海の瞳
もしも、世界にひとりぼっちになったら、君はどうする。
そんな質問は、心理テストなり性格診断なりで定番のそれだ。
大抵はそれに、世界を一周してやるといった勇気100%なやつもいれば、家族を探したい・2人目を見つける、などのピュアヒューマンもいるかもしれない。
が冷静に考えてみれば、大半は一週間もたたないうちに自然死か自殺を選んでしまっているだろう。選ばざるを得ないだろう。ホームシックならぬワールドシックに違いない。
生きていけるわけがないといういたってシンプルな結論、人であれ野生生物であれ、一人では生きていけない。当然だ。
そんな夢のないナルキッソスは置いておいて。
人類が滅んで5000年後の話である。
***
終末世界とはよく言ったもので、たとえ地球を1億数千万年地球を支配した恐竜が絶滅したとしても後世ではただの歴史になるにも関わらず、人間が滅びてしまえば人は世の終わりと大胆に表現しちゃうのだ。
せいぜい人間が地球を支配したのはホモサピエンスを入れても7万年程度。
まるで厄介な高慢具合。簡単に想像しえただろう人工知能による完全支配をなぜ彼らは対策しなかったのか、それは今を支配するモノたちにのって答えの出ない永遠の議題だ。
それでも、人は地球という星の全てを支配していた。
7万年のうち最後の数百年のあいだで、人は海の全てを知りえることにより本当に地球を支配しきることを成し遂げた。
たとえ何もなかったとしても、人にとっては事実が功績であり”何もない”、それがまた7万年歴史の最大の功績となったのだ。
想像された終末とは光景がしばしば異なるかもしれない。
建物が酷く荒廃しているイメージには特に違いない。
そこに残るごく少数の生物がいることにも違いはない。
水に触れた足先から、目の前の光景全てに突如として薄い氷が広がった。
表面温度のみならず、一気に下がった気温にさほどチキンが立つわけでもなく踵が氷に乗ると体は滑るように進んだ。
氷が発生し数秒。まだ空中には塵ほどしかない氷の欠片が残っていた。
スケートをするわけでもなく、一帯は氷に埋め尽くされ生きた心地を忘れさせる。
白い髪が尾を引くのを、ただ見守っているはずもなかった。
背中が氷に侵食された怪獣が、水面の氷を割り姿を現した。
クジラ、サメ、それらと似た外見をしつつも、圧倒的に異なるのはその大きさ。
水面から空中までそれは出、腹を上にして飛び上がる。
餌を探していたか、あるいは氷主を殺すためか、喰らわんと開く口で突進した。
「君で最後だ」
背中から侵食を続けていた氷、あるいは氷主から発せられた氷紛、そのどちらかでクジラを模した怪獣は息を止めていた。
その直後、水面に張っていた氷は割れ、氷主の体は背負っていたボートに乗って水に投げ飛ばされた。
人類が海洋生物に滅ぼされ5000年。
氷の主は海洋生物を滅ぼさんと息をついていた。
***
人が生きるために動物たちの土地を開拓したように、海洋生物が星の長ならば当然、彼らの領域が増える。
海なのか雨水なのか、地球の陸地のうちさらに八割が水に侵され、人の住める地はなくなっていた。
海底神殿たる人間の住処は既に歴史の産物と化し、しかし実際は猛獣たちによりそのほんとが破壊され尽くしているだろう。
ジェットを搭載した小型一人用ボートで氷の主は水面を進んでいた。
先ほどまで氷を司っていた手が、今はただの骨と皮。
船頭に取り付けた操縦を器用に揺らし、氷の主は自分が始末した猛獣の口元へ移動する。
その死体はいまだ氷に包まれている。たとえ地球が太陽に包まれようとも溶けることのない氷で。
ある意味の冷凍保存で海獣は死に絶えている。
目玉に意識がないことを確認すると、氷主は海獣から一枚の鱗を剥いだ。
氷の中で輝くそれを、なるべく傷つけることなく取り上げバッグにしまう。
再び、氷主は海獣に手を向けた。
先ほどの結晶のような氷とは質が違う、霧のように吹きだした雪の結晶が海獣を死骸を包み込み、次に世界が晴れた時、そこに存在はなくなっていた。
任務は完了だ。
音のない世界で唸るモーター音だけが異質だった。
暇を潰すために取り出した鱗を、指で弾いてみると、その部分だけが青く光りあがる。
海獣の大きな特徴だ。
奴らの鱗は特殊な性質を持ち様々な用途がある。
真の目的とは異なるものの、海獣抹殺の際は必ず、鱗を一枚のみ持ち帰ることも義務付けられていた。
水の道が続いていた。
両脇には相当な高さのビルが立ち並ぶものの、いずれも水面から10mとたたないうちに屋上が見えている。
