嵐の前の静けさと僕・2
父の脳裏に広がる景色の秘密
「兄上……」
「兄上!」
「殿下」
三人の弟たちは、良く一緒にいる。僕より六歳下の大公殿下と呼ばれているロルフ八歳と、グラーン侯爵夫人腹のコリング伯爵マウリ七歳、そして大宰相と母上の子であるアンホルト子爵ヨハン七歳だ。
不祥事の後ロルフとヨハンの乳母は解任され守り役が付けられたが、マウリの乳母は健在だ。この乳母はグラーン侯爵夫人を崇拝し、皇后である母上の事が感情的に嫌いらしい。まあ、そうなるもともとの原因は母上の目下の者に対する心配りが欠けていた事が原因なのだろうが、その感情をマウリに吹き込んでいるのは問題だろう。
三人とも僕から見れば弟なのだが、皇帝である父上の血を引かないヨハンがいつも遠慮がちであるのと、ロルフが他の二人に対して高圧的であるのが気になる。それでも良く一緒にいるのは、兄弟であると同時に数少ない同性の遊び相手でもあるからだろうか?
今日もそれぞれの供を振り切って、中庭の人目につきにくい花園で群れていたのだろうが……
「何か喧嘩でもしていたのかな? 兄弟はやはり仲良くなくてはいけない。特にお前たちの様な特別な身分に生まれついてしまったものは、些細な争いが国の乱れを呼ぶのだ。よくよく心しなさい」
「けんかなどしておりません。ただ」
「ただ、何だロルフ」
「これらが分をわきまえぬ無礼な言葉を吐きましたので、少し懲らしめました」
「大公殿下は、先生からの宿題をさぼっておられるのに、僕やヨハンが勉強不足だなどとお門違いな事をおっしゃるのです。本当の事を申し上げただけなのに、僕の頬をお打ちになり、ヨハンを足蹴になさいました」
「それはロルフが良くないな」
「ですが兄上、こやつら、特にこのマウリは無礼です」
「無礼であっても、事実無根の言いがかりと言う訳では無いのだろう? それに人の顔を打つのはいけないな。僕は自分の侍従でも女官でも、あるいは平民でも一度も打った事は無いぞ。身分を笠に着て、暴力を振るうなど、人として最低だと心得なさい」
「でも、兄上!」
「ロルフは揉めるぐらいなら二人と遊ぶのをやめて、勉強や武芸に励みなさい。それに無礼な口を利いたのはマウリなのだろう? なぜ、ヨハンまで蹴るのだ。ヨハン、おいで、蹴られたのはどこだ。ここか。痣になっているではないか。痛むか?」
「大丈夫です」
「ヨハン。ロルフが滅茶苦茶な事を言っているのに、我慢する必要は無いのだぞ」
「そうなんです。大公殿下は横暴で滅茶苦茶なんです」
「マウリ、お前もそう思うならロルフの真似はしないように。目下の者には思いやり深くなければいけない。それにマウリ、同じ注意をするにしても、人を怒らせない言い方を考えなさい」
僕はヨハンを背負った。マウリは乳母が引き取ったので、ロルフの手を引いて母上の所に行った。
「母上、ロルフの目下の者に対する態度はいささか問題です。僕の控えなのですから、もっとしっかりしてもらわないと」
控え、とは世継のサブというほどの意味で、嫡出の二男は皇太子の「控え」と見なされるものなのだ。
「そうは言うけど、グスタフ、この子は学問も武芸もからきし駄目よ。全くもう、誰に似たのかしら。お前の控えなんて絶対勤まらないわ。ヨハンの方が年下でも出来が良いけれど……皇族では無いからねえ」
弟たちのおかしな関係の元凶は、母上なのだった。
「僕が規格外で、おかしな存在なのです。ロルフだとて、心を入れ替えればもっとご期待に添えるようになりましょう。母上……ロルフなりに辛いのだと思います。弱い立場の者に八つ当たりというのは頂けませんが」
そこへ大宰相がやってきた。いや、殆ど最近は母上と夫婦の様な暮らしぶりらしいから、戻ったというべきか。僕はなるべく感情を込めないで事実のみを、大宰相に伝えた。すると大宰相は声を荒げた。
「これ、ヨハン! お前は皇族ではないのだ。臣下としての身の程をわきまえて、日々過ごさねばならん」
「大宰相、それではあまりに……」
「そうよ、エリク、悪いのはロルフなのよ。八つ当たりして弟を蹴るなんて、ロルフが怠け者なのが元々の原因でしょうに。おいで、湿布を張ってあげるわ」
その母上に大宰相は何も言えず、母上の後をついて行く。
ロルフは嫌悪感をあらわにして、震えている。
「け、穢れた庶子のくせに」
「ロルフ!」
「だって、兄上、そうではありませんか」
「そうではない。それは違うぞ、ロルフ。僕にだって庶子が二人いるが、穢れているなどと思った事も無い」
守り役は事なかれ主義の気の弱そうな男だ、これではロルフの教育など十分に出来そうにない。
僕はロルフを父上の所に連れて行った。
