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君がくれた声  作者: 中村雅
season2
11/12

なんでママはいないの?

朝5時。


まだ空が群青色を残している時間、キッチンの灯りだけが静かに家を照らしていた。


トースターの小さな音。

味噌汁の湯気。


エプロン姿の春人が、手際よく卵を巻いている。

その奥、リビングには大きなスーツケース。

今日から夏帆は全国ツアーだった。


寝室のドアが、きぃ、と小さく開く。


「……ママ?」


眠たげな声。娘の奏の声だ。

振り向いた夏帆の胸が、きゅっと締めつけられる。


「奏、おはよう」


小さなパジャマ姿の奏は、目をこすりながら立っていた。


「もう行っちゃうの?」


夏帆はしゃがみ、奏と同じ高さになる。


「うん。ちょっとだけね。三日間」


“ちょっと”と言いながら、その三日間が長いことを、奏は小さいながらもよく知っている。

奏は何も言わず、スーツケースをじっと見る。

 

その視線が痛い。

 

春人が明るく言う。


「ほら、朝ごはんできたぞー」


いつも通りの声。

でも、その“いつも通り”が、どこか少し無理をしている。



いつもの食卓。

奏は箸を持ちながら、黙っている。

テレビでは朝のニュースが流れていて夏帆のツアー初日を紹介する映像が映っていた。


「本日からスタートする人気シンガー・KaHoさんの――」


奏の手が止まる。

画面に映る夏帆は、きらきらしていた。

でも、今ここにいる夏帆は、少しだけ不安そうな顔をしていた。


奏が小さい声で呟く。


「なんでママはいないの?」


その一言で、空気が止まる。

夏帆の心臓が、強く打つ。


「え……?」

「なんで、みんなの前では歌うのに、奏のそばにはいないの?」


小さな声。


責めているわけじゃない。

ただ、純粋な疑問。


それがいちばん刺さる。

夏帆は言葉を探す。


でも、正解なんてどこにもない。


「ママはね……」


喉が震える。


「歌が好きなの。歌うとね、聴いてくれる人達が笑ってくれるの」


奏はじっと聞いている。


「でも、いちばん大事なのは奏だよ」


奏はすぐに笑わない。


「じゃあ、やめればいいのに」


その言葉に、胸が深く沈む。

夏帆は何も言ってあげられなかった。




玄関。

出発の時間。


奏は少し離れたところに立っている。

春人が小声で言う。


「大丈夫か?」


夏帆は小さくうなずく。


「うん。……行ってくる」


しゃがんで、奏を抱きしめる。


「すぐ帰るからね」


奏は、しばらく黙ったまま。

やがて、小さな声で言う。


「ママの歌、好きだよ」


その続きが出てこない。


「でもね」


胸がぎゅっと掴まれる。


「ママも、好き」


夏帆は、何度もうなずく。


「ママも奏が大好き」


夏帆は奏をぎゅっと抱きしめる。

離れたくない気持ちが強いけど、行かなければならない。

それが夏帆の選んだ道だから。



ドアが閉まりその瞬間、家が少しだけ静かになる。

奏は玄関を見つめたまま、春人が隣に立つ。


「泣いていいぞ」


その言葉で、我慢が切れた。

小さな体が震える。


「やっぱり、いないのやだ……」


春人は黙って抱きしめる。


「でもな」


優しく言う。


「ママは逃げてない」


奏は涙しながら見上げる。


「逃げてない?」

「ああ。好きなことからも、家族からも」


春人は少し笑う。


「両方守ろうとしてるだけだよ」



夜。

会場の楽屋。

歓声が壁越しに響く。


鏡の前の夏帆は、ドレス姿。

でも、心は朝のまま止まっている。


“じゃあ、やめればいいのに”


その言葉が、離れない。


(私は、何を守ってるんだろう)


スタッフが声をかける。


「KaHoさん、まもなく本番です」


深呼吸。

ポケットの中に、小さな紙入っていた。

奏がこっそり入れたメモ。


“ママ だいすき”


その文字は、少し曲がっている。

涙がにじむ。


(守りたいのは、この手だ)


ステージへ。

スポットライト。

歓声。

でも今日は、違う。

一曲目を歌い始めた瞬間、胸の奥に、あの家の灯りが浮かぶ。


キッチンの灯り。

ソファ。

小さな影。


声が、少し震える。

でも、その震えが、歌を深くする。

守りたいものがある声は、強い。




同じ頃。

リビング。

奏はテレビの前に正座している。


「始まった!」


画面の中のママは、大きな会場で歌っている。

何万人の前で。

でも奏には分かる。

少しだけ、声が違う。


「パパ」

「ん?」

「ママ、泣きそう?」


春人は画面を見る。

そして、優しく答える。


「たぶんな」

「どうして?」

「ママは今、奏のこと想って歌っているからだと思うよ」


奏は、じっと画面を見る。

夏帆の歌声が、リビングに広がる。

そのとき、ふと気づく。


(ママ、帰ってくる)


奏は分からないけど、分かっていた。

夏帆の歌の中には、家がある。



アンコール。

夏帆はマイクを握りしめる。


「今日、ここに立てたのは」


少し言葉を探す。


「帰る場所があるからです」


会場が静まる。


「私には、守りたい家族がいます」


その言葉は、誰に向けたものか、はっきりしている。


「だから、歌えます」


大きな拍手。

でも、夏帆の心に浮かんでいるのは、

たった二人の顔。



ライブ後、スマホにメッセージが入っていた。

春人から写真が送られていた。


テレビの前で眠ってしまった奏。

その横に書かれている。


「最前列より近い席」


夏帆は、そっと笑い、涙が落ちる。


スポットライトは消えても、

あの家の灯りは消えない。

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