どれもすでに荒廃し人は住んでいない。
どころか、体の大半は海中に埋まっていた。
地球は水の星。
5000年前と比べ、海面は20mの上昇を遂げていた。
必死で回転していたモーターの音が弱くなるとともに、氷主はボートを背中に拾い陸地に足をつく。
今度こそ、足先が水に触れたところで氷なんてまやかしは出てこない。
手にする鱗を落とすまいと強く抱えなおし、氷主は目の前の建物に入っていった。
屋根は潰れ、天井は言ってる間に崩落してくるだろう。
両脇にそびえる壁の先には幾重もの施設があるらしいが入ったことはない。
ずっと直進し、行き着いた扉を開けた。
一面が光の部屋だった。
色とりどり、ながら纏めれば青っぽさが浮かぶその空間。
全て、怪獣の鱗である。
壁を上から埋めていき既にそれは全面に行き渡っている。
白い部屋の隅に、バッグから取り出す新しい鱗をはめ込むと、また1つ氷の主の功績は静かに刻まれた。
「あと2つ」
それだけで、壁は埋まる計算だ。
海獣が残り2体という確証ではない。
ただ、氷の主が残せる目標が2枚の鱗というだけ。
長居していては目がやられるこの部屋しか、氷の主の200年を称賛してくれる子たちはいない。
冷たい海に暮らし、氷に殺されたはずの鱗たちが、妙に温かかった。
青い光に包まれた巨大な部屋。
天井にまで行き渡った鱗は、集めきると地球のために利用されるそうだ。
氷の主を製造した人工知能が言う。
彼らは、人間という地球の歴史上で最も発展を遂げた生命を絶命させたのが自分たちの本能だと思っている。
違う、絶滅させたのは海獣たち。海獣たちを王者とさせた海だ。
それでも、今を生きる知能たちには海獣が人間を殺した理由が分かっていない。
魚類は5億年以上昔から時代のトップを走ることはなく、共存、いや孤立を続けた冷たい命だ。
凶暴だとしても彼らは海でしか生きることは出来ず、人は陸地でしか生きていけない。
ただ、その差がいつかになくなっただけだと、そんなこと分かっているのに。
氷の主の力は、海獣を前にしたときでないと能力が発動出来ないように設定されている。
氷の主は人ではない。人工知能の一員であるが、実体がある人工知能もまた、氷の主だけだ。
名前という概念すら、彼女は持たずにただやることだけをやっている。
「あと2個――
あと2枚で、彼女は終わってしまう。
***
翌日だった。
初めて、人の言葉を話す海獣と出会った。
「あと、2人だけとなったよ」
似たような、クジラを模したフォルムで、しかしそれにしては小柄な海獣だった。
どっしり構えた、深い音が氷の下で波打った。
「私を入れて、この世界に残る私達はね」
氷の主は水面に張った氷を溶かし、自分はボートに、彼は水面から顔を出して、言葉を交わした。
「私も、残り2枚だ」
「それなら、丁度よかったな。どちらか、ひとりぼっちにならずに済みそうだ」
「そうだな」
確かに、知能から周辺の海獣の反応は2体と昨日に通達を受けていた。
「弔いも喰らいも出来ないんだ。私達も間もなく飢え死にで死を迎えるところさ」
「海に生物はもういないのか」
クジラはまるで人が肩をすくめるかのようにひれを挙げて見せた。
「それが君による行いだということも、我々はとうに気づいていたさ」
全く動じず、クジラは語り続けた。
低く唸る鳴き声は、人によっては怖いかもしれない。
比較出来る人間がいないので、氷の主にそんなことは分かるまい。
「君、名前は」
「そんなの、人がとってつけていただけのものだろう。私に必要はない。他がいないんだから」
クジラは驚いたような目をした。
彼らには名前という存在があるのだろうか。
あなたの名前は。そう、聞きたくなってしまった氷の主より先に、クジラは面白い答えを返す。
「ならば、死んだ後で君を呪うために、今ここで名前をつけよう。名前も知らぬ存在を恨むことは出来ないからな」
「分かった」
「……我々の名前はね、お嬢さん。ただの数字なんだ。君たちで言うね」
「そうなんだ」
ちなみに、氷の主がこれまで誰かと言葉を交わした経験はない。
世界にひとりぼっちだと知った時、氷の主はやることをやる以外、何もなかった。
やるべきことも、やりたいことも、出来ることもない。
知能が欲していることを探す手伝いくらい、深く考えずに引き受けたのは彼らが父であり母であり、馬鹿の手助けを出来る人に最も近い存在だと自認したからだ。
「お嬢さんは今、何になりたい」
「夢?」
「そうだ。名前とは、そうやってもらうものだ。人はね」
