悩める僕と黒いドレスのユリエ・1
僕は大人になります。
当初、スコウホイ公爵の婚儀が済んだ後、すぐに出立するはずであったアネッテ王女の一行は「事情により」まだドランメン伯爵領内に留まっていた。
アネッテ王女が僕の前に姿を見せたのは、予定の約半年後だった。
将来の正妃に相応しく、王女自身とも由緒の深いかつてのワッデン女王であった方がしばらく住んでいた建物に入ってもらう。古い建物だが十分に補修して、不自由は無いように配慮した。
ストロベリーブロンドの髪に青い瞳の僕と同い年の少女は、優雅な振る舞いと穏やかな話しぶりで最初は母上、次に父上の周辺のうるさい老人どもに「正妃にふさわしい」と見なされたようだった。この国ではブロンドの髪が高貴な身分に相応しく、瞳は碧か青が最も高貴だとされている。単に出現率の問題のように思うが、そう頑なに思い込んでいる老人は多い。
半年前ユリエから珍しく僕に直接送ってきた書状には、アネッテの健康に関する医師の所見が同封されていた。
「通常の貴婦人としての御生活を送られる分には、何ら差支えない状態まで回復されました」
「幼い頃の御苦労が心臓に重大な悪影響を及ぼしており、御出産はお命に係わると思われます」
そんな内容だ。
医師は出産しなければ、まずは通常の人の寿命まで生きられると見ている。跡継ぎを誰よりも期待される正妃の位置につく予定の少女にとって、大変なハンディだ。
ユリエの忠告を待つまでも無く、僕は「懐妊が生命の危険につながる」「出産は命と引き換え」である事を秘密にしている。ユリエはどうやら、この事実を僕一人に伝え、皇帝である父上にも内密にしたらしい。
確かにそうしなければ、彼女を打ち捨てていた冷淡な祖国ワッデンに送り返されるか、尼僧院にでも送り込まれてしまう危険性が高い。アネッテの体では過酷な状況には耐えられまい。
アネッテが子を産めないのは良くわかった。幸いユリエは乳母とも相談して、そうした性的な方面の教育は一切行わなかったようだ。僕の忍耐力さえ持てば、アネッテは穏やかに暮らせるだろう。
「御本人にお伝えするか否かは殿下の御判断にお任せいたします」
ユリエも乳母も、下駄を僕に預けたのだ。乳母をこっそり呼び出して確認した所、乳母自身はむしろ伝えない方が良いという考えのようだった。当分は、その方向で行く事になるか……
ユリエの手紙を見て以来、僕は連日ユリエの夢を見ていた。本人は音沙汰無しだが。
朝食は朝の鍛錬の後アネッテの住まいに立ち寄って食べ、昼は最近はセルマと彼女が奉仕活動を行っている孤児院で取る。僕は「お土産を持ってくる貴族のお兄ちゃん」だと思われている。菓子や文房具、絵本などを携え、時間が許せば子供らと鬼ごっこを一緒にしたりする。
「私の父の様に、孤児院で救われた事がきっかけで世に出る子もおりますでしょう。そうでなくとも、本来なら私はこの子らと同じような境遇で有ったはずです。今は神のお恵みでたまたま贅沢な暮らしをしておりますが、その、どこか居心地も悪いのです。私がそのような暮らしをするのは……筋違いだ、そう、思うのです」
グラーン侯爵夫人はマウリを産んだ後、父上との間に更に娘を二人もうけたので、セルマは余計に肩身が狭いのだろう。近頃は神聖教会の教えに救いを求め、熱心に教会に通い、孤児院で働き、まるで尼僧見習いのような暮らしを送っている。
「ウルリカ様はお元気でしょうか? こんな事ならもっとお話をしておくのでした」
セルマは僕がウルリカを手放した事が、ショックであった様だ。だが、教会の教えに深く入り込みすぎた所為だろうか、肉欲を伴う愛を以前とは違って酷く罪悪視するようになっている。その為、余計に「愛人」である母親の生き方が許せないと感じるようだ。
「侯爵夫人はさっさと尼僧院に入るべきだった、そう言いたいのですか?」
僕はつい、きつい口調になった。
「いえ……わかりません」
「僕の背はあなたより高くなりました。さらに高くなるでしょう。かつてあなたが思い描いていたような『お姫様だっこ』だって、して差し上げられる。だが、あなたは近頃頑なな尼僧の様におなりだ」
「殿下……私の恥ずかしい妄想を……なぜ、御存知で」
「恥ずかしいですか? 僕は女の子らしい夢だと思ったのです」
僕は周りに子供らが居ないのを確かめてから、セルマを抱きしめた。
「で、殿下」
「あなたは僕に抱きしめられてキスされるのを、待っておられたはずだ」
「で、殿下……」
「嫌ですか?」
「い、いえ、あの」
セルマは混乱していた。
「ごめんなさい。実は……いや、やめておきましょう。明日は焼き菓子を多めに持ってきます。では」
最低だ。女の子をあんな風に困らせて。更には、僕はアネッテが子を産むわけに行かない事まで口走りそうになった。アネッテ本人も知らないことをセルマに言うなんて、とんでもない話だ。頭に血が上っていたのだ。一瞬だったが。
僕は近頃夢精するようになっていた。
その夢の中には必ずユリエが出てくる。そして一言こんな風に言うのだ。
「お約束を……」
その先は「忘れていません」なのか? いや「守れません」なのか?
