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春を待たない花嫁  作者: 九葉(くずは)


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第4話 フォーゲルの影

 子供の熱が下がったと聞いたのは、朝食の黒パンにチーズを載せている時だった。


 フィーネが息を切らせて食堂に飛び込んできて、「ロッテ先生のお薬、すごく効いたって! あの三兄弟、もう走り回ってます!」と叫んだ。コンラート様が匙を止めて私の方を見た。


 何か言いたそうな顔をして、でも結局「……そうか」の三文字しか出てこなかった。この人の語彙から「すごい」とか「さすが」は永久に出てこない気がする。


 流行り病は、ほぼ収まった。


 一ヶ月前には診療所に列ができていたのが嘘のように、今では一日に訪れる患者は二、三人。それも流行り病ではなく、腰が痛い、膝が冷える、といった日常の不調ばかりだ。薬の在庫も安定してきたし、領内の水場の衛生管理も整えた。


 引き継ぎマニュアルを作り始めてもいい頃だ。

 グレンヴィントの通りを歩くと、すれ違う領民が頭を下げてくれる。「ロッテ先生、ありがとうございます」「先生のおかげで助かりました」。子供たちは私を見つけると駆け寄ってくる。


 手が冷たいのを知っているから、両方の手を自分の小さな手で包んで温めようとしてくれる。子供の掌は不思議と熱い。可愛くて困る。


 ◇


 変化が訪れたのは、王都からの定期便だった。


 月に一度の郵便馬車。手紙と物資を運ぶ、辺境の命綱だ。冬は遅れることも多いらしい。ゲオルクが仕分けた手紙の中に、私宛のものが二通あった。


 一通目は王都の薬師組合からの公式通知。ヴァイスフェルト辺境伯領で流行り病を鎮圧したことが記録され、功績者として「ヴァイスフェルト辺境伯夫人ロッテ」の名前が登録された、と。


 ヴァイスフェルト辺境伯夫人。


 フォーゲル男爵家の名前は、どこにも書かれていなかった。父がこれまで築いてきた「フォーゲル家の薬学」というブランドに、私の功績は一文字も加わっていない。ここでの仕事は、私個人の実績だ。


 嬉しいと思った。背筋がすっと伸びた。同時に、胃の底が少し重くなった。父がこれを知ったら、どんな顔をするだろう。


 二通目を開いた。


 父の筆跡だった。角ばった、几帳面な字。便箋は上質な羊皮紙で、フォーゲル男爵家の封蝋がきっちり押してある。


「ロッテへ。辺境での仕事、ご苦労であった。流行り病を鎮めたとの報告を受け、満足している。フォーゲル家の薬学の名声はお前の働きによって一層高まることだろう。契約期間が満了したら速やかに戻りなさい。次の縁談がすでに調っている。相手は王都近郊の子爵家で、お前の薬師の腕を高く評価してくださっている。詳細は帰還後に伝える。健康に留意せよ。父より」


 便箋を畳んだ。丁寧に、元の折り目に合わせて。手が冷たいだけだ。


「満足している」のは父であって、私の気持ちは聞かれていない。次の縁談の「相手」が誰かも書いてあるのに、私が何を望んでいるかは一行もない。


 怒りではなかった。もうとっくに通り越した場所にある感情だ。母が生きていた頃、父はもう少し違ったと思う。少なくとも「ロッテはどう思う?」と聞いてくれた記憶がある。母が亡くなってからだ。父が私を見る目が「娘」から「薬師」に変わったのは。


 ただ、舌の奥に苦い味が広がった。朝に飲んだ薬湯の残り味かもしれないし、そうじゃないかもしれない。


 便箋を箪笥にしまった。捨てはしない。父の手紙はいつも取っておく。読み返すためではなく、自分がどこから来たのかを忘れないために。


 ◇


 夕食の席で、コンラート様が私を見た。


 いつもと変わらない沈黙の食事のはずだった。煮込みを口に運んで、黒パンをちぎって、チーズを齧る。いつもの手順。いつもの味。でも今日は、パンの甘さがよくわからなかった。


「……何かあったか」


 コンラート様が匙を置いて聞いた。声が少しだけ、本当に少しだけ柔らかい。


「父からの手紙です。なんでもありません」


 笑った。いつも通りの笑顔を作ったつもりだった。口角を上げて、目を細めて。


 コンラート様は何も言わなかった。でも、匙を持ち直す手が少し遅かった。「なんでもありません」が嘘だと気づいている顔をしていた。追及はしない。この人はいつもそうだ。踏み込まない。でも、見ていないふりもしない。


 黙ったまま、コンラート様がわざわざ立ち上がって暖炉の薪を一本足した。食事中に自分で薪を足すなんて初めてで、使用人を呼べばいいのに、と思ったけれど。席に戻る時、私の椅子の横を通りがかって、一瞬だけ足が止まった。何か言おうとしたのかもしれない。


 でも何も言わず、自分の椅子に座り直した。


 部屋が少し温かくなった。それだけだった。それだけのことが、父の手紙よりずっと長く胸の中に残った。


 ◇


 その夜、部屋で引き継ぎマニュアルを書き始めた。


 この領地で使える薬草の一覧。症状別の処方箋。水場の衛生管理の手順。解熱薬の調合比率。すべてを紙に落とし込んでいく。


 書きながら、薬草の正式名称と地元の呼び名が違うことに気がついた。王都では「白冬草」と呼ぶ薬草を、この土地では「雪の耳」と言う。「解熱蔦」は「赤蔓」。「鎮痛苔」は「岩の涙」。診療所で使うなら地元名も併記しないと混乱する。


 こういう実務的な問題に集中していると、余計なことを考えずに済む。父の手紙のことも、コンラート様が黙って薪を足したことも、全部脇に置いて、薬草の名前だけを考えていられる。


 ペンを走らせる手が止まらない。薬の配合量。投薬間隔。保存方法。注意事項。この土地特有の気候による保存期間の変化。冬場の煎じ方と、春先に気温が上がった後の煎じ方の違い。全部書く。全部残す。私がいなくなった後も、この土地の人が困らないように。


 春の祝祭まで、あと一ヶ月半。


 引き継ぎが終われば、去る。父の手紙に返事は書かなかった。次の縁談には応じない、そう決めているのに、まだ言葉にできていない。


 ペンを置いて、窓の外を見た。雪はまだ深い。春の気配はまだどこにもない。月明かりが雪原を青白く照らしていて、世界が止まったみたいに静かだった。


 それなのに、時間が足りないような気がして、焦りだけが指先に残った。

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