悩める僕と黒いドレスのユリエ・4
イヴァル・ケニングがラナース子爵の位を賜った。
これまでの功績を思えば遅すぎるぐらいだが、大宰相の懐刀的な存在と見られていたので、スコウホイの汚職がらみで手間取ったのだ。
大宰相は着実にかつての地位と勢力を盛り返した。ある程度の時間も過ぎた事も有るが、一番大きいのは実の娘ウルリカが、嫁ぎ先で熱心に奉仕活動に励み、夫ともどもスコウホイの民に受け入れられた事が大きい。
質素な衣服で国内の各地を見舞い、美しい声で地元の人たちに親しまれている歌を歌って、皆の気持ちを和ませているらしい。
「誠にウルリカは親孝行よの」
「は、恐れ入ります」
父上は大宰相にはやはりチクチク言いたいようだ。子までなした母上との仲は認めているが、本来の夫としての権利意識が時折頭をもたげるからだろう。そのくせ大宰相の力量を高く評価もなさっている。そのあたりは微妙だ。父上は相変わらず異性関係は派手だが、大宰相は母上一筋だ。
「エリクの子供を、もう一人生む事になったわ」
あっけらかんとした口調で母上は仰ったが、母上にとっての父上と大宰相のバランスが僕には良くわからない。どうやら父上とグラーン侯爵夫人との仲が、以前ほどではないと見ておられるようだ。
「あの女もえげつないわねえ。娘の価値が下がらないうちにお前に押し付けて売り抜けようなんて」
「きっかけは政略上の必要性だったでしょうが、いつのころからか僕にとっては家族の一人で守るべき人に変化していました。だからどうか、そんなおっしゃり方はなさらないで欲しいのです」
「私がどう言おうと、事実は事実。あの女だってそう思ったからこそ、今この時期に強引にでも事を勧めたのでしょうよ。グスタフもおかしな所でお人よしねえ」
「僕は馬鹿でもお人よしでも何でもよいのです。ですが、あまりセルマの事を……」
「分かりました。あの女は嫌いだけど娘の気立ては良いそうだから、黙っておきましょうよ」
僕は父上の息子であるロルフと大宰相の息子であるヨハン、二人の幼い弟たちの様子を見てから帰ろうとした。が、気になる人物をそこに見出した。弟たちの乳母は姉妹だとかで、互いの関係は良いらしい。姉の方はあの、赤ん坊のころのロルフが泣くのを止められずにいた未熟者だ。
「はい。またきっとお伺いいたします」
そう言って、乳母たちの控室と思しき部屋を出て廊下を歩き始めた男は真っ赤な髪の、いかつい体つきの男だった。髪の色は違うが……歩き方と言い、先ほどの声の調子と言い、怪しい。
「もしもし、お待ち下さい」
僕は幸い、鬱陶しいキラキラした礼服なんぞ脱ぎ捨てていたので、宮中の事情を良く知らない者にはどこかの平凡な貴族の息子にしか見えないだろう。
「これは,あなたの物ですか?」
僕は特に印も縫い取りも無い綿のハンカチを出して見せた。鍛練の時に使う物だ。話のきっかけをつかみ、至近距離でテレパシーを働かすための小道具だ。
「いや、私の物では無いですな」
(なんだ? この小僧。だが場所が場所なだけに、ややこしい身分のガキかもしれん。早い所ドロテアに知らせなくちゃならんが。それにしたって、大宰相の坊ちゃん達と乳母たちがねえ。こんな薬にまで世話になるほどやりたいもんかねえ。そう上玉でもなかろうに。手頃って事か)
何やら、成人に達している大宰相の庶子たちと、母上腹の二人の弟付きの乳母たちが、怪しからぬ関係に有るらしい。何ともはや、ドロドロした話だ。
「おや? 失礼ですが、このような所に何かついておりますよ。背中です。ちょっとお待ちください……御無礼を致しました」
(なんだなんだ? このガキは? 何を企んでいやがる)
恭しく頭を下げて、道を空ける。やはりこいつ、僕が思ったように元の僕の乳母のドロテアの亭主だ。髪の毛は染めたのかカツラか知らないが、本来の褐色とは違う。
ドロテアの亭主、そう、忘れもしない、ネクセ伯爵の身分称号をはく奪され、帝国を追放されたビョルンだ。どうも察するに相変わらずいかがわしい薬品類を取り扱って、生活しているらしい。しかも舞い戻って黄金宮に出入りしている。これは一大事だ。
僕は見当をつけて、通用門に出向き、顔見知りの衛兵に髪の色と年恰好を伝え、届け出ている現在の住まいと名前を知った。
「ミッケリの商人、ヤニス・モレノと名乗っているんだな? 大宰相が最初に黄金宮に出入り自由の鑑札を出してやったのか。うむ」
僕は近衛の連中と相談し、至急父上にお話しする。弟達の乳母や大宰相の庶子たちの事は触れないが。
「ほう、そんな奴が舞い戻っていたとはな。捕まえる前に、一応大宰相にも、伝えておけ」
