じているので、安心したのだったが、こと、家庭問題となると、厄介な要素を考えに入れるべきだった。
そう。母上だ。
何とその日のうちに母上が、ヨハンを送り出してしまっていたらしい。しかも早舟で。後から聞いた話では、こんな言いぐさであったようだ。
「あら、新しく大聖猊下となられる方から直々の御使者がいらして招聘状を頂いたのよ。旅の準備はすっかりできていたし、御即位の式典には間に合わせたいってお話だったし、何より元々はエリクだって大賛成だったでしょうに、グスタフに何か言われたからって、それほど気にする事かしら? 何しろグスタフは父親に似ちゃって、罰当たりな異教徒の様な所が有るのよ。新たに猊下になる方が、怪しからん事をなさる筈が無いわ」
まだ、虫の息とはいえ現・大聖は生存していると僕は聞いている。母上の色々と無神経な言葉は、宮中にかなりの数存在する親ミッケリ派を激怒させるだろう。そんな事より、ヨハンは大宰相の後継者だ。いかに母上が産みの母で皇后とはいえ、最終確認を大宰相に取らず送り出したというのは、どう考えてもまずい。
そもそもいくらヨハンが帝国の大宰相の息子で、僕の弟だからと言って、わざわざ使者まで立てて、せっつくなんて、胡散臭いとは思うのだが……母上の神聖教会に対する感覚は僕や父上とは大きく違うのだろう。子供の父親である大宰相の認証より「次期猊下のお招き」の方が重大だと、本気で思っていたようなのだ。呆れた事に母上は神聖教会の坊主どもが文字通りの聖職者で、「立派な方ばかり」と本気で信じていたのだった。
僕は母上の怒りを買ってやめさせられた使用人たちを、追跡調査した。どうやら教会の連中の行動に関して目撃したことを母上に報告したら、「聖職にある方に不敬である」という理由で怒りを買い、やめさせられた者が五人ほどいた。いずれもヨハンの身近に仕えていた者たちだ。
「おかわいそうに。ヨハン様は明らかにあの穢れた糞坊主に、酷い目に逢わされていらしたに違いないのです。秘跡を授けるとかなんとか言って、糞坊主はヨハン様の寝室に入り込んで、ずいぶん長い間出てこない事がございました。シーツに血が付いていた事もありまして、私は許される限りの遠回しな言い方ですが、坊主に向かって言ってやった事も有ったんですよ。幼いお子様が出血なさる秘跡って、一体なんですかとね」
一番はっきり、一番きつい調子で坊主を非難したのはスコウホイ出身の老女だ。生まれてから「ヨハン様が毒牙にかけられた直後」まで仕えていたらしい。彼女は真実を母上に語ったところ、母上の怒りを買い、大宰相邸を追い出されたのだった。
宮中の庭師を止めさせられた男はこう証言した。
「ヨハン様は、あのネスの野郎に呼び出されると、何もかも諦めたと言うか、お子様にしてはくらーい、そう、陰惨と言ったらいいんでしょうか。貧しい家の子が売られて行く時だって、ああまで陰気な顔つきにはならんと思うんですけどね。そんな顔つきになられます。その……ネスの野郎のせいで、一度などはあずまやで、貧血を起こされて倒れられたんですよ。幾度か悲鳴を上げられて『助けて兄上』とおっしゃった事も御座いましたっけ。でも、俺が、皇太子殿下にお話しようとしますと『お願いだから、言わないで』とおっしゃったんです。その……御自分が穢れたとお感じになったんでしょうな。『兄上に軽蔑されたくない』ともおっしゃいましたから……でも、申し上げた方が良かったんでしょうね。俺はヨハン様がお気の毒で、糞坊主の与える『秘跡』の中身について、皇后さまにお話ししたんですが、信じていただけなくて……職を失ったってわけです」
僕は自分の迂闊さが、許せなかった。今となっては後の祭りだが。
五人の話は時期はバラバラだったが、ネスの与える『秘跡』なるものの胡散臭さと罪深さに関しては、同じ意見だった。どうやらヨハンは家庭教師となった坊主の手引きで、ネスの毒牙にかけられたようだ。そして、ネスはヨハンに強く執着しているらしい。
僕は同性愛だろうと異性愛だろうと、相手の気持ちを無視して強引に事に及ぶのは全部アウトだと思っている。しかもヨハンの場合は、完全に性的虐待の被害者だ。母上の妄信の所為で真実を打ち明けられなかったのだ。だって、本当の事を言った使用人は、皆、仕事を辞めさせられたし……僕も気が付いてやれなかった。
僕は調査結果を大宰相に見せた。
「どうやらネスの奴、怪しからん性的虐待を『秘跡』と称し、『婚姻より神聖』な『神の恵みを与える秘儀』とか言ってたようです。どうやら皆の話を総合すると、もう五歳ごろにはハッキリ兆候が表れていたようです。僕は……悔しいですよ。大宰相はヨハンを寵童として、奴に差し出したんですか?」
大宰相はショックを受けたようだった。顔が蒼白だった。そして僕に、事実を母上に説明する手助けをしてほしいと頼んだのだった。