「ロルフを『大女亭』につれて行き、兄上姉上に厳しく鍛えていただくのはいかがでしょうか?」
「ほう、それは良いかもしれん。それこそ、ビンタだろうと何だろうと必要とあらばくらわせて一向に構わんと言っておいてくれ。だが……ロルフだけが行けば、商売に差し支えるだろうな……グスタフが付き添ってやるのか?」
「はい。そのつもりでおりますが」
「父親と母親の役目であるのに、面倒をかけてすまぬ。お前も忙しいのにな。気立ても良いし、働き者で真面目に生きているあの二人を見てまだ『庶子が穢れている』などというと許せぬがな」
ロルフは「許せぬ」という父上の言葉を聞いて、驚いていた。
久しぶりに訪ねる『大女亭』は相変わらず繁盛していた。
「よお、誰かと思えば、ステファンじゃねえか。久しぶりだな。親父さんの邸に戻ってたのか」
この店で僕は経営者のヤンとアニタの腹違いの、本妻が産んだ弟で少しばかり良い家の跡取りと言う事になっている。途中までは本当の事だが。
「はい。ちょっと家でごたごた有りまして。でもここの店が懐かしくて、たまりませんでしたよ」
「そうだろう、そうだろう。おや、今日はちっこいのがいるな。弟か?」
「はい。母親も同じ弟ですが。やっぱり似てますかね」
「似てるこたあ似てるが、ステファンの方がやっぱり良い男だな」
客の遠慮無い会話に、ロルフはまたしょげている。
(こんな卑しい身分の男にも、僕は兄上に随分劣って見えるのか)
「ここの兄さん姉さんを少しは見習ってほしいと思って、連れてきたのです。何分、ふつつかな弟なので御迷惑をおかけしないように、今日は僕が監督役です」
「ふーん、掃除でもやらせんのか?」
「そうですね。厨房は無理ですから、まずは、そこからですかね」
僕が丁寧に便所の掃除をするのを見て、ロルフは目を丸くしていた。夕方になってくると客が増える。便所もきちんと手入れをしておかなくてはまずいのだ。
「明日からは、お前がやるのだ。手を抜くと悪臭がはびこり、大変な事になるのだぞ。ここの兄上も姉上も、真っ直ぐな良い方だ。貴族としてお暮しになる道を選ばれなかったが、立派な方たちだ。ここでお前が何かを感じ取って、もっと自分の果たすべき役割について真剣に考えてほしいと父上も僕も願っている」
どこまでロルフに言いたいことが伝わったかどうかわからないが、僕ら三人が夕食時の厨房と店で働く間、二階の廊下と階段の掃除をするように言っておいた。
「チョッと隅に拭き残しが有るには有ったが、初めてならこんなもんか。まあ、最初っから満点だったステファンは例外なんだな。アイロンがけにベッドメーキングも完ぺきだったし。まあ、あれだねえ、何でも上手くできすぎちまうステファンと比べちゃあ可愛そうだよね」
アニタ姉さんの言葉に、ロルフは無言で頷いた。姉さんも僕とロルフを比べてしまっているが……
「ステファンから話聞いたよ。まあ、なんだ、色々面白くないことも有るんだろうけどさ、八つ当たりは良くない。それに、当の本人にどうにもできやしなことで責めるのは、卑怯ってもんさ」
ヤン兄さんは明るい調子ではあるが、言うべきことは言うべきだと思っているようだった。
「卑怯?」
「だって、そうだろう? 髪の色やら眼の色で高貴だの下賤だの言われても、どうにもできやしないんじゃないかい?」
「はい。確かに、どうにもなりません」
「目が茶色だから、碧い眼のステファンより価値が無いなんて言われても、納得できないだろう? でも、ステファンより学問をさぼっているからいけないとか、掃除が出来ないからいけないとか言われたんなら、頑張ればなんとかなりそうな気がしないかい?」
「はあ。確かに」
「まあいいやね。説教はそのぐらいにしておいて、そのパンケーキ、食べなよ。このリンゴもいけるぜ。ステファンは自覚ないみたいだけど、ロルフも辛いよな。いっつも比べられちゃうんだろ?」
ロルフはコクリと頷いた。
「よしよし、そういうわけだから、ステファン。お前、この子にオムレツ焼いてやれ。あれ、うまいからさ」
僕はヤン兄さんに言われた通り、オムレツを焼いた。
「どうだ、うまいか?」
ヤン兄さんが頭を撫でると、ロルフは嬉しそうな顔で頷く。
「はい。美味しいです」
「何だよ、ヤン、それ焼いたのステファンじゃないか」
「ちげえねえ」
それ以降、ロルフは度々『大女亭』に通って手伝いをするようになった。それと同時に宮中でつまらないトラブルを起こすことも無くなっていったのだった。
