第8話 雪解け
荷物は少ない。来た時と同じだけ。何も持ち込まなかったし、何も持ち出さない。そのはずだった。
箪笥の引き出しを開けた。畳んだ服、薬草採取用の革手袋、ショール。その下に、コンラート様からの業務報告書が重ねてあった。全部取っておいたのかと、自分でも呆れた。追伸つきの報告書が十二通。
「味も悪くなかった」「効能が顕著」「本日は雪が深い。外出は控えるように」。最後のは業務報告ではなく、ただの天気予報だ。
これは持っていけない。報告書を一通ずつ箪笥に戻した。指が覚えている。紙の手触りと、角ばった筆跡と、追伸だけ少し乱れたインクの滲み。
窓の外を見ると、軒先の氷柱から水滴が落ちている。雪解けが始まっていた。庭の春告げ草は昨日、三輪目が咲いた。紫色の花弁が風に揺れている。祝祭まであと十日。
十日待てば、契約通りに終わる。正式に、きれいに、何も壊さずに。でもその十日が長すぎる。十日もここにいたら、もう離れられなくなる。
だから今日、出る。
◇
定期便の馬車に便乗する手筈は、昨夜のうちにゲオルクに頼んでおいた。ゲオルクは何も言わなかった。ただ一度だけ「奥様」と呼びかけて、私が振り返ると、口を開きかけて、閉じた。眉間に深い皺が寄っていた。言いたいことがある顔だ。
でもこの人は側近だから、主人の私事には踏み込まない。それから黙って馬車の手配を始めた。
あの表情は、たぶん「旦那様に挨拶していってください」だったと思う。
朝食は食堂に行かなかった。最後の朝食を二人で食べる勇気がなかった。黒パンの匂いが廊下まで漂ってきて、胃の底がぎゅっと縮んだ。
荷造りをしていると、部屋の外に足音が聞こえた。小走りの、軽い足音。
「奥様!」
フィーネが目を赤くして立っていた。
「行ってしまうんですか。祝祭も待たずに」
「契約の仕事は終わったから。もう私がここにいる理由はないの」
「理由なんて」
フィーネの声が詰まった。目から涙がぼろぼろ落ちている。この子は感情を隠すことを知らない。それが眩しくて、少し痛い。
「奥様の煎じたお茶が好きでした。暖炉の前で毛布にくるまってる奥様、可愛かったです。旦那様が奥様のことを話す時の顔、本当に」
「フィーネ」
名前を呼んで止めた。これ以上聞いたら、荷物を下ろしてしまう。
「ありがとう。あなたがいてくれて、楽しかった。本当に」
フィーネを抱きしめた。小さな肩が上下している。ショールに涙の染みが広がった。この子の涙は、温かい。
◇
父への返書を書いた。
便箋を前にして、しばらく何も書けなかった。何を書けばいいのか。「次の縁談には応じません」? 「もう道具にはなりません」? どの言葉も大げさすぎて、自分の気持ちに合わない。
結局、五文字だけ書いた。ペンの先がぶれたけれど、文字は真っ直ぐだった。
「帰りません」
たった五文字。でも、これが私の答えの全部だ。
父宛の封書をゲオルクに預けた。ゲオルクは受け取って、一瞬だけ眉を上げた。封蝋の代わりにフォーゲル家の紋章ではなく、私の名前だけが差出人として書かれていたからだろう。男爵家の娘としてではなく、ロッテ個人として。
◇
コンラート様の書斎の扉を叩いた。
最後の挨拶。これだけ済ませれば、この館を出られる。
「お世話になりました、コンラート様。薬のことはマニュアルに全て記載してあります。ヒルダさんにも引き継ぎ済みです。何かあれば王都の薬師組合に連絡を」
事務的に、淀みなく、完璧に。そう話すつもりだった。
コンラート様は窓辺に立っていた。逆光で表情が見えない。でも肩の線が、いつもより固い。振り返って、私を見た。
しばらく黙っていた。暖炉の火が弱くなっていて、薪を足す人がいなかったんだろう。部屋がいつもより少し寒い。
「……行くな」
敬語でもない。事務口調でもない。報告書の追伸でもない。
この人の口から出たのを聞いたことがない種類の声だった。低くて、掠れていて、喉の奥から絞り出したみたいな。
足が床に貼りついた。膝の裏側の筋が、ぴんと張った。
「……それは、契約にありません」
やっと出した声は裏返っていた。何を言っているんだ。契約。まだそんな言葉を盾にしている。
「わかっている」
コンラート様はそれだけ言って、また窓の外を見た。雪解けの水が屋根から落ちる音が、静かな書斎に響いている。ぽたり、ぽたり。一定の間隔で。春が近づいている音だ。
引き止めの言葉はもう来なかった。「行くな」の後に、何もない。追いすがることも、理由を聞くこともしない。
この人はいつもそうだ。一言だけ本音を落として、あとは相手に委ねる。薪を黙って足して、門で黙って待って、追伸に言葉を隠して。全部、同じだ。
「私を必要としないでください」
口が勝手に動いた。声が裏返った。
「お願いだから」
コンラート様が振り返った。目が、今まで見たことがないくらい、揺れていた。
「必要としているわけではない」
声が低い。いつもの事務口調に戻ろうとして、戻りきれていない。
「ただ、いてほしいだけだ」
必要、じゃない。いてほしい。
その違いがわかるから、余計に苦しい。この人は私の「薬師の腕」がほしいんじゃない。「私」にいてほしいと言っている。父とは違う。全く違う言葉だ。
だから怖い。それに応えてしまったら、もう「契約」の内側には戻れない。
「……すみません」
それだけ言って、書斎を出た。廊下を歩いた。足が重い。一歩ごとに、背中にコンラート様の視線がある。
廊下の角で、足が止まった。
振り返りたい。
振り返って、「私もいたいです」と言いたい。でもその言葉を口にしたら、もう自分を薬師として保てない気がする。感情で動く薬師は、薬師失格だ。父が、ずっとそう言っていた。
でも本当にそうだろうか。母は感情で薬を作る人だった。患者の手を握って、泣いている子供に笑いかけて、その温かさごと薬を届ける人だった。母は薬師失格だったのか。
わからない。今の私には、わからない。
足を動かした。前に。館の玄関に向かって。振り返らない。振り返ったら、終わる。
玄関を出ると、冷たい空気が頬を打った。でもそれは真冬の空気とは違う。雪解けの湿り気を含んだ、春に近い冷たさだった。
馬車が、外で待っている。




