第3話 暖炉のあいだ
この館での生活に慣れてきた自分が、少しだけ怖い。
ヴァイスフェルト領に来て二週間が過ぎた。流行り病の対応は軌道に乗り、診療所を訪れる患者も減ってきている。新しく調合した薬湯が効いているのだろう。子供たちの顔色が良くなるのを見ると、やっぱりこの仕事が好きだと思う。
夕食は相変わらず食堂で取っている。いつの間にか、それが当たり前になった。黒パンを割って、チーズを載せて、煮込みをすくう。辺境伯様は黙って食べる。私も黙って食べる。会話はほとんどないのに、沈黙の質が変わった気がする。
最初の頃の「他人同士の沈黙」から、「同じ屋根の下にいる人間の沈黙」に。
その違いに名前をつけたくないから、気づかないふりをしている。
◇
夕食後、自室に戻る途中でコンラート様の書斎の前を通りかかった。
いつの間にか頭の中で「辺境伯様」の前に名前がつくようになっている。口には出していない。まだ。
書斎の扉が薄く開いていて、中から咳が聞こえた。乾いた咳ではない。喉の奥で何かが引っかかるような、湿った咳だ。薬師の耳には、ただの風邪とは違う音に聞こえる。
ためらった。薬師としての職業病が顔を出す。契約書には「互いの私生活に干渉しない」とある。でも、咳の音がもう一度聞こえた時、足が動いていた。
部屋に戻って薬湯を用意し、書斎の扉を叩いた。
「辺境伯様。……いえ、コンラート様」
名前で呼んだのは、初めてだった。自分でも驚いている。でも「辺境伯様、咳の具合はいかがですか」より「コンラート様」の方が、なぜか自然に出た。
扉が開いた。コンラート様はほんの一瞬だけ目の動きが止まって、それから何事もなかったように「何か用か」と聞いた。声はいつもと変わらない。
「この症状は風邪ではありませんね?」
薬師の顔に切り替える。薬湯の入った杯を差し出しながら、顔色を診た。唇の色が初日より悪い。首筋の脈が少し早い。
「……呪いの後遺症だ」
「呪い」
「幼い頃に受けた。冬になると症状が出る。命に関わるものではない」
「関わりますよ」
つい口調が硬くなった。命に関わらないと自分で判断するのは、一番危ない患者の特徴だ。
「冬の呪いの後遺症なら、体内の気の巡りが滞っている可能性があります。私に診せてください」
言い切ってから、「あ、これ完全に契約の範囲外の発言だ」と気づいた。でもまあ、薬師が目の前の患者を放っておけるはずがない。職業病だ。二度目の使用。
◇
暖炉の前で向かい合って座った。
私が脈を取り、舌の色を確認し、首の後ろに手を当てる。コンラート様は黙って私のなすがままにされている。こんなに近くで顔を見るのは初めてだった。切り傷の跡は頬だけでなく、顎の下にもある。戦場の傷だろう。
睫毛が意外と長いことに気がついて、すぐに「そんなことはどうでもいい」と自分を叱った。
それより気になったのは、私が手を当てた時に、ほんの少しだけ肩が強張ったことだ。人に触れられ慣れていない体の反応。この人は領主で、軍人で、周囲にいつも人がいるはずなのに。触れられることには慣れていない。
「……温かい手だな」
「薬師の手は冷たい方が良いんですが、ここの暖炉が優秀なので」
よくわからない返しをしてしまった。
「呪いの後遺症、薬で緩和できると思います。毎日薬湯を作りますので、朝晩飲んでください」
「……ああ。ありがとう」
ありがとう。業務報告書の追伸ではなく、声で聞くその言葉は、思ったより低くて、思ったより柔らかかった。
そのまま少し黙った。暖炉の火が爆ぜる音だけが響く。帰ればいいのに、立ち上がるきっかけを掴めないまま、二人とも暖炉の火を見ていた。
扉が開いた。
「旦那様、お茶をお持ちしま……あ」
フィーネが盆を持ったまま固まった。暖炉の前に並んで座る私たちを見て、顔をぱあっと輝かせた。嫌な予感がする。
「旦那様、奥様のことばかり見てますよ」
空気が凍った。暖炉のそばだというのに。
コンラート様は石のように動かなくなった。目線は完全に暖炉の火に固定されて、手が膝の上で握り直されている。
私も動けなかった。否定するにも肯定するにも、適切な言葉が見つからない。
「フィーネ」
「はい?」
「茶を置いて出ろ」
コンラート様の声は平坦だったけれど、首の後ろをしきりに撫でている。フィーネは不思議そうな顔で茶を置いて出て行った。扉が閉まった後の沈黙が、今夜一番長い。
「……あの子は思ったことをすぐ口に出す」
「ええ、まあ、元気の良いお嬢さんですね」
「悪気はない」
「わかっています」
全然噛み合っていない会話なのに、互いに「フィーネの発言は聞かなかったことにする」という合意だけが成立していた。
コンラート様が唐突に話題を変えた。その不自然さが、逆にこの人の動揺を証明している。
「薬草の図鑑が書斎にある。よければ使ってくれ」
書斎の棚から取り出されたのは、革表紙の重厚な一冊だった。ずっしりと重い。背表紙の金文字は「北方薬草大全 第三版」。開いた瞬間、手が止まった。
母が持っていたものと同じ版だ。
同じ著者、同じ出版年、同じ装丁。母が亡くなった後、父が「実用的だから」と男爵家の書庫に取り上げた、あの図鑑。内容は同じでも、こうして手に取ると指が覚えている。母がよく開いていたのは薬草の精油のページで、紙の端が少し波打っていた。
母の指の跡だった。
この図鑑は新しい。紙はまだぱりっとしていて、誰かの指の跡は残っていない。でも、同じ本だ。
「……立派な図鑑ですね。辺境では珍しいのでは?」
「以前、必要があって取り寄せた」
必要。何の必要だったのだろう。ふと棚を見ると、本の並びが気になった。軍略書と農業書が交互に並んでいる。その合間に薬草図鑑が一冊だけ、妙に大切そうに立てかけてある。独自の分類体系なのか、単に片付けが苦手なのか。
いや、軍人の書斎がこんなに整頓されているのだから後者ではないだろう。
でもそれ以上聞かなかった。聞いたら、答えが返ってきそうで怖かった。
「ありがとうございます。大切に使わせていただきます」
図鑑を胸に抱えて部屋に戻った。暖炉の前に座って、表紙を撫でた。
母の図鑑と同じ本。この偶然に意味を見出すのは、やめておく。
春まで、あと二ヶ月と少し。




