第6話 母の手
三日目の朝、薬草を擦る手が止まった。動かない。力を入れているのに、擂り鉢の中で棒が滑るだけだ。
寝ていない。正確には、暖炉の前で二時間ほど意識を失ったけれど、あれは睡眠とは言わない。目を覚ました時、コンラート様の肩の温もりがまだ残っていて。いや、それはいい。診療所と館を往復して、薬を調合して、子供たちの容態を確認して、また調合して。
その繰り返しだ。
鉄の薬湯鍋が重い。いつもと同じ鍋なのに、腕の力が足りない。粉の粒度が揃わない。粒度が揃わないと薬の効き方にムラが出る。わかっている。わかっているのに。
フィーネが朝食を運んできてくれたが、黒パンを半分齧っただけで残した。胃が食べ物を受け付けない。代わりに薬湯を自分で煎じて飲んだ。苦い。コンラート様にこの苦さを「悪くない」と言わせているのだから、あの人の忍耐力はたいしたものだ。
新しい調合を試しては効果を見て、配合を変え、また試す。少しずつ効いてはいる。エミルの熱は朝より半度下がった。マリーの咳の間隔が長くなった。でも「鎮圧」には足りない。この病は私の薬の一歩先をいつも走っている。
◇
午後、エミルの母親が診療所に来た。
手に包みを持っていて、中身は焼き立ての胡桃パンだった。「先生、少し食べてください。顔色がひどいですよ」と言って、私の手に押し付けた。
パンは温かくて、割ると胡桃の香ばしい匂いがした。蜂蜜が少し練り込んであって、表面にはけで卵を塗った跡がある。誰かが丁寧に焼いたパンだ。かじると、口の中がぱさぱさだった。味がよくわからない。疲れすぎて舌が鈍くなっている。
でも飲み込むと、胃の底に温かいものが落ちていく感覚だけはあった。
「先生がいてくれて本当によかった」
母親は目を赤くしていた。昨夜も眠れなかったのだろう。目の下に濃い隈がある。でも私の前では笑っている。母親というのはそういうものなのだ。自分が泣きたい時に、子供の前では笑う。
「エミルね、言ってたんです。ロッテ先生の手はお母さんみたいに温かいって」
お母さんみたいに温かい。
手が止まった。胡桃パンを持ったまま、動けなくなった。
温かくない。
私の手は温かくない。薬師の手は冷たい方がいいのだ。患者の体温がわかるから。冷たい手で人を治すのが薬師の仕事で。でもそれは嘘だ。本当は温かい手で治したい。母がそうだったように。
母の手はいつも温かくて、私が熱を出した時はその手で額に触れてくれた。冷たい手の方が良いはずなのに、母の温かい手の方がずっと安心した。
その母を、私は救えなかった。
流行り病で母が倒れた時、私は十三歳だった。薬の知識はあった。父の書庫にある本は全部読んでいた。でも手が動かなかった。調合を間違えた。分量を測り直す時間がなかった。
父が王都から薬師を呼んだ時にはもう手遅れで、母はそのまま二日後に息を引き取った。
母は春の初めに死んだ。庭の銀木犀が咲く前だった。葬儀の日は雨で、銀木犀の蕾が雨に打たれて地面に落ちていた。あの匂いだけは今でも覚えている。
薬師になったのは、母を救えなかったからだ。二度とあの時みたいに手を止めないために。もう誰も、目の前で失わないために。
父が「薬師は感情で判断するな」と言ったのも、あの日からだ。母を亡くした悲しみを、父は「感情を排した技術」に変換した。そして私にも同じことを求めた。泣くな。手を止めるな。正確に薬を擦れ。
でも今、手が止まっている。十年前と同じだ。
◇
診療所の裏手に出た。
雪の上にしゃがみ込んで、膝を抱えた。呼吸が浅い。こめかみが脈打っている。寒いからじゃない。
温かくない。私の手は。母みたいに温かくない。母を救えなかった手で、エミルを、マリーを、ペーターを。
救えているのか。本当に?
わからない。わからない。父が言った通り、私の価値は腕だけで、その腕が通用しなくなったら。だめだ。考えるな。薬を擦れ。手を動かせ。動かせよ。
涙が落ちた。頬を伝って、顎から雪の上に。一滴。また一滴。止め方がわからない。止め方を知っていたはずなのに、今日は駄目だ。
足音が聞こえた。雪を踏む、重い靴の音。
コンラート様だった。
何も聞かなかった。「どうした」も「大丈夫か」も言わなかった。ただ黙って私の隣にしゃがんで、同じ方向を向いて座った。背中が壁に当たって、肩と肩の間に拳一つ分の隙間がある。
長い沈黙だった。私の嗚咽と、雪が降る微かな音だけが聞こえる。コンラート様は何も聞かない。ただ隣にいる。この人は本当に、言葉の使い方が変だ。必要な時に必要なことを言わず、代わりに黙ってそこにいることで何かを伝えようとする。
「……明日の天気は晴れるそうだ」
は。
涙で歪んだ視界のまま、隣を見た。コンラート様は前を向いたまま、まっすぐ雪の積もった庭を見ている。
天気。今、天気の話。泣いている人間の隣で、天気の話。
あまりにも的外れで、あまりにもこの人らしくて。
「……なんですか、それ」
声がひっくり返った。笑ったのか、泣いたのか、自分でもわからない。たぶん両方だ。鼻の奥がつんとして、目尻が熱くて、でも口角が上がっている。
「晴れたら、薬草が採りやすいだろう」
ああ、この人は。泣くなとも、頑張れとも言わない。「大丈夫か」すら聞かない。ただ明日の天気を教えてくれる。明日があることを、当たり前みたいに伝えてくれる。不器用で、的外れで。でも、なぜだろう。それが一番、楽に息ができた。
「……そうですね。晴れた方が、冬苔の状態がいいですから」
立ち上がった。膝の雪を払って、目を擦って、鼻をすすった。みっともない顔だと思う。でも、少しだけ肺の奥まで空気が入るようになっていた。
「コンラート様」
「ん」
「鼻が赤いですよ。寒いなら中に入りましょう。持病があるのに外に座り込んでいたら、今度は私がコンラート様の薬を作る羽目になります」
コンラート様は口元だけで笑った。この人が笑ったのを見るのは、初めてかもしれない。小さな笑いだった。唇の端がほんの少し上がっただけ。でも、その顔は暖炉の火よりずっと温かかった。
並んで診療所に戻った。手はまだ上手く動かなかったけれど、薬草を擦れないほどではなかった。
明日は、晴れるらしい。




