離婚届
市役所の三階、戸籍課の窓口は、午前十時を過ぎるといつもざらついたざわめきに包まれる。
番号札のディスプレイが無表情に数字を変え、名前を呼ぶ機械音声だけが、やけに明るかった。
「三十二番でお待ちの──佐伯さま」
自分の声より先に機械に呼ばれることに、田嶋美咲はまだ慣れないでいた。それでも、呼ばれた夫婦が立ち上がるのを見ると、自然に笑顔を作る。
「お待たせいたしました。離婚届のご提出ですね」
目の前の夫婦は、三十代半ばだろうか。夫のほうは視線を合わせようとせず、スマートフォンを握りしめたままだった。妻はきちんとした身なりだが、口紅だけが少し滲んでいるように見えた。
「……はい。でも、書き方が合ってるか不安で」
妻が差し出した用紙を、美咲は手に取る。
インクの色、押印の位置、本籍地の表記。機械的に確認していくうちに、異変に気づいた。
「こちらの婚姻日、平成二十六年ごろ、とありますが……。ここは『ごろ』ではなく、正確な日付をお願いしているんです」
「あ、その……。正確な日は忘れちゃって」
妻が夫のほうを見る。夫は無言のまま、視線だけを僅かに動かした。
「覚えてないよ。どうでもいいだろ、そんなの」
声だけが不機嫌に飛んでくる。
美咲は苦笑いを浮かべ、机の引き出しから案内文を取り出した。
「すみません、どうでもよくない決まりになってまして。婚姻日の記載が間違っていると、受理できないことがあるんです。もしよろしければ、戸籍謄本をこちらでお取りして、正しい日付を確認することもできますが」
妻は一瞬ためらったが、やがて財布を開いた。
「お願いします」
数分後、プリンターから吐き出された戸籍謄本を見て、妻は小さく息を呑んだ。
「ああ……そうだ、二十五年の四月だった」
「一年、違ってますね」
美咲は事務的に言いながら、訂正の手順を説明する。誤った日付に二本線を引き、余白に正しい日付を書く。
その横に、届出人の訂正印。さらに欄外に、「婚姻日の誤記につき訂正」と職員の署名と押印。
この一連の動作は、もう何百回と繰り返している。文字通り、過去を訂正する仕事だ。
「それでは、これで記載は大丈夫です。あとは、こちらにお二人の署名を……」
妻が震える手でペンを持つのを見て、美咲はそっと視線をそらした。当事者の表情を見てしまうと、仕事がやりづらくなる。どれほど事務的に振る舞おうと努めても、目に焼きついた感情は、帰宅後の食卓までついてくるからだ。怒り、諦め、焦燥──どれも一瞬の表情のはずなのに、覚えておきたくないほど鮮明だ。職員は書類だけを見ていればいい、と頭では分かっている。だが、美咲の視界にはどうしても、記入欄のすぐ向こう側で震える人間の事情が滲んでしまう。だからこそ、あえて紙だけを見る癖を身につけた。書類は裏切らないし、感情で揺れもしない。
午後三時を過ぎるころには、窓口の混雑もようやく落ち着いた。
離婚届、婚姻届、出生届。受け取った書類の重さは、見た目以上にずしりと腕に残る。
その日の業務が終わるころには、例の夫婦の顔も、他の何組かと一緒に記憶の奥に沈んでいた。
戸籍課の職員にとって、離婚騒動は日常の風景の一部でしかない。
帰宅して玄関の灯りをつけたとき、美咲はようやく深く息を吐いた。仕事中は自分の感情を棚の上に置きっぱなしにする癖がついていて、家に入った瞬間にようやくそれが戻ってくる。
ワンルームの部屋は、冬の空気を閉じ込めたまま冷えている。暖房を入れていない部屋の匂いは、いつも少しだけ寂しい。コートを脱ぎ、ストーブのスイッチを押す。金属が温まり始める独特の匂いが、静かな部屋にじんわり広がる。冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出し、キャップをひねる音がやけに大きく響いた。
