7話 りす組のクレヨンと白いムニエル
竹中先生に新しいおむつに替えてもらい、少し気持ちが落ち着いたサトミは、先生と一緒に読み聞かせの輪に戻った。別の若い先生が絵本を読んでいた。子供たちは物語に夢中だ。
「さあ、サトミちゃんも一緒に聞きましょう」
竹中先生に促され、サトミは端にそっと座った。新しいおむつは気になるけれど、ひんやり感は和らいだ。先生の声は優しいが、サトミには子供たちの笑い声やページの音ばかりが大きく聞こえてくる。
さっきのことが頭から離れず、物語に集中できない。絵本の挿絵を目で追うが、内容はぼやけて感じる。まるで、自分だけが この 楽しい輪の外にいるような気がした。
読み聞かせが終わると、子供たちは顔を輝かせながら、他の子供たち と 話し始めた。サトミは、何を話せばいいのか分からず、ただ静かに座っていた。
「次は絵を描きましょう。好きな動物!」
竹中先生が明るい声で言うと、子供たちは歓声を上げた。サトミも、促されるままに画用紙とクレヨンを受け取った。周りの子供たちが、思い思いの動物を、楽しそうに描き始める。
サトミは、クレヨンを手にすると、少しだけ心が落ち着くのを感じた。 中高と美術部に所属していた彼女にとって、絵を描くことは慣れたことだ。 何を描こうかと考え、ふと高校の通学路でいつも見かけていた、痩せた野良猫の姿を思い出した。 灰色の毛並み、鋭い眼光、警戒しながらもどこか寂しげな佇まい。 まるで今の自分と重なって思い出せた。記憶を辿りながら、画用紙の上にゆっくりとクレヨンを走らせる。
他の子供たちの絵とは明らかに違う、写実的な猫の絵が ゆっくりと 現れてきた。 毛並みの質感、瞳の光、細い体のライン。 クレヨンとは思えないほどの繊細な表現に、隣で描いていた男の子が
「わあ、すごい!」
と目を丸くした。 竹中先生も、サトミの描いた猫の絵を見て、
「まあ、上手! サトミちゃん、絵が得意なのね」
と笑顔で褒めてくれた。
照れくさいけれど、褒められるのは満更でもなかった。 絵を描いている間は、自分が高校生であることも、おむつをしていることも忘れられた。 ただ、クレヨンと画用紙の世界に没頭することができた。
「この猫、なんだか生きているみたい!」
別の女の子が、サトミの描いた猫の絵を指さして言った。 サトミは、小さく微笑んだ。 久しぶりに、自分が何かを認められたような気がした。
しかし、その喜びもつかの間だった。ふと、下腹部にじんわりとした温かさが広がった。始まりはごく静かだったが、徐々にその範囲を広げていく。サトミはハッとした。絵に集中するあまり、尿意を感じるのを完全に忘れていたのだ。
慌てて画用紙から目を離し、お尻の下のオムツが温かいのを感じる。表面が少し湿っているような、奇妙な感覚が広がっていく。顔が熱いのが分かった。周りの子供たちは絵に夢中になっている。竹中先生も、他の子供たちの絵を見て回っている。今、このことに気づいているのは、自分だけだ。
その時、先ほど絵本を読んでいた若い女性の先生、田辺先生がサトミの様子に気づいた。サトミの顔が少し赤く、所在なさげにしているのを察したのだろう。
「サトミちゃん、行こうか?」
どこへ行くとも言わず、田辺先生は優しく声をかけた。サトミは小さく頷くのが精一杯だった。田辺先生はサトミの手を取り、静かに子供たちの輪から離れると、おむつ交換のスペースへと連れて行った。
案の定、オムツは温かい感触で、触ると少し湿っていた。サトミは顔が熱いと感じ、恥ずかしさでいっぱいになった。先生にこんなところを見られてしまうなんて。
田辺先生は手慣れた様子で、新しいオムツを取り出しながら、優しい声で言った。
「気にしないで。病気なんでしょ? 私も短大の時に食中毒で大変なことがあってね、しばらくおむつのお世話になったことがあるの。体調が悪い時は、しょうがないことよ」
田辺先生は、短い間だったかもしれないが、自身の体験談を落ち着いて語ってくれた。サトミは思いがけない告白に、少しだけ顔を上げた。まさか先生もそんな経験があるなんて思ってもいなかった。
新しいオムツに替えてもらい、少しだけ楽になったサトミが教室に戻ると、ちょうどお昼のチャイムが鳴り響いた。
「みんな、手を洗って、お昼ご飯にしましょうか!」
竹中先生の明るい声が響いた。
年少組の教室に、保育士たちが手際よく小さなテーブルと椅子を並べていく。 運ばれてきたのは、白い身の魚のムニエルと、彩り豊かな野菜のソテーだった。 バターの香りが食欲をそそる。 ただ、年少組の子供たちに配られるものと比べると、サトミの魚は少し大きく、野菜の量も心なしか多い。 それよりも、田辺先生の思いがけない言葉が、まだ心の片隅に残っている。あんな風に自分のことを理解してくれる大人がいるなんて、少し意外だった。
テーブルに着くと、田辺先生がサトミに優しく声をかけた。
「サトミちゃん、フォークとナイフで大丈夫かな? それともお箸にする?」
サトミは少し考え、お箸を選んだ。
「お箸でお願いします」
周りの子供たちを見ると、まだお箸がぎこちない子もいるようで、小さな手で一生懸命フォークを使っている。
箸を持つ手が、さっきより少し軽い気がした。 目の前の魚のムニエルは、バターの香りが食欲をそそる。おもらしをしてしまった恥ずかしさはまだ残っているけれど、田辺先生の言葉を思い出すと、少しだけ気持ちが前向きになれた。 周りの子供たちは、小さなフォークで魚をほぐしたり、難しそうにお箸を持ちながら野菜を摘んだりしている。中には、なかなか上手く掴めずに苦労している子もいるようだ。 サトミは、ゆっくりとお箸で魚の身を一口大にして口に運んだ。レモンの風味が広がり、意外と美味しい。野菜のソテーも、彩り豊かで 丁寧に調理されている。 想像していたよりも、給食の味は悪くないかもしれない。
「サトミちゃん、食後に飲むお薬だよ」
食事が終わる頃、竹中先生が小さな紙コップに入った錠剤を差し出した。 朝にも飲んだ、あの白い薬だ。 周りの子供たちは、先生に促されてデザートの小さなヨーグルトを嬉しそうに受け取っている。 サトミは、 薬 を受け取ると、少しだけ表情を和らげた。田辺先生のような人もいるのだから、もしかしたら、この場所にも少しは慣れることができるかもしれない。 水で薬を飲み込むと、かすかな苦味が広がった。
それでも、 以前 感じていたような強い 不安 は、少しだけ 落ち着いた ようだった。




