第9話 最初から
馬車は朝のうちに出る。それだけ決めて、一晩眠れなかった。
枕の横に、コンラート様の書斎から借りたままの薬草図鑑がある。返さなければいけない。返さなければいけないのに、表紙を撫でる手が止まらない。母が持っていたのと同じ革の手触り。同じ金文字の背表紙。
ページの間から、かすかに薬草の匂いがする。
朝日が窓から差し込んで、部屋が白く明るくなった。今日は晴れだ。コンラート様が言った通り。
荷物を持って階段を降りた。玄関に向かう廊下を歩いていると、横の通路からヒルダが出てきた。
「少しだけ、時間をくれないかい」
断れなかった。この老婆の声は穏やかだけれど、有無を言わせないものがある。先代の辺境伯夫人に仕えていた人の、年季の入った「お願い」だ。
ヒルダに連れられて、厨房の隣の小部屋に入った。暖炉に火が入っていて、机の上に温かい茶が二つ。用意されている。待ち伏せされたのだと気づいた。
「あの子のことを、話してもいいかい」
あの子。コンラート様のことだろう。ヒルダにとって、辺境伯は「あの子」なのだ。
「旦那様はね、あなたが王都にいた頃からあなたの噂を聞いていたんですよ」
茶を持つ手が止まった。
「王都の薬師組合で、フォーゲル男爵家の薬師が不当に扱われていると。腕は確かなのに、すべて男爵家の手柄にされて、本人の名前は表に出ない。縁談も本人の意志ではなく、すべて男爵が決めていると。それを聞いた旦那様が」
ヒルダは茶を一口飲んで、目を細めた。しわくちゃの目元が、少しだけ潤んでいるように見えた。
「流行り病の話が持ち上がった時、旦那様はすぐにフォーゲル男爵家に話を持ちかけました。契約結婚という形なら、男爵も断らないだろうと。辺境の流行り病は男爵家の『薬学ブランド』にも箔がつく。旦那様はそこまで計算したうえで、薬師としての腕を貸してほしい、と」
「それは……聞いています。契約書にもそう書いてありますから」
「表向きはね」
ヒルダの声が柔らかくなった。皺だらけの手が茶碗を包んでいる。
「本当は、流行り病を鎮めてほしかっただけじゃないんだよ。旦那様が私に言ったのはね。『あの人を、せめて冬の間だけでも自由にしてやりたい』」
自由に。
「王都で道具みたいに扱われている薬師を、連れ出す口実が欲しかったんだよ。流行り病は本当にあった。でもそれがなくても、旦那様は別の理由を探していただろうね」
奥歯の裏側が痺れた。頭が真っ白になった。茶碗を持ったまま、動けない。
「あの子は言葉が下手でねぇ。お母上に似て、口より手が先に動く人だから」
手が先に動く。
薪を増やしたのは。
「あなたが馬車を降りた時に『寒い』と言ったのを聞いて、その晩のうちに使用人に薪の追加を命じたんだよ。でもあの子、自分で言えないから、使用人にやらせた。本当は自分で持っていきたかったんだろうけどね。それからは毎日、あなたが部屋を出た後に、自分で暖炉を確認していたそうだ。薪が足りているか、火が落ちていないか」
あの温かさは、全部この人の手だった。
門で毎回待っていたのは。
「あなたが『帰る場所があるのは久しぶり』と呟いたのを聞いて、あの子なりに、帰る場所を作りたかったんだと思うよ。門で待つことしか思いつかないのが、あの子らしいけれど。ゲオルクが何度も『旦那様、お寒いですから中で』と言ったのに、聞かなかったそうだ」
書斎にあった薬草図鑑は。
「あれはね、旦那様が王都の書店に探させたんだよ。あなたのお母上が持っていたのと同じ版をって。フォーゲル男爵家の書庫にあった図鑑が、お母上の形見だったと聞いてね。王都中の古書店を回らせたそうだ。なかなか見つからなくて、三軒目でようやく同じ版が手に入った」
全部。
全部、最初から。
茶碗を机に置いた。置いた茶碗がかたかた鳴っている。茶が波打って、琥珀色の水面に天井の光が揺れている。
薪も。門も。図鑑も。追伸の「味も悪くなかった」も。あの全部が。この人は、最初から。
「……全部、最初から?」
声が掠れた。自分の声だと思えなかった。
「ああ。全部」
ヒルダが頷いた。
「あの子はあなたに『ここにいていい』と伝えたかったんだと思うよ。言葉で言えないから、薪で。門で。図鑑で。追伸で。不器用な子だけど、本気だった。最初から、ずっと」
涙が落ちた。こぼれた、というより、勝手に出た。目を拭う前に顎まで伝って、手の甲に落ちた。温かい。自分の涙がこんなに温かいと、知らなかった。
泣いている理由を、一つに絞れない。嬉しいのか、悲しいのか、悔しいのか。たぶん全部だ。この人がずっとそうしてくれていたのに、私は気づかないふりをして、逃げようとしていた。「契約」の壁の向こうに、こんなに大きなものが隠れていた。
父は私の「腕」を必要とした。コンラート様は、私の「腕」がなくても。いや、最初から「腕」じゃなかったのだ。この人が見ていたのは、ずっと「私」だった。
「追伸の、『味も悪くなかった』って、あれ……」
「ああ。あの薬湯はね、旦那様いわく『この世のものとは思えない苦さ』だったそうだよ」
笑った。泣きながら笑った。ひどい顔だと思う。鼻水も出ている。
◇
馬車の前に立った。
御者が手綱を持って待っている。荷物はもう積んである。馬が鼻を鳴らして、蹄で地面を掻いている。あとは乗り込むだけだ。一歩踏み出せば、馬車の扉に手が届く。
でも足が動かない。
さっきまでとは違う。さっきまでは「振り返りたいけど振り返れない」だった。今は違う。振り返りたいんじゃない。
帰りたいのだ。
この館に。あの暖炉の前に。沈黙の食卓に。追伸のある報告書が届く部屋に。門の前に立っている、不器用な人のそばに。
帰りたい。この言葉を、私は二十三年生きてきて初めて、自分の意志で使っている。父のもとに「帰る」のは義務だった。王都に「帰る」のは習慣だった。でも今、ここに「帰りたい」と思っているのは、誰に言われたのでもない、私の感情だ。
涙が止まらない。でも今度は「逃げたい」涙じゃない。生まれて初めて、自分の足でどこかに帰りたいと思っている。
「御者さん」
声がひっくり返った。でも言葉は真っ直ぐだった。
「荷物を、降ろしてもらえますか」
御者が目を丸くした。でも、私は笑っていた。