テレビをつける前に、ふとリビングの一角に目が行った。本棚の上に並んだ写真立てのうち、一番手前のフレームだけが、わずかに傾いている。普段、物の位置には神経質なほうではないが、この写真立てだけは、なぜか毎日横目で確認してしまう。誰かが触れたようにも見えるし、単に空気の流れで動いたようにも見える。その微妙なずれが、帰宅直後の美咲の胸に小さなざわめきを植えつけた。
「あれ?」
近づいてみると、それは自分の結婚式の写真だった。教会の前で、ウェディングドレス姿の自分と、黒いタキシードの男が並んで笑っている。写真の光はどれも明るいのに、胸の奥だけが急に冷たくなる。男の顔を見たとき、美咲は条件反射のように胃のあたりが重くなるのを感じた。
半年ほど前まで同じ家にいたはずの人間なのに、こうして写真越しに目が合うと、まるで遠い昔に別れた誰かを見るような気分になる。思い出そうとしなくても、不意に蘇る細かい記憶──言い合いの声、閉まるドアの音、夜中に響いたスマホの振動。どれも鮮明で、消したいほど生々しい。
それでも写真だけは処分できず、本棚の上に置いたままになっている。捨てるほど憎んでいるわけではない。かといって、飾る理由があるわけでもない。ただ、この家に持ち帰ったときと同じ位置に置きっぱなしにしているだけだ。
男の笑顔は当時のまま整っていて、その無傷さが逆に、美咲にはどこか嘘っぽく見えた。写真の中だけが時間を止めているようで、見ていると、自分だけが一方的に消耗していった現実を思い知らされる。
彼女はそっと視線を外した。こんなにも胸が重くなるのに、なぜ処分してしまわないのか──その理由を自分でもうまく説明できないままだった。
別居中の夫。半年以上、連絡を取っていない。
写真立てのガラスを指先でなぞると、右下に印刷された日付が目に入った。
「2014.04.12」
そこで、美咲は眉をひそめた。
この写真の日付は、たしか──。頭の中に、昼間見た戸籍謄本の数字がよみがえる。
平成二十五年四月十二日。今日、美咲が訂正してやった、見知らぬ夫婦の婚姻日だった。
自分の結婚式の日付は、もう少しあとじゃなかったか。
式の準備が長引いて、ゴールデンウィーク明けになったことを、何度も友人に愚痴ったはずだ。
だが、写真に印刷された数字は、疑いようもなく「04.12」になっている。
「……気のせい、かな」
声に出してみても、胸のざわめきは収まらなかった。
それでも、美咲は写真立てを元の位置に戻し、ストーブの前に腰を下ろす。
数字を一つ書き換えただけで、過去が変わるわけがない。
そんなことは、理屈では分かっている。
腑に落ちないまま、美咲はベッドに吸い込まれていった。そして、世界からだんだんと離れていく感覚に、包み込まれていった。
午前中、戸籍課の窓口に一人の女性がやってきた。
コートの襟を握りしめたまま、まるで寒さに震えているように見えたが、よく見ると指先だけが不自然に強張っていた。手全体ではなく、関節だけが固まっているような、力の入り方だった。
「……あの、この人と出会わなかったことに、できませんか」
差し出されたスマートフォンの画面には、頬に青あざをつくった女性自身の写真が映っていた。
隣には腕を組んだ男が写っている。笑顔は形としては整っているが、目の奥が笑っていない。いかにも写真用の“作り笑い”だが、それ以上に、全体から滲む刺々しさが不自然だった。
美咲は思わず眉をひそめる。怪我の痕よりも、ふたりの立ち位置の距離感のほうが気になった。妙に近いのに、まったく寄り添っていない。
「出会わなかったこと、というのは……?」
極力事務的な声を保ちながら尋ねると、女性は小さく首を振った。
「離婚したって、また来るんです。家にも、職場にも。
どう書類を出しても追いかけてくる。だから……“最初からいない”ことに、できたら……」
