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春を待たない花嫁  作者: 九葉(くずは)


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第2話 門の前の人

 雪の上に落とした薬草は、五秒で凍る。この土地で薬師をやるというのは、そういうことだ。


 ヴァイスフェルト領に来て数日。私は領都グレンヴィントの小さな診療所で仕事を始めていた。流行り病の患者は思ったより多い。高熱と咳が続く症状で、体力のない老人と子供に集中している。


 王都から持ってきた薬の在庫を確認して、足りない分は現地の薬草で補う。幸い、この辺境は寒さの代わりに薬草の種類が豊富だった。雪の下に埋もれた冬苔から解熱の成分が取れるし、凍った樹皮を煮出せば咳止めになる。


 診療所は石造りの小屋で、暖炉が一つ。薬棚は空に近かった。前任の薬師は半年前にこの土地を離れたらしく、それ以来まともな治療ができていなかったそうだ。棚の薬瓶を一つ一つ開けて中身を確認した。期限切れ、変色、沈殿。使えるものは三割もなかった。


 全部入れ替えだ。


「ロッテ先生、この子の熱がなかなか下がらなくて……」


 先生。その呼び方をされたのは久しぶりだった。王都では「フォーゲル男爵家の薬師」としか呼ばれなかった。名前はおまけみたいなもので、父の家名が私の看板だった。


 ここでは違う。「ロッテ先生」。私個人の名前。それだけで、少しだけ背筋が伸びる。


「大丈夫ですよ。この薬湯を朝晩飲ませてください。味が苦いので、蜂蜜を少し混ぜてもかまいません」


 子供の額に手を当てて、熱の具合を確かめる。薬師の手は冷たい方がいい、患者の体温が正確にわかるから。でも今日の私の手は冷たすぎて、子供が「つめたい」と顔をしかめた。ごめんね。


 ◇


 午後は薬草の採取に出た。


 雪の森は静かだ。自分の足音と、枝から雪が落ちる音しかしない。手袋を二重にしてきたのに、指先の感覚がどんどん薄くなる。呼吸のたびに白い煙が顔の前に広がって、睫毛の先に霜がつく。


 それでも森の空気は好きだ。王都の診療所にいた頃は、壁と天井しか見えない部屋でずっと薬を擦っていた。ここでは空が広い。雪で覆われた針葉樹の枝の隙間から、薄い冬の日差しが差している。吸い込む空気に松脂の匂いが混じって、冷たいけれど澄んでいる。


 冬苔を見つけて屈みこんだ時、岩の隙間に見慣れない苔が生えているのに気がついた。薄い紫色で、表面に細かい毛がある。


「これ……鎮痛苔か? いや、王都で見たのとは色が違う。変種? もし鎮痛成分が含まれているなら、解熱にも応用できるかもしれない。いやでも、この気温で紫色を維持しているということは、色素体の構造が」


 気づくと十分くらい岩の前でしゃがんだまま独り言を言っていた。手がかじかんで感覚がない。薬草を前にすると周りが見えなくなるのは昔からの悪い癖だ。


 採取した薬草を籠に入れて、館に向かって歩く。足跡が雪に深く沈んで、一歩ごとにぎゅっと音がする。


ショールの端が風で捲れるたびに首筋に冷気が滑り込んでくる。早く暖炉の前に行きたい。もう暖炉のことしか考えられない。暖炉と毛布と、できれば温かい茶。


 それだけあれば他には何も要らない。


 館が見えてきた。門の前に人影がある。


 コンラート辺境伯様だった。


 門の柱に背を預けて、腕を組んで立っている。マントも羽織っていない。寒くないんだろうか。私に気づくと、ほんの少しだけ背筋が動いた。


「……お帰り」

「ただいま戻りました、辺境伯様。あの、なぜ門に?」

「視察の帰りだ」


 後ろから歩いてきた側近のゲオルクが、小さく咳払いをした。


「旦那様、本日は午後ずっと執務室にいらしたかと」

「ゲオルク」


 辺境伯様の短い一言で、ゲオルクは口をつぐんだ。ただ、目だけが「ほら、こういう人なんですよ」と語りかけている。ような気がする。私に向けた目配せだったのか、独り言だったのか。


「……帰る場所があるのは久しぶりです」


 考えるより先に口が出た。門をくぐる時にぽつりと呟いた言葉で、辺境伯様に聞こえたかどうかもわからない。


 でも横目で見ると、辺境伯様が一瞬だけ目を逸らした。首の後ろに手をやっている。寒さのせいだろう。きっとそうだ。


 ◇


 部屋に入った瞬間、暖炉めがけて突進した。


 靴を脱ぐより先に暖炉の前に座り込んで、両手を火にかざす。ショールを頭からかぶり直して、さらに寝台から毛布を一枚引っ張ってきて肩に巻く。それでも足りなくて、二枚目の毛布を膝に掛けた。三枚目は腰に巻いた。もはや毛布の塊だ。暖炉と一体化したい。


「奥様、お茶をお持ちしま……」


 フィーネが盆を持って入ってきて、固まった。


「奥様、辺境にいらしたのに寒がりなんですね」

「……私は薬師であって、雪山の冒険者ではないの」

「ふふ。でも奥様、暖炉にくっつきすぎると髪が焦げますよ」


 慌てて距離を取った。フィーネが淹れてくれた茶は、この土地のハーブを使ったもので、少し苦いけれど体の芯から温まる。両手で包み込むように持って、ゆっくり飲んだ。ああ、生き返る。


 夕刻、部屋に書類が届いた。辺境伯様からの業務報告書だった。領地の現状、流行り病の患者数の推移、薬草の在庫状況。必要な情報が簡潔にまとまっている。


 最後の行に目が止まった。


「追伸:本日の薬湯は効能が顕著だった。味も悪くなかった」


 薬湯の味。朝、辺境伯様の分も調合しておいたのだ。血色が悪いのがずっと気になっていて、体を温める生薬を多めに配合した。あの薬湯は正直かなり苦い。口の中に薬草の渋みが残って、後味も重い。「悪くなかった」は、相当頑張った表現だと思う。


 業務報告書の追伸に、薬湯の味の感想。


 これはどの欄に分類すればいいんだろう。「業務」ではない。「私生活への干渉」と言うほどでもない。ただの、何だろう。わからない。


 追伸の文字を指でなぞって、気づいた。筆跡がほんの少しだけ乱れている。他の行は軍人らしい角ばった楷書なのに、この追伸だけ、ペンを持つ手が迷ったような跡がある。書き慣れない言葉を選んでいるみたいだ。


 便箋を畳んで、箪笥の引き出しにしまった。しまってから、なぜ捨てずにしまったのか自分でもよくわからなかった。業務報告書なのだから、内容を確認したら処分すればいい。追伸がついていたくらいで、保管する理由はない。


 引き出しを閉めた。


 春まで。春の祝祭が終われば、ここを出る。それまでは仕事に集中する。


 門で待っていた理由も、追伸の意味も、考えなくていい。

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