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春を待たない花嫁  作者: 九葉(くずは)


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第1話 冬の花嫁

 結婚相手の顔を、私は今日初めて見た。


 馬車を降りた瞬間、肺の奥まで凍る空気が突き刺さって、最初に出た言葉が「寒い」だった。契約結婚の第一声としては最悪だと思う。


 ヴァイスフェルト辺境伯領。王国の最北端、一年の大半が冬で埋まる土地。ここで流行り病を鎮めるのが私の仕事で、春の祝祭が来れば契約は終わる。それだけの話。


 父が決めた縁談だった。「お前の薬師の腕を買ってくださる奇特な方だ」と、まるで棚卸しの品物みたいな言い方をされた。まあ、いつものことだ。フォーゲル男爵家の三女に期待されているのは薬師の腕だけで、私という人間にはたぶん、値札がついていない。


 それでも引き受けたのは、王都から離れたかったからだ。父の顔も、父が次に持ってくる縁談の話も、もう少しだけ見なくて済む場所がほしかった。辺境で冬を越すくらい、薬が作れるなら怖くない。


 寒いのは、怖いけれど。


 館の門の前に、一人の男が立っていた。


 黒髪を短く刈り上げた、背の高い青年。頬にうっすら切り傷の跡があって、目つきは冬の湖みたいに静かだ。凍った湖の底を覗き込むような、そういう目。


 薬師の癖で、つい相手の顔色を診てしまう。血色がよくない。唇の色が薄い。冬のせいだけじゃなさそうな顔色だけれど、初対面でそれを指摘するほど無神経ではない。たぶん。


「ヴァイスフェルト辺境伯、コンラートだ。遠路ご苦労だった」


 短い。声も低い。必要最小限という言葉がそのまま歩いている人だ。


「フォーゲル男爵家のロッテです。契約の件、改めてよろしくお願いいたします」


 私も短く返した。互いに敬語で、互いに事務的で、互いの目を見ている時間はほんの一瞬だった。

 これでいい。これがいい。それが一番安全だ。余計な期待も、余計な感情も、この契約には要らない。


 ◇


 案内された部屋は、思っていたより丁寧に整えられていた。


 寝台のシーツは糊が効いていて、窓辺には小さな花瓶。中身は冬薔薇が一輪。白い花弁の縁だけ、ほんの少し青みがかっている。雪の中でも咲く花だと聞いたことがある。誰が活けたんだろう。辺境伯様がこういうことをする人には見えないけれど。


 部屋の隅には古い木の箪笥と、水差し、それに小さな鏡台。鏡台の脚が少し歪んでいて、何度か修理した跡がある。質素だけれど、雑じゃない。ちゃんと人が使うことを考えて用意されている。


 それより暖炉だ。火はもう入っている。薪の組み方を見て、つい口が出た。


「……この組み方だと二時間で灰になる」


 誰に言うでもなく呟いて、荷物を置くより先に薪の配置を直した。職業病だ。薬湯を煮る時に火加減は命に関わるから、薪の組み方には無駄にうるさい。太い薪を下に敷いて、細いのを斜めに立てかけ直す。これで四時間は持つ。


 手を温めて、やっと息がつけた。窓の外は白一色。王都の冬とは厚みが違う。あっちの寒さは肌の上に乗るだけだけど、ここの寒さは骨の隙間に入ってくる。指の関節がきしむ。爪の先が痺れる。

 薬を調合する手がかじかんだら仕事にならないから、手袋は二重にしないと駄目だろう。


 ◇


 夕食は自室で取るつもりだった。


 契約書にも「互いの私生活に干渉しない」と明記してある。食事くらい一人で食べたい。

 ところが、下女の少女が困った顔で部屋に来た。確かフィーネといったか。


「あの、奥様。旦那様が食堂でお待ちです」


 奥様。その呼び方は契約上正しいのだけれど、何だか背中がむず痒い。


「食堂、ですか。契約書には」

「旦那様が」


 フィーネはにこにこ笑っているだけで、それ以上何も説明しなかった。押しが強いのか、天然なのか、判断がつかない。


 食堂は暖炉の前に小さなテーブルが一つ。向かい合わせの椅子が二つ。コンラート辺境伯様は既に座っていて、私が来ると目だけで頷いた。「座れ」とも言わない。椅子を引くこともない。ただ、私の分の食事が並んでいるという事実だけがそこにある。


 干し肉と根菜の煮込み。黒パン。山羊乳のチーズ。質素だけれど、体が芯から温まる食事だった。黒パンは外がかりっと硬くて、割ると中から麦の甘い匂いがふわりと立つ。チーズは塩気が強めで、煮込みの薄い味を引き締めている。


 根菜は崩れるほど柔らかく煮てあって、舌の上でほろりと溶けた。


 辺境の食事は粗末だと覚悟していたのに。思っていたより、ずっと丁寧だ。誰かがちゃんと手をかけて作っている。


 会話はない。


 辺境伯様は黙々と食べ、私も黙々と食べた。匙が皿に当たる音と、暖炉の薪が爆ぜる音だけが食堂を満たしている。不思議と気まずくはなかった。沈黙に悪意がないのは、わかる。この人は単純に、食事中に話す習慣がないのだろう。


「……食事は口に合ったか」


 食べ終わる頃に、ぽつりと聞かれた。


「はい。温かくて助かりました。根菜の煮込みは」

「そうか」


 感想を言い終わる前に、終わった。

 辺境伯様はそれ以上何も言わず、私が「ごちそうさまでした」と立ち上がると、小さく「ああ」と答えただけだった。


 食堂を出る時、一瞬だけ振り返った。辺境伯様はまだ椅子に座っていて、空になった私の皿をぼんやり見ていた。何を考えているのかは、わからない。


 ◇


 部屋に戻って気づいた。


 暖炉の薪が、増えている。


 私が組み直したのとは別に、新しい薪が三本追加されていた。太い樫の薪だ。火の勢いが、出ていった時より明らかに強い。部屋の空気がさっきよりずっと温かくて、入った瞬間にショールの下の肩の力が抜けた。


 誰が。いつ。食事の間に使用人が足したのだろうか。でも私は組み方を直したばかりで、足す必要はなかったはずだ。必要がないのに増えている理由は。


 もしかして、私が馬車を降りた時に「寒い」と言ったのを、聞いていたんだろうか。門に立っていたのは、コンラート辺境伯様だけだった。


 いや、考えすぎだ。使用人が気を利かせただけだろう。辺境伯様がそんな、口では何も言わず、黙って薪を増やすような人だとしたら。

 それは契約書のどこにも書いていない行為で、対処の仕方がわからない。


 毛布を引き寄せて、暖炉の火に手をかざした。指先がじわりと温まって、爪の先まで血が巡る感覚が戻ってくる。

 春まで。春の祝祭が終われば、ここを出る。

 薪が増えていたくらいで、動揺するような私じゃないはずだ。

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