なんでママはいないの?
朝5時。
まだ空が群青色を残している時間、キッチンの灯りだけが静かに家を照らしていた。
トースターの小さな音。
味噌汁の湯気。
エプロン姿の春人が、手際よく卵を巻いている。
その奥、リビングには大きなスーツケース。
今日から夏帆は全国ツアーだった。
寝室のドアが、きぃ、と小さく開く。
「……ママ?」
眠たげな声。娘の奏の声だ。
振り向いた夏帆の胸が、きゅっと締めつけられる。
「奏、おはよう」
小さなパジャマ姿の奏は、目をこすりながら立っていた。
「もう行っちゃうの?」
夏帆はしゃがみ、奏と同じ高さになる。
「うん。ちょっとだけね。三日間」
“ちょっと”と言いながら、その三日間が長いことを、奏は小さいながらもよく知っている。
奏は何も言わず、スーツケースをじっと見る。
その視線が痛い。
春人が明るく言う。
「ほら、朝ごはんできたぞー」
いつも通りの声。
でも、その“いつも通り”が、どこか少し無理をしている。
いつもの食卓。
奏は箸を持ちながら、黙っている。
テレビでは朝のニュースが流れていて夏帆のツアー初日を紹介する映像が映っていた。
「本日からスタートする人気シンガー・KaHoさんの――」
奏の手が止まる。
画面に映る夏帆は、きらきらしていた。
でも、今ここにいる夏帆は、少しだけ不安そうな顔をしていた。
奏が小さい声で呟く。
「なんでママはいないの?」
その一言で、空気が止まる。
夏帆の心臓が、強く打つ。
「え……?」
「なんで、みんなの前では歌うのに、奏のそばにはいないの?」
小さな声。
責めているわけじゃない。
ただ、純粋な疑問。
それがいちばん刺さる。
夏帆は言葉を探す。
でも、正解なんてどこにもない。
「ママはね……」
喉が震える。
「歌が好きなの。歌うとね、聴いてくれる人達が笑ってくれるの」
奏はじっと聞いている。
「でも、いちばん大事なのは奏だよ」
奏はすぐに笑わない。
「じゃあ、やめればいいのに」
その言葉に、胸が深く沈む。
夏帆は何も言ってあげられなかった。
玄関。
出発の時間。
奏は少し離れたところに立っている。
春人が小声で言う。
「大丈夫か?」
夏帆は小さくうなずく。
「うん。……行ってくる」
しゃがんで、奏を抱きしめる。
「すぐ帰るからね」
奏は、しばらく黙ったまま。
やがて、小さな声で言う。
「ママの歌、好きだよ」
その続きが出てこない。
「でもね」
胸がぎゅっと掴まれる。
「ママも、好き」
夏帆は、何度もうなずく。
「ママも奏が大好き」
夏帆は奏をぎゅっと抱きしめる。
離れたくない気持ちが強いけど、行かなければならない。
それが夏帆の選んだ道だから。
ドアが閉まりその瞬間、家が少しだけ静かになる。
奏は玄関を見つめたまま、春人が隣に立つ。
「泣いていいぞ」
その言葉で、我慢が切れた。
小さな体が震える。
「やっぱり、いないのやだ……」
春人は黙って抱きしめる。
「でもな」
優しく言う。
「ママは逃げてない」
奏は涙しながら見上げる。
「逃げてない?」
「ああ。好きなことからも、家族からも」
春人は少し笑う。
「両方守ろうとしてるだけだよ」
夜。
会場の楽屋。
歓声が壁越しに響く。
鏡の前の夏帆は、ドレス姿。
でも、心は朝のまま止まっている。
“じゃあ、やめればいいのに”
その言葉が、離れない。
(私は、何を守ってるんだろう)
スタッフが声をかける。
「KaHoさん、まもなく本番です」
深呼吸。
ポケットの中に、小さな紙入っていた。
奏がこっそり入れたメモ。
“ママ だいすき”
その文字は、少し曲がっている。
涙がにじむ。
(守りたいのは、この手だ)
ステージへ。
スポットライト。
歓声。
でも今日は、違う。
一曲目を歌い始めた瞬間、胸の奥に、あの家の灯りが浮かぶ。
キッチンの灯り。
ソファ。
小さな影。
声が、少し震える。
でも、その震えが、歌を深くする。
守りたいものがある声は、強い。
同じ頃。
リビング。
奏はテレビの前に正座している。
「始まった!」
画面の中のママは、大きな会場で歌っている。
何万人の前で。
でも奏には分かる。
少しだけ、声が違う。
「パパ」
「ん?」
「ママ、泣きそう?」
春人は画面を見る。
そして、優しく答える。
「たぶんな」
「どうして?」
「ママは今、奏のこと想って歌っているからだと思うよ」
奏は、じっと画面を見る。
夏帆の歌声が、リビングに広がる。
そのとき、ふと気づく。
(ママ、帰ってくる)
奏は分からないけど、分かっていた。
夏帆の歌の中には、家がある。
アンコール。
夏帆はマイクを握りしめる。
「今日、ここに立てたのは」
少し言葉を探す。
「帰る場所があるからです」
会場が静まる。
「私には、守りたい家族がいます」
その言葉は、誰に向けたものか、はっきりしている。
「だから、歌えます」
大きな拍手。
でも、夏帆の心に浮かんでいるのは、
たった二人の顔。
ライブ後、スマホにメッセージが入っていた。
春人から写真が送られていた。
テレビの前で眠ってしまった奏。
その横に書かれている。
「最前列より近い席」
夏帆は、そっと笑い、涙が落ちる。
スポットライトは消えても、
あの家の灯りは消えない。




