僕と魔女と悪龍の危ういバランス・3
僕は他人の心が読める、いや、読める場合が多い、あるいは読める場合が有る、というべきだろうか。中にはひどく読み取りにくい人、読み取る事を僕がためらう人も居る。たとえば父上だ。
昨日の二人きりで話した折の、あの一瞬浮かんだ何とも言えないニヤッとした笑みを見て、僕は父上が思い浮かべられたであろう何かを読み取ることを拒否した。ユリエに関する何か重大な、そう僕にとっては重大で、父上にとってはどうでも良い事、そんな事であったのだろう。
「嫌な汗をかいたな」
今の今まで、木陰で眠っていたのだ。夢の中でユリエと夫たる男の姿を見たような気がする。時間が移り変わって、気が付くと顔の真上に日が射していた。汗をかいても当然か。
ん?なんだ?あれは?
(いやだ! いやだ! 怖い! 何、この音、怖い!)
ひどく単純な波動だ。恐怖にまみれている。
幼い子供だろうか?
それとも人と波動の馴染みやすい生きもの、例えば、犬、猫の類か、家畜類か?
規則的な、それでいて重い地響きがする。川辺の道を黒い馬が血相を変えて暴走している。
いかん、背中に誰かがしがみついているではないか!
「サウリっ! あの馬を止めろ!」
「はッ!」
僕は小石を拾うと、良くねらって馬の太腿にめがけて二個続けて投げつける。上手く命中したようだ。
(痛い、なに? 痛い!)
(とまれっ、痛いのが嫌なら止まれ、止まるんだ)
スピードが緩んだところで、僕の護衛騎士・サウリが横ざまから馬の手綱にしがみついた。更に騒ぎに気付いた皇室専用の厩の者たちが三人一斉に取りついて馬が止まった。
僕は丘を駆け下りて馬を宥め、右耳についた白い花飾りを取らせた。白い絹の造花に真珠を縫い付けてある。やはり原因はこれだ。僕は首筋を軽くたたいてやりながら、言い聞かせた。
(変な音は、止んだぞ、な、大丈夫だ)
(やんだ、やんだよ)
「殿下、馬が大人しくなりましたな」
「原因はこの花飾りだ」
サウリも厩の者たちも怪訝な顔だ。
「振ると音がするのだが、これは馬が嫌う音なのではないか? 馬が早く走ると音が激しくなる訳だな」
厩の者たちに渡すと、確かにそうです。なぜこんな仕掛けを、いったい誰が、という反応が返ってきた。
真っ青な顔で馬の背中にしがみついていたのは、見知った顔だった。
「セルマ殿、セルマ殿ではないか」
「あ、申し訳ございません」
「セルマ殿、この花飾りを馬の耳につけたのは誰です?」
「えっと……」
その瞬間、セルマの脳裏に一人の女の顔が浮かんだ。あれは、たしか、セルマの教師役の女だ。ヒステリックで小意地の悪い物言いをする女だとしか記憶にないが……
「サウリ、馬の轡を取ってくれ。ゆっくり侯爵夫人の住まいにお送りがてら、話を伺おう」
僕が鞍の前輪に跨り、セルマは僕の背中につかまらせた、セルマの方がまだしっかり頭一つは背が高いので、この方が収まりが良いのだ。体を密着させていると、テレパシーは良く働く。
「昨今宝石をあしらった、こうした飾りを馬に付けるのが宮中の流行だとか何とか言ったのは、誰です?」
「家庭教師です。私が馬に乗る時に『忘れてはなりません』といって、わざわざ馬丁に命じて付けさせたのです」
「この馬は元来、大人しい馬のようですね」
「ええ。メランは良い子のはずなのに、いきなり暴れ出して、驚きました」
なるほど、この黒い若い馬の名前はメランか。
「いつも、この川べりを走るのですか?」
「ええ。自分の住まいに近く、めったに人に会わないので……」
「いつもひとり?」
「いつもは……」
セルマの脳裏に一人の中年男の顔がちらりと浮かんだ。普段は馬に乗って付き従う役目の者らしい。
「ついてくるはずの、護衛も居ないのですね。こりゃあ、変だな……」
(誰かの仕業ね……私が邪魔な人? 母上が邪魔な人? 見当もつかない)