そのような指示を貰った。だが、結果は、失敗だ。届け出のあった住所の住まいはもぬけの空だった。
「いかがわしい薬物や、生活用具は残っていますが、逃げられたようです」
取引の帳簿類は、わざとらしく机の上に残されていた。多数の帝国貴族や皇族の名前が記載されている。どいつもこいつも僕が無駄飯食らいだと思っているような連中ばかりだった。どうやら一番大切な帳簿や記録は持って逃げた可能性が高そうだ。
「港を封鎖するんだ。入港は入国審査を受ければ認めるが、出航は停止させろ」
ともかく、港に出向いた。ミッケリの取引に関係が有りそうな荷物を中心にあらためると、相当な量の違法薬物が出てきた。
夕方になって大宰相が泡食って、港の検疫所に近い詰所に僕を訪ねてきた。
「大宰相の上の息子さんたちと、母上の所に仕えている弟たちの乳母たちも、このように違法薬物をかなり購入しています。あなたの所以外に侯爵夫人の所の執事の息子やら、父上の一番若い愛人やら、まあ、痛み分けでしょうが、これが外部に知れたら厄介ですよ。一度宮中に戻って、これからの対策を立てましょう」
父上の所に、僕と母上と大宰相、グラーン侯爵夫人が集まり、押収した名簿に名前の載っている使用人は北の塔に収容して取り調べる事に同意してもらった。
「大宰相の御子息達と……女優のテレサ嬢は、それぞれの住まいで軟禁の上取調べ、これでよろしいですか」
「別に北の塔で構わんぞ」
テレサ嬢の身の上に関して父上の口調は酷く冷淡だった。そして、大宰相の方をじっと御覧になった。御自分の愛人は北の塔に入れて構わないとおっしゃれば、大宰相が困惑すると見こされての事だろう。
「あ、あのう……」
「大宰相は、しっかり御子息を監督なさって下さい。処罰はまた全貌が明らかになってから……それでお許し頂けましょうか?」
僕は父上の顔を見つめた。すると父上は口角を上げた皮肉な感じの笑みを浮かべられた。
「ふん、まあ、良い。そもそもはお前の手柄だ。思うようにすれば良い。皆、グスタフに従うように」
夕食は執務室でごく簡単なものを食べ、イヴァルの指揮のもと経理・財務・帳簿に明るい官僚を集め、押収した帳簿と記録を分析整理した。北の塔に閉じ込めた連中は、暴力的な取り調べは控え、忍耐強く供述を引き出すように伝えた。テレサ嬢は町屋住まいなので、警護の問題も有り、北の塔のかつてクヌートが住んだ場所に収容する。
「皇太子殿下、あたしはあの薬が違法だなんて、これっぽちも知りませんでした。それにオジサマが本当に皇帝陛下だなんて知らなかったの。だからびっくり。子供が出来たって大丈夫、面倒は見るっておっしゃって、今まで御手当はちゃんと下さっていたから安心してたんですけど、これからあたし、どうなるんです?もう三月、月の物が無いんですの。あらごめんあそばせ」
僕と大差無い若さではないだろうか。二十一世紀の先進諸国なら確実に父上は犯罪者扱いだろう。美人だが、人を食ったような所が有る。本人が言うには、実の親の顔を知らないそうだ。月の物が無いというのも嘘ではなさそうだった。すぐに侍医に診察させると「おめでた」だそうだ。だが、懐妊中に危険な薬物を飲むなんて……何事も無ければ良いが……
僕はセルマの住まいに寄って、大事件が起きたので当分は自分の住まいで眠る事になると伝えた。
「また、明日の昼食にでも、御一緒しましょう。急な変更が有れば、使いを寄越します」
そう伝え、警護の者には十分に気を付けるように言い置いた。そして侯爵夫人には、物騒だから場合によっては母屋の方でセルマを寝かせてほしいと伝えると、了承された。
アネッテの住まいには、近衛の兵士をいつもの倍、配置した。そして乳母におおよその事件の経過を伝え、くれぐれも用心するように伝えた。
すべてが終わり、ほっとして住まいに戻ると、争うような物音がする。びっくりして中に駆け込むと、ユリエが、一人の女に縄をかけた所だった。
「畜生! 黒髪の野蛮人め、昔の義理を忘れたか」
しわがれ気味だが、聞き覚えのある声だ。
「あなたに何一つお世話になった記憶は有りません。殿下のお住まいで、何をしようと企んでいたのですか? 毒でも仕込むつもりでしたか? ならば、その瓶は何です?」
「ユリエ、大丈夫か」
「はい。ですが、この人はここに入り込んで何をしようとしたのでしょう?」
「さあな。ドロテア、相変わらずろくでもない暮らしぶりのようだな。はああ、お前、隠し扉の事を覚えていたのだな。だが、間取りが変わっていて驚いたか。何か隠していたのか? この瓶はもらうよ。毒なのかい?」
「いえ、毒と言う訳では……」
