悩める僕と黒いドレスのユリエ・2
思いの外、ユリエを疲れさせてしまったようだ。僕が目を覚ましても、ぐっすり寝込んでいた。長い旅路のすぐ後だったのに、そのあたりの配慮がどうやら欠けていた。
僕は自分で起き出して、卵料理とちょっとしたスープとパン、リンゴ、そんなものだが朝食を用意した。晩餐は無理だが軽い物程度なら作ることができる調理場を設けてある。『大女亭』に時折行くようになってからは特に、軽い夜食や朝食を自分で用意する事も珍しくない。侍従達は戸惑っていたが。
「まず、ほら、食べて」
寝間着にガウンをひっかけただけのしどけない姿で食事を出来る仲になれたのが嬉しかったりする。
ああ、そう言えば鍛練を済ませたら、アネッテの所に寄るんだった……
「お茶だけでもお淹れしましょう」
ユリエの淹れる茶はなぜうまいのか謎だが、やはりうまい。
「頂戴いたします」
まあ、美味しい。と言ってくれたのが社交辞令ではなく本音だったようで、僕は嬉しかった。
「朝の御仕度を」
ユリエはそう言ったが、これから鍛練に出るだけだから気楽な格好だ。自分でさっさと着てしまう。礼服で出席する御前会議は午後だ。朝寝坊の父上に合わせた体制になっている。
僕は逆にユリエの身支度の手伝いを申し出た。
「僕が小間使いの役をやるよ。ユリエもスカートを膨らませたシルクのドレスを身に着けないといけない身分になったのだし。自分でやるの大変だろ?」
「普段は省略しておりました。レースを多目に使った下着を穿くぐらいでして」
やっぱり化粧台のある部屋で一人で着た方が良いらしい。
「仕事をする気分に切り換えなければいけませんから」
そんな風に言われて、体よく追い出されてしまった。
「ユリエー」
僕は我がままを言った。子供のころみたいな幼稚なわがままだ。せめて髪の毛だけでも結う為にしっかりブラシをかけさせてもらう。何と言うか気分が和む。最後に大きな黒い真珠をあしらった飾り櫛を飾った。
「これって、僕が持たせたものだねえ」
「ええ。そうです」
僕が冠婚葬祭何れの場合も困らないように用意して、嫁入り道具に入れさせたものの一つだ。
「そのう……良い男だった? 伯爵は」
「良い夫でした。私の事情を知っていながら、受け止めてくれました。夫婦でいる間、自分なりに出来る事は精一杯致しましたから、後悔することも無いです」
「愛していたの?」
「殿下をお慕いする気持ちとはまた違いますが。互いの誠意が通じたと感じておりました。あれもまた愛であったのかもしれません」
「そうか。ユリエがより一層綺麗になったのは、伯爵のおかげだな。でも、僕は器量の小さい男だから、腹が立ったり悔しかったりするんだ。ちゃんとまだ受け止めきれない。もっと大人になると良いんだろうな。こんな僕だけど、見捨てないでくれ。ずっと……それこそ死が僕らを分かつまで、側に居て支えてほしい」
「そのつもりで、戻って参りました。置いていただけるのでしたら、命のある限りずっとお傍におります」
僕はその白い手を取って、押し頂き、恭しく口づけた。
「ありがとう。心から感謝するよ」
「お礼を申し上げるのは、私の方です」
「そうか。じゃあ、また夜に」
昼はセルマの所に寄らなくてはいけない。剣・馬・弓の鍛練で軽く汗を流し、着替えたらアネッテの所だ。
アネッテは絵が好きだ。見るのも描くのも好きらしい。絵の話をしながら、僕にとっては二回目の朝食を一緒に食べていた。そんなことは無論おくびにも出さない。アネッテの目下の悩みは、人物を描いてみたいが、手ごろなモデルが居ないという事らしい。
「ですから身近な人間で良いから、誰かをモデルになさったら?」
「モデルになって下さる方など居ません。もしかしていらしたとしても、御自分の顔を下手に描かれてその方が不快になる恐れもあります」
宮廷内に何の足ががりも無く、力のある後ろ盾も無いアネッテは、わずかなトラブルも避けるべきなのだ。
「僕がモデルになりましょうか? ああ、それとも乳母の方が良いかな」
「乳母はじっと座っているのは嫌だとか、肖像画なんて身分の高い方だけの物だとか……ほんの練習なのに、言う事をきいてくれません」
ワッデンの人は頑固者が多いと聞く。裏表が少なく、言いだしたことは必ず実行する、とも。アネッテの乳母もそうした気質を受け継いでいるのだろうか……
