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春を待たない花嫁  作者: 九葉(くずは)


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第7話 春告げ草

 ヒルダの薬草園は、館から歩いて半刻の丘の上にある。


 コンラート様に「領地の薬草園を管理している者がいる」と聞いた時は、正直あまり期待していなかった。辺境の薬草園と言えば、よくて小さな畑に数種類の薬草が植わっている程度のものだ。


 丘を登りきって、息を呑んだ。


 斜面一面に、薬草畑が広がっていた。雪に覆われてはいるけれど、整然と区画が分けられ、冬囲いの藁が丁寧に被せてある。支柱の組み方が見事だった。雪の重さを分散させるように角度をつけて、しかも風向きに合わせて傾きを変えている。


 これは何十年もこの土地の気候と付き合ってきた人間の仕事だ。


「ほう、わかるかい」


 声がした。振り返ると、小柄な老婆が薬草園の端に立っていた。白髪を後ろでまとめて、使い込んだ革の前掛けをしている。手には剪定鋏。顔は皺だらけだが、目は鋭い。


「ヒルダです。旦那様のお母上に仕えておりました」


 先代辺境伯夫人。コンラート様の、母親。

 ヒルダの手は土で黒ずんでいて、爪の間にも土が入り込んでいる。でも指の動きは正確で迷いがない。この人はこの薬草園を何十年も世話してきたのだろう。


雪の下のどこに何が埋まっているか、全部わかっている顔をしている。


「ロッテ先生のことは聞いておりますよ。流行り病を鎮めたのに、今度は変異株で苦労なさっているとか」

「……はい。王都の薬学では対応しきれなくて」

「そりゃそうだろう。この土地の病には、この土地の薬がある」


 母と同じことを言った。胸の奥で何かが引っかかった。


 ヒルダは雪の下から凍った根を掘り出しながら、昔話のように語り始めた。


「この辺境には、王都の教科書には載っていない薬草がいくつかあってね。冬だけ地中に潜る根があるんだ。『霜降り根』と呼んでいるけれど、正式名称は知らない。解熱に使える。ただし煎じ方が少し違う」


「煎じ方?」


「水からじゃない。雪を溶かした水で、沸騰させずに煮る。温度が高すぎると成分が壊れる。先代の奥方様がこの方法を見つけてね。あの方も薬に明るい人だった」


 先代の奥方、コンラート様の母親。薬に明るかったということは、書斎にあった薬草図鑑も、もしかしたら奥方様のために。いや、今はそれどころじゃない。


 私は膝をついて、ヒルダの手元を見た。凍った土を慎重に掘る手つき。薬草を傷つけないように、根の周りの土ごと持ち上げる技術。根の切り口から白い樹液のようなものが滲んでいる。これが有効成分か。


 王都の薬師学校では教えない、何十年もの実践から生まれた手つきだ。


「これを、冬苔と合わせて……」

「冬苔の解熱成分と霜降り根の抗変異成分を組み合わせれば、変異株にも効く。はずだよ。私は薬師じゃないから、調合はお前さんの仕事だ」


 ◇


 診療所に戻って、三時間かけて新しい薬を調合した。


 霜降り根を雪解け水で煮出して、冬苔の粉末と混ぜる。温度管理が難しい。沸騰させたら成分が飛ぶ。鍋の縁に小さな泡が立ち始めた所で火を弱めて、そこからさらに半刻、弱火で煮続ける。途中で何度も匙で掬って色を確かめた。


 薬湯鍋の中の液体が、濁った茶色から徐々に澄んでいき、淡い琥珀色に変わっていく。


 匂いを嗅いだ。苦みの中に、微かに甘い。この甘みは霜降り根の特有成分だろう。王都の薬学書には載っていない匂いだ。いける。薬師の勘がそう言っている。


 エミルに飲ませた。一刻後、額に手を当てた。


 熱が、下がっている。


 半日後にはマリーの咳が止まった。翌朝、ペーターが起き上がって「お腹すいた」と言った。

 効いた。ヒルダの知恵と、私の薬学が、噛み合った。


「先生! エミルが走ってます!」


 フィーネの報告に、思わず診療所の椅子から立ち上がった。窓の外を見ると、三兄弟が雪の上を転げ回っている。母親が泣きながら手を振っていた。隣の家のマリーの母親も出てきて、二人で抱き合って泣いている。


 ああ、よかった。膝の力が抜けて、椅子にへたり込んだ。


「私一人じゃ無理でした」


 ヒルダにそう言った時、自分の声がどんな音をしていたか、よくわからない。ただ、ヒルダは何も言わずに私の肩をぽんと叩いた。その手は骨張っていて、乾いていて、温かかった。


 ◇


 夕方、館の庭を歩いていて、足が止まった。


 雪の下から、何かが顔を出している。紫色の、小さな芽。


 春告げ草。


 雪の隙間から紫色の小さな花弁が覗いている。まだ蕾だ。完全に開くまであと数日。これが咲いたら、春の祝祭の準備が始まる。祝祭が来れば、契約は終わる。


 しゃがんで、蕾に触れた。冷たくて、でも茎にはしっかり水分が通っている。この花は雪の下で冬をじっと耐えて、時期が来れば自分の力で咲く。誰に頼まれるでもなく。


 ずっと待っていたはずの春。病を鎮めて、引き継ぎを終えて、この土地を出る日。それが来る。


 コンラート様の書斎に報告に行った。


「流行り病は収束しました。変異株にも対応できる処方が確立できましたので、マニュアルに追記します。お役目を果たしました」


 自分の声が、やけに事務的に聞こえた。


「……そうか」


 コンラート様はいつものように短く答えた。でも、机の上の羽ペンを握る指の関節が白くなっていた。


 帰ろうとした。扉に手をかけた。そこで、口が勝手に動いた。


「春が来るのが、怖いんです」


 言ってしまった。


 振り返れなかった。背中にコンラート様の視線がある。沈黙が長い。暖炉の火が爆ぜた。


「……怖い、か」

「すみません、今のは忘れてください。疲れているだけです」


 嘘だ。疲れのせいじゃない。春が来たら、この人と暖炉を挟んで黙って食事をする夜がなくなる。門の前に立つ人影が見えなくなる。追伸のついた報告書が届かなくなる。「明日は晴れるそうだ」と的外れなことを言って、私を笑わせてくれる人がいなくなる。


 それが怖い。「契約」で説明できない感情が、もう止められなくなっている。


 でもそれを認めたら、私は「薬師の腕」ではなく「感情」でここにいることになる。父が一番軽蔑するやり方だ。必要とされているから残るのは正しい。でも必要とされなくなった今、残る理由は、ない。ないはずだ。


 部屋に戻って、荷造りの段取りを紙に書き出した。持ってきた荷物の一覧。薬草の引き継ぎ先。診療所の鍵の返却。ペンを持つ手に、力が入らなかった。

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