僕は、自分で自分が許せない気分だった。
午後の御前会議で執政官の些細な記憶違いをネチネチ指摘したのは間違いなく八つ当たりだった。父上が眉を上げて、僕を見た。そう。妙なものを見たという感じだった。会議の後、二人になった時に忠告めかして言われた。
「成らぬ我慢をするのは体に毒だぞ。お前がその気になれば相手をする女など、この黄金宮だけで二百人は堅いぞ。外で羽目を外すなら、それも良し。おぼこい正妃に遠慮が有るなら、馴染んだセルマでもよかろうが。正妃はややこしい儀式も有るが、側妃はそんな気遣いはいらん」
「はあ……」
完全に父上に見透かされたのが、恥ずかしかった。
「フフフ、神童のお前でもこの道ばかりは別、か。今もユリエが一番か。ふむ。そうか。まあ、それも良い」
僕は、ろくに返事も出来なかった。
だが、その後、自分の住まいに戻って驚いた。
「お久しゅうございます」
喪服姿のユリエがそこには居た。黒いドレスに身を包み、大粒の黒真珠のイヤリングとネックレスを身に着け、黒いベールをかぶったその姿は、堂々たる貴婦人の姿そのものだった。腕に赤ん坊を抱えている。すやすや眠るその子の髪はスヴェンと同じ灰色だった。
「これは亡きドランメン伯爵スヴェン・ヤイレが遺児、ラウル・ヤイレでございます」
「ユリエ……」
僕はユリエを凝視したきり、一言も言葉を発する事が出来なかった。だって、僕はドランメン伯爵が亡くなった事も子が生まれた事も知らなかった。恐らく父上は御存知だったのに、わざと僕にはお知らせにならなかったのだろう。御前会議の後の話は、ユリエが戻った事を踏まえての事だったのではなかろうか?
「殿下?」
「ああ、お前の夢をこのところ良く見るなとは、思っていたのだ。父上と母上にはお会いしたのか」
「はい。午前中に御挨拶に伺いました。その折、ラウルの将来の叙爵と領地に関してお言葉を賜りました。その後は殿下が御不在と伺いましたので、先にアネッテ王女様の所にお伺いしました」
「この後、ユリエはどうするの?」
「両陛下からは、殿下のお住まいでお仕えするように仰せつかっておりますが」
「息子はどうする?」
「乳母がおりますし、伯爵家の奉公人も十人ほどついてまいりました。実家には人手も十分御座いますし……ナタリエも力になってくれましょう」
「じゃあ、お願いするよ」
「もちろんで御座います。では、身支度など改めまして、御夕食の時からこちらに詰めさせていただきます」
「ユリエ!」
「はい、殿下」
「いや、良いんだ」
息子を抱えたユリエに「愛している」とは言えなかった。
夕食は『大女亭』に行くのでもなければ、一人で取ることが多かった。だから、この日も当然の事、一人だ。しかし侍従たちは居る。今夜は二人きりになりたかった。だから、ユリエに給仕もすべてさせるから侍従たちは引き取るようにと言いつけた。
(はーあ。お気に入りの伯爵夫人がお戻りになったから、僕らはお邪魔か)
(聖女エマ・ヤイレみたいな方らしいから、将来は公式愛人か大女官長か知らんが気をつかうなあ)
(殿下の御気分が安らぐなら、いいんじゃないの? 伯爵夫人は早速殿下の御子を身籠るのかもな)
侍従どもは皆、僕とユリエが男女の仲になるものだと思っているようだった。強烈な気恥ずかしさが襲ってくる。彼らに翌朝まで来るなと命じる口調は、自然怒りっぽくなった。侍従は部屋から追い出しても、警護の者は僕の住まいの周りを何重にも囲んでいる。
「警護の者など、壁か何かだと思えば良い」