不可能に決まっている。
だが、女性の目は本気だった。泣いてはいないが、泣き出す寸前のように一点だけをじっと見つめている。その視線は、美咲の返答を待っているというより、もう少しでも気を抜けば崩れてしまう何かを必死に押しとどめているようだった。
「できませんよ。そういう制度では……」
言いかけたが、女性の震え方があまりにも異様だったため、美咲は言葉を飲み込んだ。
肩はほとんど動いていないのに、指先だけが小刻みに揺れている。恐怖というより、限界まで追い詰められた身体の反応に見えた。代わりに、離婚届の記入欄に目を落とす。
婚姻の事実、同居を始めた時期──どれも曖昧で、証明しようのない項目が続いている。
文字の濃さや筆圧すら、提出者の不安定さを物語っているようで、美咲は胸の奥に小さな鈍い痛みを覚えた。
制度としてはただの欄のひとつにすぎないはずなのに、こうして見ると、記録のはずの文字が、妙に頼りなく思えた。
「……まあ、こういう書き方も間違いではありませんけれど」
美咲は、半分冗談めかして、半分はこの女性を落ち着かせたくて、
空欄に近い、不自然な書き方へと整えていった。同居開始の年月日は、かろうじて読めるほどの薄い字で。婚姻の事実の欄は、線がかすれて印字か手書きかすら曖昧になった。
女性は深く頭を下げ、ほとんど逃げるように役所をあとにした。
その翌日だった。
戸籍システムで該当の夫の情報を確認しようとした同僚が、「あれ?」と首をひねった。
検索しても、名前が出てこない。登録が抹消された形跡すらない。
美咲が業務上必要でスマホの提出写真を確認しようとすると──女性の端末の中からも、その男だけが切り取られたように消えていたという。
さらに数日後、女性の友人が窓口に来て言った。
「元夫? そんな人いました? あの子、結婚なんてしてませんよ」
ただ一人、美咲だけは、その男の顔をはっきり思い出せた。
冷たい笑い方、写真の中で腕を組む癖。記憶の中では輪郭すら鮮明だった。
むしろ、あの写真を見たときのわずかな嫌悪感までも思い出せる。
不安になって控えの書類を確認すると、夫の名前が記されていたはずの欄だけが、ペンで塗りつぶしたように真っ白になっていた。
消えたのではなく、最初から記されていなかったようだった。
紙自体にかすかな段差や擦れはあるのに、文字だけが不自然に欠落している。
美咲は手にした紙を落としそうになった。
紙面を見るほどに、そこだけが異様に浮いて見えた。
視線を外しても、もう一度見るとやはり白い空白がそこにある。
自分の記憶のほうが間違っているのかと、一瞬疑ったが、胃の奥に沈むような違和感だけは誤魔化せない。
まるで、現実の方が書類に合わせて訂正されたかのように。ぞくりと背中を走った感覚に、美咲は思わず周囲を確認した。
いつもと同じ窓口のざわめきが広がっているのに、自分のいる場所だけ温度が少し低いような、そんな気がした。
ただ何日も経てば、そんな感覚も薄れていくようだった。というより、その感覚を忘れていくに近かった。
美咲自身の結婚生活は、もはや形だけのものになっていた。
半年ほど前に夫が家を出てから、互いの生活は完全に分かれている。
それでも、同じ家にいた頃の感覚だけが、体のどこかに残っていた。
冷蔵庫の中身や洗濯機の回る音で、相手の様子を推し量っていた頃の癖が抜けておらず、ふとした瞬間に「今ごろ何をしているのだろう」と考えてしまう自分がいた。
ただ、それを確かめるすべはもうない。
別居後に交わす会話は必要最低限だった。
用件のあるときだけ短いメッセージが届き、会って話し合おうと提案すると、夫の反応は妙に冷淡だった。
その言葉の温度だけで、“自分が踏み込みすぎた”と悟ってしまう。
そういうやり取りを重ねるうち、美咲は自然と言葉を飲み込む癖がついた。
