第5話 第二の冬
荷物をまとめた翌日に、子供が倒れた。
引き継ぎマニュアルはほぼ完成していた。薬草の一覧、症状別の処方、保存方法、水場の管理手順。全六十三頁。あとは春の祝祭を待つだけ、そう思って、帰り支度を始めた朝のことだ。
診療所に駆け込んできたのは、三兄弟の末っ子の母親だった。息を切らせて、裸足で。冬の石畳を裸足で走ってきたことが、事態の深刻さをそのまま語っていた。
「先生、エミルが、急に」
走った。薬箱を掴んで、診療所から三兄弟の家まで、雪道を全力で走った。肺の奥が凍る。足が滑る。でも止まれない。
エミルは寝台の上で丸まっていた。顔が真っ赤で、額に触れた瞬間に指先が焼けるかと思った。高熱。咳。呼吸が浅い。布団が汗で湿っていて、小さな拳が白くなるほど握られている。
先月鎮めたはずの流行り病と、症状が似ている。
でも、違う。脈の打ち方が前回と違う。舌の色が前回より暗い。喉の奥の腫れ方も、位置がずれている。薬棚から解熱薬を取り出して飲ませた。効かない。二刻経っても熱が下がらない。エミルの額に当てた手が、同じ温度のまま。体の芯に居座って動かない熱だ。
同じ薬だ。同じ調合比率で、同じ煎じ方をした、同じ薬。前回はこれで三日で熱が引いたのに。
「先生、隣の家のマリーも熱を出して……」
「東通りのペーターも朝から寝込んでいます」
報告が立て続けに来た。全員子供だった。一番上でも十歳。体力がない。時間との戦いになる。
変異株だ。
薬師の知識が答えを出す。同じ病でも、地域と時間の経過で変異する。王都の教科書にも書いてある。辺境は気候が極端だから、変異の速度も早いのだろう。でも教科書に書いてあることと、目の前で子供が苦しんでいることは全く別の話だ。
引き継ぎマニュアルに書いた処方。あれは初期株のためのもので、この変異株には役に立たない。つまり、私が作ったマニュアルは、もう意味がない。
午後から夜にかけて、新しい調合を四種類試した。冬苔の配合比率を変え、樹皮の煎じ時間を延ばし、解熱と鎮咳の順番を入れ替え、鎮痛苔を加えた配合も試した。手が止まらない。薬を擦り、煎じ、濾し、冷まし、飲ませる。その繰り返し。どれも前回よりは効く。
でも完全な「鎮圧」には程遠い。
夕方、五人目の子供が熱を出したと報告が来た。
マニュアル通りの処方では、この変異株には対応できない。私の知識の外にある病だ。
◇
夜、館に戻ると、コンラート様が書斎で待っていた。
「状況は」
「変異株です。前回の薬では抑えきれません。新しい調合を試していますが、決定打がまだ」
声が上擦っているのに気づいて、唇を噛んだ。薬師が動揺を見せてどうする。膝の上で手を組み直したが、爪が掌に食い込んでいた。
「期限は気にするな。必要な限り、ここにいてくれ」
コンラート様の声は穏やかだった。穏やかで、何の条件もなかった。ただ「いてくれ」と。書斎の机の上には領地の報告書が積まれていて、こちらも忙しいはずなのに、立ち上がって私のそばまで来て、まっすぐ目を見て言った。
「いえ、契約ですから」
自分でも驚くほど固い声が出た。コンラート様の目が一瞬、暗くなった。違う、そういうことじゃない。残りたくないわけじゃない。ただ、「必要だから残る」と「残りたいから残る」の区別が、自分の中でつかなくなるのが怖いのだ。
ここに必要とされたから残った。そう思えるうちは安全だ。でも、春が来て、病が治って、契約が終わっても「残りたい」と思ってしまったら、それは私の「腕」ではなく「感情」の問題で、感情で判断する薬師は薬師失格だ。
少なくとも父はそう言った。母が亡くなった時に。「薬師は感情で判断するな」と。
コンラート様は黙って頷いた。それ以上は何も言わなかった。
◇
その夜、遅くまで診療所で子供たちを看た。
薬を飲ませ、額を冷やし、呼吸の音を聞く。エミルの隣のベッドではマリーが咳をしていて、奥のベッドではペーターが眠れずに天井を見つめている。三人とも頬が赤くて、小さな体が熱で揺れている。
水差しの水を替えて、新しい布を冷水に浸して額に載せる。エミルが薄目を開けて「先生、苦い」と言った。薬湯のことだ。「ごめんね、でも飲んで」と言って匙を口に運ぶ。こぼれた薬湯がエミルの顎を伝って、枕に染みを作った。
母なら何を使っただろう。ふと思った。母はこの土地の薬師ではなかったけれど、風土病に詳しかった。「その土地の病には、その土地の薬がある」が口癖だった。王都の教科書に載っている処方がすべてじゃない、と。
でも母はもういない。母の知識は、父が取り上げた図鑑の中にしか残っていない。いや、コンラート様の書斎にある、あの図鑑に。
気づくと、まぶたが落ちていた。
◇
目を開けたら、暖炉の前だった。
館の暖炉。私の部屋の。毛布にくるまった状態で、暖炉の火の前に座っている。いつの間にか診療所から戻されたらしい。フィーネが毛布を掛けてくれたのだろうか。薬草の匂いが自分の指に染みついていて、鉄の薬湯鍋の重さがまだ手のひらに残っている。
隣に、気配がある。
首を動かすと、すぐ横にコンラート様が座っていた。壁に背を預けて、目を閉じている。眠っているのだろうか。私が診療所から戻るまで、ここで。
寒い。
体の芯から冷える。毛布にくるまっているのに。疲労で体温の調節がおかしくなっている。
無意識に、温かい方へ体が傾いた。
目を覚ました時、私の頭はコンラート様の肩に凭れていた。
暖炉の火が落ちかけていて、部屋はさっきより暗い。橙色の光がコンラート様の横顔を照らしている。彼はまだ目を閉じていた。起きているのか眠っているのかわからない。ただ、私が触れている側の肩だけが、ほんの少し下がっていた。
凭れやすいように、肩の力を抜いてくれていたのだ。つまり、起きている。起きていて、起こさないでいてくれた。
飛び退くべきだった。即座に距離を取るべきだった。でも体が動かない。疲れているからだ。寒いからだ。コンラート様の肩が温かいからだ。
それ以外の理由は、ない。
ないはずだ。
窓の外は、まだ暗い。雪が音もなく降っている。春はまだ遠い。
でも、前より怖いのは、春が来ないことではなく、春が来てしまうことだ。