父上は以前、そのようにおっしゃったが、とてもそんな感覚になれない。
ユリエは黒いドレスに白いエプロンという姿で、夕食を給仕した。以前のメイドの時とは違い、ドレスは黒でも貴婦人の格にふさわしい素材のものだった。黒髪は貴婦人らしく艶やかに結い上げられ、白いうなじが抜けるようだ。僕は思わず、生唾を飲み込んだ。ゴクリと言う音がやけに大きく感じられた。僕の表情は堅かったと思う。ユリエは自分からは何も話さない。だが、本気で僕に仕える気持ちである事。亡夫の死後は僕に仕える事は結婚当初からの条件であった事、僕の緊張を解し、疲れを癒したいと本気で思っているのは、よくわかった。そして亡夫との間に子を作った事を僕に済まなく思う反面、後悔はしていないのも伝わってきた。
同じ料理のはずなのに、なぜ、ユリエが給仕すると美味く感じるのか不思議だった。緊張のあまり、何ものどに通らないと食事前は感じていたのに、全てをキチンと平らげた。そして久しぶりの薫り高いまともな茶を、ゆっくり飲んで気を落ち着けた。
「御入浴は、いかがなさいますか?」
「どこまでなら、頼める?」
「殿下のお望みに従います」
「じゃあ、一緒に風呂に入って……寝床でも一緒だ」
「はい」
「本当に?」
「はい」
「僕は男女の事は初めてだよ。約束通り、面倒を見てくれるよね」
「はい」
「下手くそに決まっているけれど、良いよね?」
ハッとした様に僕を見つめ返した黒い瞳には、僕を気遣う思いだけが溢れていた。
「そのような事、お気になさいません様に」
「気にするなって? なるに決まっているだろう!」
「お風呂を御用意してまいります」
静かな声でそう言うと、一礼して部屋を出る後姿の背筋がスッキリ伸びて、僕は悔しいが見惚れた。
(入浴シーンは自粛いたします)
体が燃えるようだと思った。
気温は低い時期であるはずなのに、寒さを感じなかった。
ユリエは寝化粧を軽くしたらしい。薄く口紅を差し、うなじから僕が以前送った香水と同じものの香りがする。
「失礼いたします」
「本当だよ。まったく。僕を焦らして、酷いやつだ」
「申し訳ありません」
すると、一つの情景が浮かんだ。
「添い伏し役はユリエしかいないな」
「ええ。グスタフはユリエを皇后にでもしたいのでしょうが、さすがに無理ね」
「最初は子供を一人ぐらい産んだ若妻が一番だ」
「まあ、陛下、なんていう事を!」
添い伏し役とは、特に選ばれて皇子の初めての性交渉の相手を務める者だ。一種の教師役でもあるから、大抵は年上で出産経験も有る婦人から容姿端麗で温順な性格のものを選ぶ。父上と母上はそんな会話をした後、ユリエを嫁に行かせたのだ。跡取りを産んだ後、どうするかはユリエに任せると言って……
「ユリエの所為じゃないのは、わかっているよ。ちょっと拗ねたんだ……」
僕はユリエを寝かせると、キスをした。最初は唇だけ。それから段々深くなり、互いの舌が絡み合うころには、ユリエの絹の寝間着も下着もすっかり取り払われた。
「殿下、本当に初めてでいらっしゃるのですか?」
「初めてだよ」
「随分と手際が良くていらっしゃるから……」
「がっついているだけだ。余裕がないんだよ、僕は」
「わ、私も、余裕など御座いません」
ユリエの心臓は激しく鼓動していた。
「それ、ちょっとうれしいかも」
「ようございました」
「ユリエ」
「はい」
「愛している」
こうして、僕は無事に体も一人前の男になったのだった。
年齢制限の規定を逸脱した範囲の描写を2020年2月に削除しました