どうやら一種の媚薬らしいが、そんなものをなぜ持ち歩いて居たものか? 自分は亭主の命じるように水がめに薬物を仕込むつもりだったが、毒薬ではないはずだ。かつてこの部屋の奥の隠し戸棚に自分の隠し財産を置いていたのだが、今も有るのではないかと思い、取りに来た……そんな供述に嘘は無さそうだった。
薬物の専門家を呼び出し瓶の中身を調べさせたが「さほど珍しくも無い媚薬の類」で、効果のほども疑問だという検査結果だった。
駆け付けた近衛の士官にドロテアを引き渡し、北の塔に厳重に収容するように命じた。
ドロテアを引き渡すと、ユリエは呆けたような表情をしていた。
「大変だったね。御苦労さま」
「あ……おかえりなさいませ。御夕食は……」
「皆と仕事の合間にサンドイッチ程度、適当につまんできた。そう言うユリエは?」
「まだです」
「ユリエは昼には戻っていたの?」
「ええ。アネッテ様の乳母が長話をしていきましたが……」
「何か面倒な話?」
「その、殿下の添い伏し役をセルマ様と勘違いされておりまして……」
「僕との関係については、説明したの?」
「しそびれました」
「何だか疲れているみたいだね。息子はどうだった?」
「元気でした」
僕は恐縮するユリエを座らせて、パンケーキを焼き、簡単なスープとハムと果物類を出した。
「何かユリエ、変だな。微熱が無いか?」
「そうでしょうか? 別に体が不調とも思いませんが」
「まあ、さっきはドロテアを縛り上げたから、疲れたよね」
「はあ」
何というか、空気がしぼんだような感じの返事だ。ちょっと強引に一緒に風呂に入ってしまう。
「今夜は僕が洗うからね」
「そんな、恐れ多い」
「どうして、そんな風に言うの? アネッテの乳母に何か言われた?」
「その、黄金宮は男女の関係が乱れていて嘆かわしいと……色々な方の噂をされまして……ワッデン王室の場合はまず御正妃と名実ともに夫婦になられてから、愛人の方が決まったりするそうです。添い伏しや側妃の習わしが、どうも馴染めないと申しておりました」
「それなのに、僕とユリエの関係をわかっていないの?」
「ええ。『貞淑な伯爵夫人』などと言われてしまうと、どう言えば良いのやら……年齢差が大きいので、私は殿下の乳母に近い存在だと考えておいでの様なのです」
「そうか。僕から、あの乳母に説明する。ユリエを立派な伯爵夫人だと思っているだけに、そんな風に思い込んでいるんだね。僕の子供がいつユリエに出来てもおかしくない様な仲だと言っておこう」
「はい。お願いいたします」
「ねえ、やっぱり、体調が変じゃないか? 月の物は、ちゃんと来ているか? いや、来てないなあ」
「ああ……そうですね」
「明日,侍医を呼ぼう。朝の鍛練は休むよ」
大人しく、ただ互いに身を寄せ合って眠った。
ゆっくり朝食を取り、アネッテの所には寄れないと侍従に伝言を持って行かせ、侍医を呼んだ。
「御懐妊でございます」
「やはりそうか」
「いつ生まれましょうか?」
「さよう、伺ったお話と診断の結果から判断いたしますと、今年の末でございましょう」
三日後、ユリエは『病により宿下がり』した。医師によれば、疲労がたまっているので、数日安静を保つ方が望ましいと言われたのだ。滞在先は、レーゼイ家の本宅内の離れだ。無事に生まれれば僕の初めての子供と言う事になる。
「師匠、申し訳ありません」
謝る僕に、家康師匠はにこやかにこういった。
「そのようにおっしゃるものでは有りません。生まれてくるお子が、御気の毒では御座いませんか」
僕のユリエに対する想いに、何ら恥じるところは無いが、曲がった事が嫌いな師匠に申し訳ない様な気がしていたのだ。だが、子供自身には嫡出も庶出も本来は関係無い。ただ大人の勝手で子供を辛い目に合わせてしまうかもしれない。その意味で、僕はこの子に最初から負い目が有る。小さなラウル・ヤイレは、心配そうに眠っているユリエの顔を見つめている。ああ、この子にも、僕は負い目が有るのだ。
父上にユリエのお産は、テレサ嬢と同じころになりそうだと報告すると、ほろ苦い笑いを浮かべられた。
「孫と子が同じ時期にな……」
庶子の中には結婚して子がいる人も幾人かいるらしいが「身近で様子を見聞きすることになりそうな孫は、初めてだぞ」ともおっしゃった。
「それはそうと、父上の真実最初の御子は、どこにお出でですか?」
「それがなあ、わからんのだ。何しろ、最初の女は獰猛な獣の様な女だったのでな」
僕はその話を聞きたいような、聞くのがはばかられるような、微妙な気持ちで父上の顔を見た。
大宰相と皇后の息子はアンホルト子爵ヨハンです。間違えてました。訂正しました。ごめんなさい