10話 ユキとサトミ
幼稚園を後にして、タクシーに乗り込むサトミちゃんの声が耳障りだ。
「びっくりしたよ!合格おめでとう」
相変わらずののんきな声でよく言えるものだ。
「しかも、高3に飛び級でしょ?まだ11歳なのに凄いね」
「別に」
私の短い返事に、サトミちゃんは少し面食らったようだ。やがて、絞り出すようにポツリと言った。
「お母さんがいない今だから言っちゃうね。2年前はゴメン」
まるで少し約束に遅れたみたいな気軽さでサトミちゃんは言った。
(今更、そんなことを……)
私の心の中で、冷たい嘲笑が渦巻く。あの時、その言葉を直接聞けていれば、こんな回りくどい真似はしなかったのに。サトミちゃんは高3に進級して、幼稚園に落第しておらず。もちろんおむつもつけていない。
私はその時、どんな顔をしていただろう?
私の顔を見て思わず、ヒッと仰け反るサトミちゃん。その、本当に怯えた顔を見た瞬間、胸の奥に小さな引っかかりを覚えた。ずっとムカついてたんだけど、こんな顔が見たかったわけじゃない。
「お母さんに止められていたんだ。ユキの性格的に何をするかわからないって」
サトミちゃんの言葉が、ストンと腑に落ちた。そうか、本当の標的は母親だったのか。サトミちゃんは、ただの勘違いでこんな目に遭っている。小さな後悔が胸をよぎる。今から母親をターゲットにするのは簡単だろう。でも、あの人がいなくなるデメリットは大きすぎる。それに、サトミちゃんがこのまま近所や職場で好奇の目に晒されれば、間接的に母親にもダメージはいくはずだ。
やがて、タクシーは見慣れた家の前に静かに滑り込んだ。私が精算して先に降り、ドラッグストアで買ったゼリー飲料の入った袋を手に持つ。玄関のドアを開け、静かな家の中へ。
二階の寝室のドアを少し開けると、お母さんが薄い布団をかけて横になっていた。
「お母さん、これ」
私はゼリー飲料を差し出した。
「ありがとう、ユキ。ねえ……どうして、こんなことになっちゃったの?」
お母さんの声は弱々しい。疲労の色が濃い顔には、うっすらと涙の跡が見える。
「もう、職場でもサトミのことも、青木さんの件まで知られて……行きたくない」
弱音を吐くお母さんに、私は冷たい視線を送った。
「生活の為でしょ。お父さんだって同じかもよ?でも文句一つ言わないわ」
思わず突き放すような言葉が、私の口をついて出た。
一階のリビングに戻ると、サトミちゃんは制服のまま、タブレットで日曜朝の女児向けアニメ、『ドキドキ!プリズムエンジェル』(略して『プリエン』)を熱心に見つめていた。
「サトミちゃん、プリエンを見る前に制服は脱ごうね。シワになっちゃう。まるで本当に幼稚園児みたいだよ」
私が少し意地悪く言うと、サトミちゃんはなぜか笑った。
「あはは、そのセリフは高校生じゃなくてママみたい」
そう言って、プリエンを一時停止して制服を脱ぎ始める。スカートのホックを外しかけた時、サトミちゃんの手が止まった。
(ひょっとして!おもらし?)
私の思考に合わせるように、サトミちゃんが言った。
「ユキ。悪いけどおむつとおしり拭き持ってきて。動くと股の間から漏れちゃいそう」
口調は高校生の時のまま、高校生ではありえないお願いをしてきた。リビングが汚れてはたまらない。言われた通りに動く。
私が持ってくるのを見ると、いつのまにかスカートは脱いでいたサトミちゃんはサイドのギャザーを破っておむつを外し、おしり拭きでふきとる。新しいおむつを履いた。そのまま、部屋着に着替えて制服をハンガーにかけた。
「ユキ。ありがとう」
「いいえ、どういたしまして」
それだけ言ってタブレットでまたプリエンを見始めた。
「おもしろいの?」
と聞く私。4年前まで見ていた気がする。
「ほら、ユキと一緒に4年ぐらい前まで見てたじゃない。その時の『マジック!プリズムエンジェル』は放映してた時に今の同級生は生まれたばかりだったの。今日、『プリエン描いて』って言われてマジプリエン書いたら、知らないってさ」
少しジェネレーションギャップを感じながらも聞いた。
「園児に書いてあげるために見てるんだ?」
「それもあるけど、会話がないのよ。ないと言うより通じない。先生達ってすごいね。知ってたもん」
タブレットから目を離さずに答えるサトミちゃん。私は本命の質問をする事にした。
「ねえ、もし誰かのせいで幼稚園に落第して、おむつになったとしたら、怒る?」
タブレットから視線をこちらに向けて、サトミちゃんが答えた。
「怒らない」
意外にも、穏やかな声で続けた。
「ここまで完璧に私が気づかないようにできる人がいたとしたら、私はその人にそれだけ恨まれてるっていう事でしょ?」
そう言ってタブレットに視線を戻した。
「お姉ちゃん」
久々にそう呼んだ。「ん?」と短く答えたサトミちゃん。
「テレビで一緒に観ようよ。晩ご飯食べながら。私もひさしぶりに見たくなっちゃった」
そう言うと2人で笑った。