夫のスマートフォンに表示されていた見知らぬ女性の名前。
夜遅くに受け取った短い連絡。
思い返せば、離れる前から違和感の種は散らばっていた。
最初は胸がざわついたが、別居してからはその感覚すら薄れていった。
確かめたところで、返ってくる答えが想像できてしまうからだ。
そして、その夜。久しぶりに話し合いの場を設けたものの、ほんの些細な言葉の行き違いから口論が始まった。
台所に置きっぱなしになっていた食器のことだったか、記念日を忘れられたことだったか。理由はもはや重要ではなかった。
別居して距離があるはずなのに、話し始めると、蓄積された感情がむき出しになることだけは変わらなかった。蓄積していた不満が、雑な言い回し一つで簡単に火種になった。夫の声には、どこか突き放すような冷たさが混じっていた。
美咲に向けているというより、「ここにいる自分」そのものを早く終わらせたいと願っているかのような、投げやりな響きだった。
「もういいだろ。お前とはやっていけない」
言い捨てるようにして、夫はテーブルの上に離婚届を投げつけた。
薄い紙が空気を切る音が、やけに大きく響いた。まるでそれだけが、この部屋で唯一生きて動いているもののように感じられた。
書類は、見慣れた戸籍課のものと同じ形式だった。
何百枚と目にしてきた紙のはずなのに、自分の名前が印刷されているだけで、まるで他人の人生を覗き込んでいるような違和感があった。
用紙自体は何も変わっていないのに、紙の白さだけが妙に肌に冷たく感じられる。
ただ、自分の名前がそこにあるだけで、別の書類のように感じる。
役所では淡々と扱っていたはずの書類が、自宅のテーブルに置かれた途端、急に重さを持ち始めた。
それは事務用品ではなく、誰かの過去と未来を確定させる境界のように見えた。
手に取った瞬間、胸の奥がひどく冷えた。思考よりも先に、体が反応している。紙の手触りさえ、いつものざらつきではなく、氷の膜を薄く張ったような滑り方をしていた。
美咲は静かにボールペンを取り出し、記入欄に目を落とした。
婚姻の経過──本来、淡々とした事実だけを書けばいい場所だ。日にちや手続きの順序を並べれば、形式としてはそれで足りる。
しかし、その日の美咲は違った。
目の前の「経過」という文字が、自分のこれまでの選択を嘲笑っているように見えた。
事実を整理するための欄が、逆に、自分がどこで道を誤ったのかを指し示しているように思えてしまった。抑えていたものが堰を切ったように、衝動が手を走らせる。
胸の奥に沈殿していた言葉が、考えるより早くペン先を突き動かしていた。
「本来、交わるはずのなかった二人」
書いた後、自分でも驚くほど滑らかにペン先が動いたことに気づく。悩む時間は一秒もなかった。
むしろ、この文言はとっくに心のどこかで用意されていて、書類という“出口”を待っていたかのようだった。
書き終えた瞬間、胸の奥に、かすかな安堵と同じくらいの恐れが同居した。
たった一行の文字なのに、それが自分の人生を静かに分岐させたような、そんな錯覚があった。
ペンを置いた手がかすかに震えていたが、それが寒さのせいなのか、自分でも判別がつかなかった。思考はまだ冷静さを保っているのに、体だけがわずかに現実から遅れて反応しているようだった。迷った末に、欄外へ小さく書き足す。
「※この婚姻を無効とみなす」
癖のある自分の筆跡が、その注意書きだけ妙に濃く見えた。光の当たり方が変わったわけでもないのに、まるで文字だけが紙の上で立体になったように浮いて見える。見慣れた自分の字なのに、どこか“他人の断言”のような気配を帯びていた。
受理ボックスに届を入れたときだった。投函した紙がわずかに沈む音が、やけに遠くから聞こえた。ほんの一秒にも満たない時間、視界が不自然に揺れた。