「サウリは侯爵夫人の所の灰色の髪の護衛役の男に、見覚えは有るか?」
「顔ははっきり記憶に無いですが、どちらかの手の甲に刀傷が有り、酷いスコウホイ訛りが有りました」
サウリは郷士の息子だ。幼いころスコウホイ出身の乳母に可愛がられて育ったらしい。
「スコウホイ出身の男かな? 偽名かも知れませんが、何と名乗ってました?」
「私には個人的な事は何も話したことが有りません。エゴン・ステノと名乗っていました」
「あなたの家庭教師役の、琥珀色の目で栗色の髪の女は、何という名です?」
「ハスキル夫人です。スザンナ・ハスキルです。元はどこかの男爵令嬢だったとか。最初にエゴンを連れてきたのはハスキル夫人です」
「雇い入れたのはあなたの母上でしょうから、お話を聞いた方がよさそうですね」
「どうか、あの」
「大げさにしないでほしい、ですか?」
「はい」
「でも、いったい誰が攻撃目標かわかりませんし、調べ無い訳には行かないでしょう」
(私ではなくて、母上を狙って? ああ、そうなのかしら……)
「でもあの、私が……」
「あなたがしっかりしていれば、ですか? あなたに落ち度が有るわけではない。それでもあなたは狙われたのです。理由は二つに一つでしょうね。あなたが僕の側妃候補だからなのか、あなたが侯爵夫人の娘さんだからか……いや、もう一つ考えるべきか」
「もう一つですか?」
「あなたの実の父上の御血筋の所為かもしれませんね」
(亡くなられた父上が? 何か大変な秘密でも背負ってたのかしら?)
「母上からは何も聞いておられない?」
「はい」
「ふうむ」
侯爵夫人は父上の子を身籠っている。噂ではつわりの時期らしいが、父上の前では露ほどもその気配を見せないらしい。大した克己心だ、忠誠心だと持ち上げるものも居れば、そうまでして寵愛を独り占めしたいかと呆れ、憎むものも居る。少なくとも体調不良なわけで、脇が甘くなっていたのかもしれない。娘に対する守りが薄かったのを狙われたのだろう。誰が狙ったのかは皆目不明だが。
「殿下……」
(お慕いしております。私は母上の様に想いを口にする事など出来ませんけれど)
その想いと共に一つの情景が僕の脳裏に飛び込んでくる。頭一つ分以上セルマより背が高くなった僕が、セルマを抱きしめている。ふむ。恋に恋する乙女と言う訳なのだろうが、それだけで片づけられないだろう。セルマを側妃とすると言う事は、その一生を引き受ける事だ。セルマの夢も幸せも全部、引き受ける事なんて出来るだろうか? セルマだけではない。ウルリカも、そして僕の正妃になるであろうアネッテという王女も。
父上が時折すべてを放り出して、街に出かけられるお気持ちが痛いほど分かった。
「重い、な」
「あ、申し訳ございません」
寄りかかった体が重い、という意味にセルマは取ったようだ。まあ、それが普通だろうが。
「いや、良いのです。ですが、僕はまだ、子供ですからね。背負いきれないものが多すぎます」
(ああ、殿下は重い責任あるお立場で、大変でいらっしゃるのに、私ったら……)
何か安請け合いするような言葉を吐くのもためらわれる。僕との仲は不確定で不確かだ。僕が約束を自分で破る事はしないが、国際的な情勢や父上のお考えの変化など、これから先の事は誰にもわからない。
僕の沈黙を、遠回しの拒絶と受け止めたのだろう。セルマがだんだん暗い気分に落ち込んで行くのが分かる。負の感情のスパイラルにはまり込んだようだ。
(ああ……あの可愛らしいウルリカ様がお気に召していらっしゃるのかもしれないわ。それに、今度は隣国の王位継承権のお有りの王女様が御正妃にお決まりになったそうだし……私なんて、殿下の御迷惑にしかならないのかもしれないわ)
そんな事は、僕は思っていない。
「あなたには、あなただけの良いところがお有りなのですよ、セルマ殿。もっと自信をお持ちなさい」