ただ、悔やまれるのは、僕は父親の違う弟、つまり大宰相の跡取りであるアンホルト子爵ヨハン・ベルワルドの方がもっと厄介なトラブルに巻き込まれているのを、完全に見落としていた事だ。ヨハンの卑屈さが、そのトラブルに由来するのだとも気が付かなかったのだ。ただロルフが二人の弟たちをいじめなくなった事に安心してしまったのだった。
ヨハンに関しては、父親が異なり、大宰相が跡取りと定めた以上、教育に関しても大宰相の意向が大切だとなまじっか遠慮したのが災いした。ヨハンの家庭教師についた男は教会の聖職者だった。ロルフの教師は父上や僕の考えで宗教色の少ないアカデミーの学者をつけたのだったが。グラーン侯爵夫人腹の・コリング伯爵マウリの教師も聖職者ではあったが、問題は無いようであった。
ヨハンは家庭教師についた男の手引きで、大宰相が気が付いたときにはすでに、とんでもない事になってしまっていたのだった。そして、そのことが僕の身の上にも大いに関わってくるのだったが、何も知らない間は平和に暮らしていた。
「クヌート様からのお手紙です」
ユリエから渡されたスコウホイ公爵となったクヌートからの手紙は、教会の坊主たちに反発するスコウホイの民と新たな動きについて伝えてきた。
「宗教革命……か」
かつての地球で言えば、ルター辺りに相当する人物の出現なのかも知れなかった。
「教会が出している罪の償いを可能にするという『御札』など、タダの資金集めのまやかしに過ぎないと、はっきり公衆の面前で言い切る聖職者が出て来たようだ。教会の教えなどより、自己の良心を重んじるとも」
僕は手紙をユリエに見せた。
「これは、大きな動きにつながるやも知れませんね」
「そうだな。そのスコウホイの聖職者は公開質問状を教会の扉に張り付けた行為を、当人はどうやら純粋な神学上の疑問を提示しただけだと認識しているようだが」
「騒乱罪で処罰なさるのですか?」
「いや、それは理屈が通らないだろう。だが、これはとんでもないことになるぞ」
僕はその手紙を大至急、父上にもお見せした。そしてその聖職者が不当に教会により弾圧、抹殺されそうならば、保護するようにクヌートに指示する手紙を出すことを認めていただく。
「お前は摂政なのだから、思ったようにやって構わんのだぞ」
「ですが、これは恐らく帝国全体、近隣の諸国も巻き込んだ大論争の前触れとなる様な気がするのです。ですから、父上にも腹をくくって頂かねばと思いまして」
「帝国に嫌気がさしたら、全部放り出してしまうのも、いっそ気楽で良いがな。まあ、お前はそんなことは出来んだろうが……」
「父上……」
父上の脳裏には、また、あの真っ白い風景が広がっていた。
「父上が思い浮かべられる大氷原は、一体どこで、そこで何が有ったのですか?」
「ワッデンとの長い戦の折、北の果てで遭難したことが有ってな」
「半年ばかり行方知れずになられた、と老人たちが言っている折の話ですか?」
「そうだ」
十三歳で初陣を飾った父上は、ワッデン側の最北端の軍港を破壊し、長らく機能不全に陥れる事に成功したものの、撤退の時点で地吹雪に巻き込まれ、はぐれてしまわれたと言う。
「その時命を救ったのが、不思議な女だ。人間のくせに狼なのか、狼のくせに人間の姿を時折取るのか、よくわからんが……そのものが……つまりその、最初の女なのだよ。教会の連中なら魔物と呼ぶような存在だな」
「最初の女性がそんな人であるなら、確かに会いに行けそうもないですね」
「会いたいがな。無理だろうな。今の若さを失った体では、会う前に凍え死ぬであろうし」
「お子は、できたのですか?」
「ああ。出来た筈だ。子が出来るまで解放しないと、最初に言い渡されたのだから……あれは、魔物と言うよりは、異教の神というべき存在だったのだろうな。美しかったぞ」
「北の果ての異教の民が奉じているという、白く美しい狼、ですか?」
「たぶん、そうだと思う。だから、教会の教えが唯一絶対などと、正直言って全く思えないのだ」
「狼と共にある時は、お幸せでしたか?」
「ああ。安らぎが有り、素朴な幸せに満たされていた。帝国に戻りたくなかったが、縁切りされてしまったのだ。女に振られたのは、あの時が最初で最後だがな」
老人たちの話では、行方不明から半年して、突如父上は帝国軍の陣営に姿を現されたのだそうだ。温かそうな毛皮の寝袋に包まれていて、父上は眠っておいでだったとか。
「皆に記憶が無いとおっしゃっていたのは、教会との軋轢を恐れての事でしたか?」
「いや、記憶が封じられていたのだ。あの毒薬騒ぎで、すべてを鮮明に思いだせるようになったのだよ」
生ける異教の神、そして、教会の騒ぎ。
まだ、この段階では、僕にとって切羽詰まった問題では無いと思っていたが、そうでもなかったのだった。