くら、と重心が傾く。足元が地面から離れたような錯覚が走り、思わず机の端に手を添える。部屋の色が一瞬だけ薄くなったように感じた。白い蛍光灯の光が、ほんの刹那だけ、誰かが調光スイッチを触ったかのように弱まった。
次の瞬間には、何事もなかったように元に戻っていた。机も壁も、蛍光灯の光も、見慣れたはずの色に戻っている。ほんの気のせいだと言われれば、それで説明できる程度の揺らぎだった。
だが、美咲の心臓だけは、不自然な速さで脈打ち続けていた。胸の奥の鼓動だけが、まるで今の出来事を現実だと告げているようで、しばらくのあいだ呼吸のテンポを取り戻せなかった。
翌朝、職場でも家でも、誰も「夫」の存在を覚えていなかった。同僚に夫の名前を出しても、「そんな人いたっけ?」と不思議そうに首をかしげるだけだった。その表情が演技ではないことは、長く同じ部署で働いてきた美咲には分かる。冗談を言うような雰囲気でもなく、本当に記憶そのものが抜け落ちている反応だった。
自宅に戻ると、昨夜まで確かに置かれていたはずの夫の靴も、着古したコートも、家のどこを探しても見当たらない。靴箱の一番下の段には、空白の幅だけがぽっかり残っていた。そこに靴があったという形だけが、部屋の中に痕跡のように漂っている。
自宅は、一人暮らし用の間取りになっていた。家具の配置は変わっていないのに、室内の空気の量が目に見えて違う。二人分の生活音が薄く重なっていた頃の気配が、すっかり消えている。まるで最初から一人で暮らしていたかのように、部屋が静かだった。
リビングには椅子がひとつしかなく、食卓も、二人用のスペースが初めから存在しなかったように見える。玄関の棚には美咲の靴しか並んでおらず、夫の靴のために空けていた一段は、妙に余白が大きかった。
薬指に触れてみると、昨夜まで確かに巻きついていた金属の感触も消えていた。肌に日焼け跡すら残っておらず、そこに指輪が存在していた事実すら、最初からなかったかのようだった。指輪が外れた瞬間の感覚すら残っていない。
「やっぱり……消せるんだ」
呟いた声は驚くほど落ち着いていた。長く続いた冷え切った生活が終わった時に感じるような解放感と、自分でも説明できない薄い恐怖が、同じ場所で静かに同居していた。胸の奥で何かがゆっくりほどけていくのを感じながら、美咲はしばらく部屋の真ん中に立ち尽くしていた。
胸の奥から小さな安堵が湧き上がりかけたその瞬間、押し入れの中で、何かがずるりと滑り落ちる音がした。紙が擦れるような、しかし重量のあるものが移動した気配だった。美咲は反射的に肩を強張らせ、しばらく耳を澄ませた。
開けてみると、一冊のファイルが床に落ちていた。
表紙に見覚えはない。薄いグレーの無機質なファイルで、どこにでも売っていそうなものなのに、なぜか“自分のものではない”という感覚だけがはっきりしていた。
恐る恐る中を開いた途端、美咲の息が止まった。
そこには大量の「離婚届(下書き)」が綴じられていた。
見慣れた様式のはずなのに、束になると別の書類のように重々しい。
一枚一枚の紙が、まるで違う人生の断片を無言で突きつけているようだった。
どれも、記入欄の一部が修正されている。
相手の名前も日付も、書き方の癖すらバラバラで、それぞれの行間には微妙に違う“生活の影”が滲んでいた。
しかし、すべてが自分自身の離婚届だった。
薄い紙が重なり合うたび、インクのにおいがわずかに立ちのぼる。
ページをめくる音が、やけに乾いて聞こえた。紙面の端に触れる指先が、自分のものではないように冷たかった。どの書類にも、自分の署名だけは確かに残っている。同じ筆跡、同じ速度で書かれた癖のある文字。それだけは疑いようがない。だが、相手の名前だけが毎回違っていた。
書類ごとに存在したことのない配偶者が増えていく光景は、不気味という言葉では収まらなかった。
