4.ユキの暗躍(前編)
お姉ちゃん改め、サトミちゃんは2度目の幼稚園で盛大に失敗しているでしょう。 なんたって水筒の飲み物には利尿剤が入っているからね。おかげで利尿剤の効果が切れる時間を気にせずに済んだ。
私はまだ春休み中、スマホを起動する。 開いたのはWikipedia。『能力別適正教育推進法』のページだった。 法律の概要、成立の背景、目的、そして主な内容。 全国統一能力テスト、飛び級制度、落第制度。
(ふむ……AIを活用した個別最適化教育が表向きの目的だけど、裏では労働力不足の解消と教育水準の維持ね。 飛び級と落第制度が柱、と……)
特に私の目を引いたのは、落第制度に関する記述だった。 偏差値による明確な基準、小学生の低学年が幼稚園に落第した事例、そして――
『高校生が全国統一能力テスト中に膀胱炎による失禁のため途中退席となり、その結果、幼稚園に落第したと報道され、制度の運用に対する議論を呼んだ事例がある。』
「お、サトミちゃんwikiにも取り上げられてる」
私は画面を見つめ、小さな勝利感を覚える。
その時、玄関の方から車のエンジン音が聞こえてきた。 リビングの窓から駐車場を見ると、見慣れた母親の白い軽自動車が停まっている。 助手席のドアが開き、サトミちゃんが重い足取りで降りてきた。
メソメソと小さな声で泣いている。 白いブラウスを着ているものの、下はオムツだけを履いているのが見て取れる。 それを隠すように腰にタオルを巻いているが、歩くたびにタオルがずれ、全く隠しきれていない。 その手には、透明なビニール袋が握られていた。 中には、赤色のギンガムチェックのスカートと、白い子供用のショーツらしきものが見える。
(ふふ……やっぱり、またやったんだ)
私はスマホを握りしめ、玄関へと向かう。
「おかえりなさい。どうしたの?」
私の声に、サトミちゃんはさらに小さく肩を震わせ、俯いたまま何も答えない。 代わりに、少し険しい表情の母親が口を開いた。
「おもらしを何回もしたんだって。 お昼寝でおねしょも。 これからおむつ買いに行くわ。 園からおむつと着替えを準備するように言われたわ!」
母親の声には、いつもの優しさはなく、明らかに怒りが滲んでいる。 恐らく、娘が立て続けに失態を演じたことへの恥ずかしさからだろう。
(だから、あんなに泣いていたのか。 ここはサトミちゃんの味方のフリをしておこう)
「お母さん、それよりサトミちゃんを病院とかに連れていったら? おむつは後からでも買えるでしょう? 何もなくておもらしするなんてありえないでしょ?」
サトミちゃんは私の言葉に少し希望を抱いたのか、わずかに顔を上げた。 しかし、母親はまだ納得していない様子だ。 その時、玄関のインターホンが鳴った。ピンポーン、と機械的な電子音が、リビングにもはっきりと聞こえた。 その音に、リビングで所在なさげに座っていたサトミちゃんは、さらに小さく体を震わせた。 母親はインターホンの音に、小さなため息をつきながら立ち上がった。
モニターに映ったのは、見慣れない濃い灰色のセダンと、きちんと髪をまとめた、柔和な笑顔を浮かべた妙齢の女性だった。 文部科学省の職員である青木さんだ。 3月にサトミちゃんの落第が決定してから、何度か家庭訪問に来ており、母親だけでなく、私やサトミちゃんのことも知っている。
「はい」
と、母親はモニターに向かって短く答えた。
「文部科学省の青木です」
と、落ち着いた優しい声が返ってきた。
母親は、やはり来たか、という表情で唇を引き締めた。
「どうぞ」
と、遠隔操作で玄関のドアのロックを解除した。
リビングのドアが開き、青木さんが入ってきた。 紺色のパンツスーツ姿で、とても丁寧で優しそうな人だった。文部科学省 教育再統合局 落第支援課、課長補佐。確か青木さんの肩書きだ。こんな役職でありながら、能力別適正教育推進法の反対派だったりする。そして、私の1番の障害だったりする。
「こんにちは、奥様。 サトミちゃん、ユキちゃんもこんにちは」
と、青木さんは柔らかな笑顔で私たちに挨拶をした。
「今日は、サトミちゃんの幼稚園での事を聞き、提案があって参りました。」
「提案?」
お母さんは多分、青木さんが嫌いだ。何の根拠もないけど。だから、凄く短い返答で返した。
「サトミちゃんを病院に連れていこうと思うのですが?」




