第10話 春を待たない花嫁
馬車を降りたのは、荷物を取りに戻るためだ。と、そういうことにしておく。
玄関に入ると、フィーネが廊下の奥から走ってきた。目が真っ赤に腫れているくせに、顔全体で笑っている。「奥様!」と叫んで抱きついてきた。答える前に抱きしめ返した。この子の体温は相変わらず高い。
ゲオルクが後ろに立っていた。何も言わなかったけれど、口元が少し緩んでいた。この人が笑うのは初めて見た。
「コンラート様は」
「書斎に」
ゲオルクの返事は短い。主人に似たのか、主人がこの人に似たのか。
◇
書斎の扉を叩いた。返事がない。もう一度叩いた。かすかに「……ああ」と聞こえた。
扉を開けた。コンラート様は机に向かって書類を広げていた。でも、ペンを持っていない。インク壺の蓋も閉まっている。仕事をするふりをしていただけだ。
顔を上げた。目が少し赤い。この人も寝ていないのだと、薬師の目でわかった。
「……戻ったのか」
「はい。あの、荷物を……取りに」
嘘だ。荷物は馬車から降ろした。全部。でもいきなり本当のことを言う勇気が出ない。
コンラート様は私を見ていた。じっと。いつもはすぐに逸らす目が、今日は逸れない。
「荷物なら、部屋にある」
「……はい」
「持って行くのか」
短い問いだった。でもその声は、昨日の「行くな」よりずっと小さかった。喉の奥で詰まったような、不安定な音。
深呼吸した。一回。もう一回。暖炉の火が爆ぜる音がする。窓の外で、雪解けの水が落ちている。この書斎の匂いは、紙とインクと、少しだけ薬湯の匂いがする。私が毎朝ここに届けていた薬湯の。
「私は」
声が出た。上擦っていたけれど、止まらなかった。
「私は、あなたに必要とされたくなかった。私の薬師の腕じゃなくて、私を見てくれる人が、怖かった。父がずっと腕だけを求めてきたから、腕以外の部分で人に求められると、どうしていいかわからなくて」
コンラート様は黙って聞いている。ペンを持たない手が、机の上で握られている。
「でも」
言葉が詰まった。続きが出てこない。薬の調合なら正確に手順を説明できるのに、自分の気持ちを言葉にする方法は、どの教科書にも載っていない。
「……わかっている。全部」
コンラート様が言った。声が低くて、かすれていて、いつもの事務口調とは全く違った。
「全部?」
「お前が怖がっていることも。逃げたかったことも。それでも戻ってきたことも」
ああ、この人には全部見えていたのだ。言葉が少ないのは、感情がないからじゃない。全部見えているから、言葉にする必要がなかったのだ。
「……ありがとうございます」
「礼を言われることではない」
「いいえ。怖がっている私を、追いかけないでくれたことに。待っていてくれたことに。門の前で。薪で。追伸で。全部、ヒルダさんから聞きました」
コンラート様の肩甲骨のあたりがびくりと動いた。口が「ヒルダ、余計なことを」と動いたけれど、声にはなっていなかった。
「……薬湯を、持ってきてもいいか。朝の分、まだ飲んでいないだろう」
笑ってしまった。泣いてるのか笑ってるのか、もうわからない。この人は、この期に及んで薬湯の話をしている。
「はい。作ります。今日の分も、明日の分も」
◇
春の祝祭の日が来た。
グレンヴィントの広場に領民が集まっている。春告げ草の花が道の両脇に飾られ、紫色の花弁が風に揺れている。焼き菓子の匂いが漂ってきて、子供たちが走り回っている。エミルが私を見つけて「先生!」と叫んだ。元気だ。
走る速度も、声の大きさも、完全に回復している。
領民たちが花冠を編んでいた。春告げ草と冬薔薇を組み合わせた、小さな花冠。白と紫の花弁が交互に並んで、細い蔓で編み込まれている。フィーネが私のところに持ってきて、「奥様、春ですよ!」と泣きながら笑った。この子は泣きながら笑うのが得意だ。
私もだけど。
花冠を頭に載せた。似合うかどうかはわからない。鏡がないから、水瓶の水面を覗いた。
紫と白の花冠をかぶった女が、泣きながら笑っている。髪が少し乱れていて、目の下に隈がある。この冬で少し痩せた。お世辞にも綺麗とは言えない顔だ。でも悪くない。この顔は、自分で選んだ場所にいる人間の顔だ。
「ロッテ」
名前を呼ばれた。「様」なしの、ただの名前。振り返ると、コンラート様がいた。コンラート。もう「様」は要らないかもしれない。
「契約を、更新したいのだが」
この人はまだ「契約」と言っている。相変わらず、言葉の選び方が壊滅的だ。
「契約はいりません」
遮った。コンラートの目が見開かれる。
「私は自分の意志でここにいます。あなたの隣に。契約でも、業務でも、追伸でもなく」
コンラートの耳の先が赤くなった。いつも首の後ろを掻いたり、目を逸らしたり、天気の話を始めたりして誤魔化していたこの人が、今日は誤魔化さない。耳だけじゃなくて頬まで赤い。口を開いて、何か言おうとして——結局、「……そうか」しか出てこなかった。
いいよ。それで。この人はそういう人だ。
◇
その夜、フォーゲル男爵家に、正式な書面が届いた。
「ヴァイスフェルト辺境伯夫人ロッテは、自らの意志により、辺境伯夫人としてヴァイスフェルト領に留まることを宣言する」
父がその書面を読んでどんな顔をしたかは、知らない。後日、ゲオルクからの伝聞で「男爵殿は書斎から暫く出てこなかったそうです」と聞いただけだ。
父のことを、嫌いではない。たぶん。ただ、もう道具には戻らない。
祝祭の広場で、コンラートの隣に立った。花冠がずれて、コンラートが黙って直してくれた。不器用な指が私の髪に触れた時、耳の後ろがすっと冷たくなった。触れられた場所だけが、しばらく温かいまま残っている。この人の手も、温かいのだと初めて知った。
「……コンラート」
「様」を外して呼んだのは、これが初めてだった。
「ん」
「春が来ましたね」
「……ああ」
「怖くなかったです」
嘘じゃない。春が来た。契約は終わった。でも私はここにいる。自分の足で。自分の意志で。
広場の向こうで、春告げ草のハーブティーが振る舞われている。子供たちが走り回っている。ヒルダが薬草園の丘の上から手を振っている。フィーネがまた泣いている。
ここが、私の場所だ。
暖炉の薪は、明日からは自分で足そうと思う。いや、やっぱりコンラートに足してもらおう。あの人の「業務」を奪うのは、少し忍びない。
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