ただ、誰と結婚し、いつ破綻し、どんな経過を辿ったのか——その肝心な部分だけが、書類ごとに異なり、そしてどれもが存在した形跡のない相手だった。
まるで、美咲の人生が何度も書き換えられ、そのたびに別の夫を持っては消してきた、そんな記録のように見えた。ファイルは静かにそこにあるだけなのに、
ページをめくるたび、室内の空気が少しずつ冷えていくような気がした。
最後のページをめくると、端に赤いペンで細い文字が書かれていた。
「※これ以上の訂正については、職員本人の記憶の保証はいたしかねます」
文字の細さに対して、妙に強い筆圧。
書いた本人が、よほど慌てていたのだろうか。
だが、その文字はまぎれもなく、美咲自身の筆跡だった。紙面が静かに揺れているように見えた。
美咲はファイルを閉じるタイミングを見失い、しばらくの間、ただページを握りしめて立ち尽くしていた。
翌日、戸籍課の窓口に一人の男性がやって来た。背広はきちんとアイロンがかかっていて、外見だけ見ればごく普通の会社員に見える。ただ、番号札を握りしめる指先だけが、わずかに汗ばんでいた。
「三十七番でお待ちの方、どうぞ」
美咲が呼びかけると、男は小さく会釈して窓口に立った。
「昨日、ここで妻と離婚の相談をしたはずなんですが……書類も、予約の記録も全部消えてて」
淡々とした口調だったが、言葉の端にかすかな苛立ちが混じっている。理屈の通らないことを説明しようとしている人間の声だ、と美咲は思った。
「昨日……ですか。お名前を伺ってもよろしいですか」
男が名乗った名前に、聞き覚えはない。端末で検索してみても、確かに記録は出てこなかった。予約一覧にも、相談履歴にも、その名前は存在しない。
「こちらには、特に残っていないようですが……」
言いかけると、男は「でも」と言って胸ポケットから小さなメモ用紙を取り出した。
「これ、昨日ここで書いたんです。担当の方に“これを基に予約入れますね”って言われて」
差し出されたメモには、簡単な聞き取り事項が列挙されていた。氏名、生年月日、連絡先。その下に、配偶者欄がある。そこに、「田嶋美咲」という名前と署名が、はっきり残っていた。
美咲は一瞬、呼吸を忘れた。それはまぎれもなく、自分の筆跡だった。
戸籍課で何度も書いてきた署名と同じ、癖のある曲がり方、止め方。見慣れた自分の字が、紙の上で当たり前のような顔をしている。
だが、美咲には見覚えがない。
この男と向かい合った記憶も、このメモを取った記憶も、昨日、彼のために時間を割いたという感覚もない。記憶のどこを探しても、該当する場面は見つからなかった。
「……失礼ですが、こちらの配偶者というのは」
自分の名前を指さしながら問うと、男は少し不機嫌そうに眉をひそめた。
「それはあなたですよ。昨日、ご本人に書いていただいたほうが早いのでって、そちらの席で……」
言葉が霧の中に遠ざかっていくような感覚がした。
男の声も、窓口のざわめきも、少しずつ水の底に沈んでいく。
男を見つめる美咲の視界が、また一瞬だけ暗く揺らいだ。蛍光灯の光が消えたわけでも、誰かが通路を横切ったわけでもない。ただ、今いるはずの世界が、紙を一枚めくるように裏返りかけて、すぐに元に戻ったような感覚だった。
ほんの瞬きほどの時間。その間に、美咲は自分の胸の奥で嫌な確信が形になっていくのを感じた。
この男もまた、どこかの世界では、自分が“訂正”し、“なかったこと”にした夫のひとりなのかもしれない——と。
端末の画面には、何も表示されていない。メモ用紙の上には、確かに自分の署名がある。
どちらが正しい記録なのか、もはや判断のしようがなかった。
美咲は、かすかに乾いた唇を動かした。
「恐れ入りますが、その件につきましては……少し、お時間をいただけますか」
自分の声が、別人のもののように遠く聞こえた。




