1話 プロローグ
四十二年間、サラリーマンとして東京の電車に揺られ、書類と数字の間で人生を過ごしてきた僕は、あの雨の夜、トラックのヘッドライトを最後に記憶した。
そして目を覚ました時、そこは石造りの天井が広がる部屋だった。小さすぎる手足。意味のわからない言葉が飛び交う中、一つだけ理解できた名前――「アルド・ウェイブリッジ」。どうやら僕は、剣と魔法が支配する世界の貴族の息子として生まれ変わっていた。
前世の記憶は鮮明に残っている。会社の締め切り、終電を逃した夜、孤独なコンビニ弁当…それらすべてが、今は遠い夢のようだ。
**「目立たないようにしなければ」**
これが僕の新しい人生の方針となった。なぜならこの世界では、貴族の子女は五歳になると「授与式」という儀式を受ける。神々から与えられる「スキル」によって、その子の一生が決まってしまうのだ。
強力な戦闘スキルを与えられれば、騎士として前線に送られるかもしれない。稀な魔法適性があれば、危険な魔術研究に捧げられるかもしれない。あるいは、役に立たないスキルと判定されれば、貴族社会から爪はじきにされる。
前世で学んだのは、平凡であることの価値だった。目立たない社員が一番長く会社に残る。突出した成績を上げる者より、地味でも確実に仕事をこなす者の方が、結局は生き残る。
「アルド様、お食事の時間ですよ」
乳母の優しい声に、僕は意味のわからないふりをして、にこりと笑った。赤ん坊のふりをしながら、耳を澄ませて情報を集める。この世界の習慣、政治情勢、魔法の基本…すべてが新しい知識として蓄えられていく。
庭では、三歳年上の兄レオンが木の枝で剣の振り方を練習している。父親であるウェイブリッジ伯爵は、レオンに期待をかけているようだ。
「我が家の次の当主として、強力なスキルを授かるに違いない」
父の言葉に、僕はそっと目を閉じた。兄には兄の人生がある。僕には僕の人生を――平凡で、安全で、誰にも邪魔されない人生を送りたいだけだ。
ある日、乳母たちの会話が耳に入った。
「先月、隣領の子が授与式で『竜殺し』のスキルを授かったそうです」
「まあ!それは光栄な…」
「光栄ですって?その子はすぐに王立騎士団に引き取られ、もう二度と実家に帰れないんですよ。まだ五歳なのに」
僕は布団の中でもぞもぞと体を動かし、ただの赤ん坊のふりを続けた。しかし心の中は冷え切っていた。
この世界の「才能」は祝福ではなく、呪いかもしれない。突出したスキルは、自由を奪い、人生を他人の期待に縛り付ける。
時間は確実に過ぎていく。やがてハイハイを始め、つかまり立ちをし、意味のある単語を話し始める。家族は「アルは成長が少し遅いようだ」と心配するが、それは計算の上だ。平均的で、目立たない発達こそが、目立たないスキルへの近道だと信じて。
家族は僕のことをアルと呼ぶようになった。
「アル、こっちおいで」
母が手を差し伸べる。その手を握りながら、僕は考えた。前世では、ただ流されるままに人生を生きてきた。でも今回は違う。たとえ平凡を選ぶにしても、それは能動的な選択だ。