「じゃあ、毎日、朝食後の茶でも楽しんでいる時間を使って、お好きなように僕をスケッチなされば良い。どうです?」
「かまいませんの?」
「ええ。あまりにも性格が悪そうな顔に仕上がったら、ショックですけど」
「あら、まあ、それは、どうしましょう」
「王女様がそんなおかしな具合にに描かれるはずが有りませんよ」
乳母は断固とした口調だった。ちょっと睨んだ視線は、僕が彼女を傷つけたら許さないと言っていた。
「まあ、あの、殿下、私、自信はございませんけれど、精いっぱいやってみたいのです」
「あなたの絵です。お好きなように描けばよいのです。僕は多少勝手な事を言いますが、お気になさらずに」
見せてもらった花や小鳥の絵はどれも生き生きしていて、愛らしかった。
いくつかの執務や決済をこなし、セルマと共に昼食を取り、孤児院で子供らに絵本を読み、菓子を渡してから、二人一緒に侯爵夫人の邸まで歩く。セルマは孤児院に仰々しい馬車で乗り付けるのを好まなかった。無論、護衛騎士はついている。歩きながら話すと秘密も漏れにくいのと、手ごろな運動になるのが良い。
「今年は捨て子が少し減ったようです」
「僕なりに手を尽くしているつもりですが、人々の元に救いの手が届いていないのでしょうね」
「教会の方々は……」
セルマは言いかけた言葉を飲み込んだ。教会の上層部の者たちは皆、豪奢な暮らしを営んでいる。立派な邸に住み、宝石で飾り立てた祭服をまとい、噂では父上や僕なんかより贅沢に飲み食いし……罰当たりな事もしでかしているらしい。
「この孤児院はもともと教会が設立はしたが、今や財源は帝国もちですものね。まあ、それは良いのですが」
特に破戒坊主のソフス・ネスがトリア大聖堂の大主教に納まってから、様々な不正行為が目につくようになった。帝国の財源から出た孤児院の運営資金を勝手に取り込んだ怪しからん孤児院長の首をすげかえる事はできたが、その不正を命じたと思われるネスには手を付けられずにいる。
これまでに二度、帝国から正式に神聖教会大本山の大聖猊下にネス大主教の更迭を願うかどうか、御前会議で議論したが、現在猊下は病の床に就いていて、側近どもが握りつぶす公算が強いと思われたし、正面切って神聖教会と事を構えるのをためらう者が執政官の半数を占めたので、今は次期尚早という事になっている。
ネスは紛れもない破壊坊主だが、変にカリスマ性が有り、説教の声は朗々と響く。教会だけが民の苦しみを見ており、手を差し伸べているという大ウソを、もっともらしく説教して、募金箱を回すと、多くの金額が集まるそうな。
「皇帝陛下は名君だがふしだら」
「皇太子殿下は神童だが、所詮は子供」
こんな風にネスは父上と僕を評し、宮廷内部にも深く食い込んでいる熱狂的な教会の信者を使って、何か怪しからん事を仕掛けてくる公算は強かった。特にネスの罷免が御前会議の議題になって以降は、宮中のあちらにもこちらにも怪しい人物が増えた。つい最近、僕が侍従を罷免したのも神聖教会がらみだ。
「ネスは危険人物です。大本山の猊下の病は、本当は毒を盛られたせいで、盛ったのはネスの子分だと言う風聞は、真実かも知れませんね」
当代の病床にある猊下はセルマから見ると父方の大叔父にあたる。ミッケリの名門の出身だ。一方で、ネスは帝国の貧農の出身で、亡くなったとある大主教の寵童だったらしい。
十日ほど前『大女亭』で聞いた噂がどこまで本当か知らないが、根も葉も有る物の様に僕は聞いた。
「今の猊下は美女がお好きだが、後を継ぎそうなネス大主教様は綺麗な男の子が何よりお好きらしいぜ」
以前、何かの儀式ですれ違った時に僕に向けられた気色悪い目つきと、読み取れたおぞましい妄想からすると、恐らく事実だ。
「母の所を訪ねてくるミッケリの商人たちが、耳を疑うような噂をしていたようです。メイドや厩番の者たちが、面白半分という感じで話題にしていましたから」
「ミッケリの人たちは、ネスに批判的でしょうね。もしネスが噂通りに大聖猊下に納まったら、ミッケリからの献金は大幅に減るかな?」
「母は……そう見ているようでした」
「なるほど」
グラーン侯爵夫人と僕の見方は一致しているのか。
「じゃあ、あなたと私の弟であるマウリは、安全かな?」
「え?」