「母上が事実を知らせてくれた者たちを、追い出したりなさるから、事態がここまで悪化したんですよ。それとも母上は奴の『秘跡』とやらが素晴らしい事だとでもお考えで? ヨハンを大聖猊下の寵童に差し上げると、御自身の罪が全て許されるとでも思ってらっしゃいますか?」
母上は調査結果を突きつけられて、半狂乱になった。僕は責めるのを止めた。僕も無罪ではないのだ。
「どうやらネス自身も教会の坊主の寵童になった事がきっかけで、成り上がったようですからねえ。奴はヨハンを『愛している』とかうそぶいたらしいですが……他にも寵童はいるのに、遠く離れた帝国から無理してわざわざ連れ出す程、執着しているのです。下手すると、自分の様に高位の聖職者にして、いずれは大聖猊下に据える、なんて考えているかもしれないのですが……それをどう考えますか? 僕は不信心者ですから、すぐにでもヨハンを取り返したいです」
母上は「ヨハン、ごめんなさい、ごめんなんさい」と幾度も繰り返している。もはや冷静に話を出来る状態ではなった。
大宰相は蒼白になりながらも、冷静な声で言った。
「陛下に……事実経過を御報告し、どうするか決めましょう」
僕と大宰相の話を聞いた父は「新・大聖猊下の最愛の寵童ならば、帝国の貴族なんかより将来有望かも知れんぞ。大宰相は他にも息子がいる事でもあるし、あきらめるか」と、冗談めかして言った。
「それが事実であっても、やはり僕はあの子を連れ帰りたいです」
「そのネス大聖猊下の即位式は近いうちに行われると聞いているが、そうでもないという噂も有る。色々大本山は揉めている真っ最中らしい。仮に即位式が行われたとして、式典をぶち壊し、ネスの悪行を明らかにしたら……グスタフ、お前でも無事ではいられまい」
そうなのだった。僕が大宰相と母上を納得させる証拠固めに時間を取られている間に、事態はより好ましくない方向に変化していた。
「皇帝として言わせてもらおう。グスタフは摂政だ。摂政たるグスタフが国を空けるなら、それ相応の理由も事情も無くてはならん。弟を苦しい状況から救ってやりたいという気持は分かるが……両親が半ば納得して自分たちの息子を大本山に送り出してしまったのだ。それが誤りであったと分かった時点で、先ずは親自身が子供を取り返す為の努力をするべきだろう」
危険が一杯の中に、僕を送り出す事など出来ない。僕は……自分の跡取りで、摂政で、国家運営に不可欠な存在だが、大宰相の息子のことは私事にすぎない。それが父上のお考えであり、立場なのだった。
「父上、グラーン侯爵夫人の力を借りることは、できないでしょうか」
「さあなあ。あれは、案外、グスタフとは馬が合うようだな。大本山の裏側を引っ掻き回すような、うまい方法が見つかれば、あるいは大宰相の跡取りも連れ出せるようになるかもしれんな」
そう。父上は必ずヨハンを「大宰相の跡取り」、そう呼ぶのだ。母上と大宰相に対する屈折した感情の表れだろう。
それ以降、グラーン侯爵夫人の力添えのおかげも有ったのか、ミッケリ出身の猊下は生死の境をさまよいながらも三年近くも粘ったようで、ネスの即位式は何と、僕が十六歳になっても行なわれていない状態だった。その間のヨハンの動向は殆ど何もわからなかった。ただ、生きていると言う事以外は。 大宰相と母上は、めっきり老け込んだ。自分たちの所為で、息子が辛い毎日を送っているのは確かだったからだ。僕も侯爵夫人の伝手や、家康師匠の商売仲間の縁を頼りにヨハンを連れだせないか色々探ったが、すべて不発に終わった。幾度か救出を待つように励ますメッセージも送ったが、果たして届いたのかどうかも不明だった。どうやらネスは身近にヨハンを置いているようだった。
「殿下、今度こそ本当にネスが即位する様です」
僕が十六歳になってすぐのある日、あたふたという感じで、大宰相は自分あての密書を僕に見せにやって来た。大宰相も独自のルートを使って粘り強く工作を続けた結果、ネスの侍僧の一人から情報の提供を受けられるようになったのだという。
文中には、今度こそ確実にミッケリ出身の猊下が亡くなった事、ネスの反対派は切り崩され即位の脅威にはなりえない事、そしてヨハンは……ネスと起居を共にしている事が書かれていた。
「ヨハンは……完全に寵童にされてしまったようですな」
「大宰相は、取り返すことをあきらめたのですか?」
「あれからの手紙も何もありませんから……あれ自身が良ければ現状を受け入れますが……」
「そんな、そんな馬鹿な話は無いと僕は思います。ヨハンは犠牲者です」
僕の顔を見た大宰相は、ひどく悲しそうだった。
「……正式に、帝国からのどなたかの即位式への御出席を要請する使いが来るかと思いますが……どういたしましょうか?」
「ネスの希望は?」
「先ず第一に摂政殿下の御来臨を希望しています。その……ヨハンの希望なのかもしれないのですが」
僕が送ったメッセージが届いているなら、やはり僕自身が助けに行きたい。そう思うが……どうしたものだろう。
いよいよ、次は嵐の予定です。