それは本当の事だ。だが、僕がセルマの夫となるかどうかは不確定だと言うだけの事だ。
「申し訳ありません」
「悪くないのに、謝るのはあなたの良くない癖だ。私とあなたの人生がどの程度交わって行くのか不確定だと言う事は、わかってますよね?」
「はい」
「正妃を迎える事になりそうだと言う事も、御存知ですね」
「はい」
「もし、あなたが僕の側妃となっても、あなた一人の僕でいて差し上げることは、今も、これからも、難しいでしょう。そして、それは僕が望んだわけでもあなたが望んだわけでもない。でも、あなたと一緒に生きることになれば、互いにとってより良い物であってほしい。そう願うだけです。今の僕に言える事は、この程度でしかないのです」
「ええ……」
あまりに悲しそうな声で、僕もちょっと言い過ぎただろうかと思った。
「ごめんなさい」
「殿下」
「ああ、もう、お宅の門だ」
すると驚いた事に、大量の宝石を縫い付けた豪奢なドレスを纏ったグラーン侯爵夫人自身が、門から転がり出るようにして我々を迎えた。
「まあ、殿下、ありがとうございます。本当にありがとうございます」
侯爵夫人は一種の興奮状態で、それ以外の言葉が出てこないみたいだった。それでも促されるままに僕が小さいが金のかかった建物の中を突っ切って客間に入ると、意外な先客がいた。大宰相だった。
「殿下! ああ、セルマ殿も御無事で、良うございました」
「意外な所でお会いするな、何が有ったのだ?」
何と、大宰相の邸が襲撃を受けたのだという。
「ウルリカが自室の戸を空けました途端に、いきなり矢が三本撃ち込まれまして……」
(肝心な事を大宰相は僕に隠している……何をそんなに怯えているのだろう)
「脅迫文でもついていましたか?」
どうやら図星であった様だ。
「僕には見せられない、そういう事ですね?」
「で、殿下……」
その脅迫文の文面が大宰相の意識から読み取れた。そして強烈な良心の呵責、更に開き直りも……
(逆賊エリク・ベルワルドはスコウホイから手を引け……か)
「あなたは……あなたともあろう方が、ネードの鉄鉱山と製鉄所で」
スコウホイにあるネードの鉄鉱山と帝国直営の製鉄所の事業は、莫大な権益を生み出す。そもそもそれを始めたのはこの大宰相ではあったが、だが、だからと言って、不正行為を働いても構わないと言う事にはならない。権限を悪用して勝手に増産を命じ、帳簿類を改ざんして、無理に増産させた分を海外、主にミッケリで大々的に売り払い、相当な金額を取り込んでいたのだ。鉱山で罪なき民に強制労働を強いて、どうやら大規模な落盤事故まで発生したようだ。その事が今回の脅迫事件に絡んでいるらしい。
「で、殿下、どうか、どうかご内密に」
なぜ、悪事が僕にばれたか大宰相は訳が分からず、驚愕していた。
「気の迷いですか? どういう訳です?」
そもそもこの大宰相は財政再建のための宮廷内の経費節減に熱心であったはずなのだ。ふと見るとグラーン侯爵夫人が顔を青くしている。そうか、ミッケリか。不正に増産させた銑鉄のインゴットをミッケリで売り払うにあたって、侯爵夫人も重要な役目を果たしたのだ。
この、無駄に豪華なグラーン侯爵夫人のドレスも、この邸も、資金の出どころは不正資金か……するとセルマの馬が暴走した件も脅迫と言うよりは、警告か? 不正から手を引けと……元来、大宰相も、侯爵夫人も馬鹿げた贅沢とは無縁であったはず。自分自身の優れた才能で世に立つ人であったはずなのに……
「申し訳、申し訳ございません」
大宰相はパニック状態だ。
「お許し下さい」
侯爵夫人は床に崩れ落ちるようにして,平伏した。
「原因は僕の両親ですね。わかりましたが……やはり許される事では有りません」
どうやって、落とし前をつけるべきか、困った問題だ。