「ネスは人でなしで、かわいい男の子が大好きだそうですから。僕も薄気味悪い目つきで品定めされて、身の毛がよだちましたよ」
「そ……そう、ですか?」
僕が言いたい事、つまりネスが男児好きの変態だって言う事は、一応理解したようだ。
「ネスは父上がふしだらで、僕も似たり寄ったりの悪徳の道を転げ落ちている、とかなんとか最近もほざいたようですが、あなたはあんな奴を猊下として崇められますか?」
「わかりません。大聖猊下になった方は敬うべきだという考えが、私には染みついてますから」
「確かに神聖教会にも、献身的に人々のために尽くそうとする人もいるのは知ってます。でも、今の腐った教会にセルマ……あなたが入れ込んでも、その甲斐は無いのではありませんか?」
「そうかもしれません。聖職者の方々は高潔な方ばかりと言う訳では無いですから」
「でしょう?」
「でも、孤児院のような活動は、必要だと思っています。それに、本当に子どもの事を大切に思っておいでの聖職者の方もおいでになります。そう言う方々とは協力したいですし……」
「それは、僕もわかります」
二人は黙り込んで、道を並んで歩いた。ふと、セルマが揺らいだ。小石を踏んで、バランスを崩したのだ。
僕はとっさに抱きとめた。
「あ、ありがとうございます」
「あなたを守るのは僕の役目だと思ってます、セルマ」
「でも、でも、殿下はウルリカ様を手放してしまわれた」
「それはその、あの子が『殿下は大好きですが、クヌート様は愛してます』などというのです。あっけらかんとして、嫁に行ってしまいましたよ」
「それは、それはそうなのかもしれませんが……私の事も、いつかは手放してしまわれるのではないかと、不安なのです」
「ならば、手放しません。あなたさえよければ僕の子を産んでください」
僕はセルマを抱きしめ、髪を撫ぜながら聞いた。セルマは震えている。
「あ、あの。まだその」
「決心がつかないですか」
「あ、はい。私って、ダメですね……お傍にいても、何のお役にも立てませんし」
「そんな風に思わないで下さい。また、交換日記でも復活しますか?」
スコウホイのあれやこれやで忙しくて、交換日記は立ち消えになっていた。
「いいえ、今のままで十分です。こうして、お忙しい中でも逢いに来て下さるお気持ちが嬉しいのです」
「本当に嬉しいと思って下さっているようだ……ならば、ちゃんと逢いに来ますよ」
「あのう……」
セルマはユリエの事を気にかけているようだ。もう、噂が宮中を駆け抜けた、そういう事らしい。あいまいな言い方ではあるが、僕との関係を皆は察している。そういう事なのだろう。
「お住まいに伺っても、ドランメン伯爵夫人はお気を悪くなさらないでしょうか?」
「あれは、そんな女ではありません。あなたに十分な敬意を払い、きちんとお迎えできると僕は信じてます」
「御信頼が篤いんですのね。宮中の方々が『殿下の聖女エマ様が戻っていらした』と噂なさっているようなのも、当然なのでしょうね」
「ハハハ、うまい事を言いますね。何しろ僕のおむつを外したのはユリエですから。僕も後から気が付いたのですが、ユリエの嫁ぎ先は聖女エマ・ヤイレとゆかりが深いのです」
「まあ、そうなのですか」
「でも、僕はあなたの方が聖女に近いと思います。あなたを罪深い道に引きずり込んで良い物かどうか……」
「殿下」
「僕があなたに自由と平和を与えてあげられる間は、それを受け止めて下さるのも悪くない」
「殿下、殿下にとって、私は必要でしょうか?」
「あなたは僕の家族だ。そう思っています。あなたが一歩先に踏み出せば僕らの関係はまた大きく変化するでしょうが」
「変化した先が怖いのです。母を見ておりますと、毎日が戦いです。あのような暮らしが幸せとは……到底思えません」
震えるセルマの手から、グラーン侯爵夫人が「一刻も早く契りを交わして、殿下の最初の御子を産みなさい」と言い渡した事が読み取れた。皇帝や皇太子の場合、庶子であっても長子は特別な配慮が与えられる事が多い。セルマの身分を安定させるためには、それが最善だと言うのは侯爵夫人らしい。
侯爵夫人の考えを僕は否定できない。だが、セルマは震えている。まだ彼女の条件は整っていないのだと僕は感じている。だが、彼女が僕のもとを離れるのを望んでいないのも確かなようだった。