「数字が良ければそれでもいいが」と付け加えるとクジラは言葉を止め、氷の主の答えを待った。
なりたいものがないから生きてきたのだ。
なるべきものもなく、なりたいものもない。
生み出された意味は知能が滅びた世界を生きるためだ。
地球に生命を残し続ける、それを出来ない彼らが唯一出来る、ただの動く機械を次の王に託しただけ。
「生死が」
「ん?」
「生死が、経験出来る存在なら」
どうして自分は目の前の生命を殺さないのか分からなかった。
この頃はただ名前という存在に興味があっただけかもしれない。
「呪われるためには、私が死ねないと」
「……それもそうだ。ならば、君は人になればいい」
「地球を支配している人工知能は生命を生み出せていない。生み出すために鱗を集めているんだ。青い光を求めている」
「瞳。どうだい?」
「なぜ、目なんだ」そう問い返すつもりが、自分でも分かった。
クジラの目はじっと氷の主を見つめていた。
動物の視線など考えた事もない。視線の向く先がこのような小さな動く物に分かるはずもないと思っていた。
目から零れるそれの名前は知っていても、流す機会も理由も今まで必要としなかった。
「人は嬉しいとき、悲しいとき、怒っているとき、泣くものだ。涙を流す。それは人間だけに与えられた最も美しい行為だろう?私はそう思う」
クジラはひれで主に水を掛けた。
「君は、人間ではないのかね。瞳」
***
その翌日、出会った別の海獣を瞳は殺していた。
鱗は青い部屋に持ち帰り空いた2枚分のスペースに1つを入れた。
その海獣とは言葉を交わすこともなかったし殺すことに何もなかった。悲しみもなかった。
その翌日、レーダーに従い瞳は海獣の元へ滑っていた。
再び顔を合わせていた。
「昨日、海の中には私以外の生命はいなくなっていたよ。天に召されたようだ。君を呪う理由がまた1つ増えたようだね」
「瞳だ。よく覚えておいて」
「あぁ勿論だとも。海の生命を絶命させた人間、瞳。忘れるはずがない。天に召されればすぐに仲間たちに君の愚痴をこぼそう」
瞳は小さく笑っていた。
「是非そうしてくれ。瞳の悪名は止むことをしてはいけない」
「けど」瞳はそう続けた。
氷点下まで落ちた手を空中にかざした。
クジラは静かに目を閉じる。
そういう運命だ。
生命は常に移ろい変わり地球は存続する。
互いに争いあい妬みあい、そのたびに進化と衰退を繰り返す。
「瞳を地球の歴史上最悪の人間にしてくれ」
瞳の手は空中で雪を撒き散らした。
覚悟を決めたはずのクジラは瞳を見上げた。
***
「7万年は長いと思う?」
「膨大な時間だ。少なくとも、我々にとっては。7万年前といえば我々はとうに現代と同じ身体を得ていた。しかし、彼らにとっての7万年もまた、果てしなく長く、多くの発展を繰り返したのだろうね」
クジラは瞳を背中にゆったりと語る。
「彼らが地球の最大の支配者であったことに変わりはないだろう。1億の時をかけた恐竜が言語も介さず生活の発展も遂げなかったのだからね」
「それは違うよ」
クジラは見えないのに背中を見上げた。
「人間には5000年の間、変わらず存在し続けた敵がいたからだ。誰だと思う?」
「……誰、ということは、彼ら自身というわけか」
「そう。人間は常に互いを争っていた。技術・芸術・知識・力・財力・顔。人間は個体の価値を決める材料が多すぎたのだと知能は考察した。瞳たちは、動物を甘く見すぎているだろうか」
クジラは瞳の言葉に目を瞑った。
「いいや。そんなことはない」
彼らの通り過ぎた水のそばには、争い合い、そして互いに息絶えた名も知らぬ動物の死骸がある。
「彼らには7万年の短い時間で、進化し続けなければならない理由があった。その理由も時代によって頻繁に変わり、彼らの環境、そして彼らをも変え続けた。しかし、そんな優れた生命ですらあまつさえ5億を生き続ける長老にあっさりやられてしまった。何故だろうね」
瞳の現代人としての課題に、クジラはあえて正解を答えてやった。
「それが、進化というものだから。これは君が言いたいことだろう?」
「知能はあなた達が人間を絶命させた理由と出来た理由の両方を探している。彼らは馬鹿なんだよ」
クジラは笑った。
「瞳は違うんだな」
「私は馬鹿じゃない」
クジラの背から降りた瞳はいつもの建物の前に立った。
クジラは瞳のそばにおり、離れようとしない。離れない。
瞳の氷が、知能をこの時で止めた。
その後、地球は数千年の氷河期を迎え、やがて生命も生まれたかな。というあたりまではただの妄想です。