11話 濡れた朝、乾かない涙
朝、瞼を開けると、まず最初に意識したのは下半身の重さと、ほんのりとした湿り気だった。
(やっぱりだよ……)
小さく息をつきながら、身体を起こす。冷たいフローリングに足をつけ、重い腰を上げて風呂場へと向かった。昨夜、念のためにつけた大きなおむつは、案の定、朝の憂鬱を象徴するように濡れている。
温かいシャワーを浴びて、ようやく身体が目覚める。着替えを済ませ、気だるさを残しながらリビングのドアを開けると、見慣れない紺色の制服が目に飛び込んできた。
「信じられる?今日は高校初日なのにお母さんたら、体調が良くないから無理だって」
県下No.1の進学校、明王義塾の真新しい制服に身を包んだ妹、ユキが、おはようも言わずに不満をぶちまけている。紺のブレザーとスカート。125cmの小さな身体には、まだ少しばかり大きく見える。
「大丈夫、ユキなら一人で。それに、大事な時に体調が良くないのは我が家の伝統じゃない?」
そう言うと、ユキは露骨に顔をしかめて黙り込んだ。その表情には、反論したいけれど、何か言えないような複雑な感情が滲んでいる。
「私は幼稚園から応援してるよ」
精一杯の明るい声でそう言うと、ユキは小さく「別に」と呟き、重い足取りで玄関へと向かった。見送る私の背中に、彼女の不安と期待が入り混じったような気配が残る。
ユキが用意していた朝食を食べて、薬を飲んでテレビを見ながらぼんやりとしているとインターホンが鳴った。台所のモニターで確認すると、知らない女の人だった。
「文部科学省の南と申します」
オートロックを解除し、玄関へ。どこか幼稚園の田辺先生に似ている優しそうな女性が立っていた。
「改めて、文部科学省の南みなみと申します。辞任しました青木の後任となりました」
と名刺を差し出す。
「今日はお母様の体調がすぐれないという事で、私が送迎いたします」
そういうことかと合点がいった。本来ならば私を幼稚園に送って、ユキの高校に母さんも行っているはずだ。
「リビングへどうぞ、もう少し準備に時間がかかりますよ」
リビングで待ってもらい、ダイニングテーブルの朝食の食器を食洗機に入れる。 自分の部屋で髪の毛を整え、カバンを持って下へ。水筒はユキが用意してくれていた。
「お待たせしました」
そう声をかけて外へ。黒い軽自動車がとまっている。乗り込んでシートベルトをする。
「あの、南みなみさんってすごい名前ですね」
「実は私、結婚して苗字が変わったので、こんな変わった名前になってしまって」
少し恥ずかしいのか、前だけ向いて南さんが言った。
「そういえば、今日から新しい子が入ります。どうせわかる事だから言いますと、『落第』の子です。本来は小学4年生になっているはずです」
そんな会話をしてるうちに幼稚園に着いた。今日は田辺先生が出迎える日のようだ。
「おはよう、サトミちゃん」
「おはようございます、田辺先生」
「おはようございます。サトミさんの事よろしくお願いします」
南さんは何度か振り返りながら去っていく。
「サトミちゃん、早速だけどおむつ変えよっか?」
「え!あっ!はい・・・」
(出てる事に気が付かなかったよ)
そうして2人でおむつ交換スペースに行くと大きな声が聞こえてきた。
「いーやーだ!パンツがいい!」
私の妹、ユキより少し大きいぐらいの身長の子が、制服のスカートを濡らして突っ立っている。周りの子より頭一つ分大きく、泣き叫ぶ声は教室中に響き渡っていた。南さんが車の中で話していた「落第」の子で間違いないだろう。
「トウカちゃん、どうしたの?」
田辺先生が優しく声をかけるが、女の子は首を横に振って泣き続ける。
「パンツがいいの!もうおむつなんていやだ!」
その子の足元には、濡れたスカートから滴り落ちたであろう、濃いシミが広がっている。周りの子供たちは、何が起こっているのか分からず、不安そうな顔でその子を見つめていた。 田辺先生は困ったように私を見た。
「サトミちゃん、少しだけトウカちゃんのそばにいてくれるかな?きっと、同じ気持ちがわかると思うんだ」
戸惑いながらも、私は声のする方へ近づいた。泣いている女の子、トウカちゃんの目は真っ赤に腫れている。濡れたスカートをぎゅっと握りしめ、まるで世界が終わるかのように泣き叫んでいた。
「トウカ!どうしたの?何かされたの?」
突然、少し慌てた様子の若い女性が教室に駆け込んできた。その女性は、泣きじゃくるトウカちゃんに駆け寄り、心配そうに声をかけた。母親だろうか。顔には焦りの色が浮かんでいる。




