エリス:第30話
エリス視点
あの存在が空へと還ったあと、街の中心には、風のような光が静かに舞っていた。
それは、名を持たなかった祈りが、ようやく世界に届いたという証。
届くはずのなかった声が、いま確かに「ここに在った」と認められたこと――その変化が、空間全体をゆるやかに包んでいた。
けれど私は、その光を、まっすぐには見つめられなかった。
「……思い出されなかったものが、ようやく、“あった”と証明されたのですね」
胸元で組んだ指先が、微かに震えている。
ひとりごとのように落とした声は、誰に届くでもなく、ただ胸の奥に沈んでいった。
……私は、知っている。
“思い出されなかった記憶”というものを。
言葉にされることもなく、触れられることもなく、ただ闇に消えていった、小さな命たちを。
祈ることすら禁じられた空間の中で、届くあてのないまま、そっと目を閉じた子どもたちの気配を。
私は、その場所にいた。
それなのに――私は目を逸らした。耳を塞ぎ、背を向けてしまった。
そして一つ、確かに“記憶されるべきだった誰か”が、世界から零れ落ちた。
その痛みだけが、ずっと胸の奥に残っている。
「……エリス?」
隣から届いたルーゼン様の声に、思考が緩やかに現実へ引き戻される。
深く静かな声音は、私の沈黙を、責めることもなくそっと呼び戻してくれた。
私は小さく頷き、伏せたままの瞼の裏に浮かんでいた影に、そっと言葉を与えた。
「すみません……少しだけ、思い出していました。あの頃のことを」
「……話せるか?」
そう問われたとき、私はひとつ呼吸を整えてから、ゆっくりと頷いた。
「名も呼ばれず、祈りも届かずに……消えていった子たちがいました。声を殺して、誰にも知られず、いなくなった命が」
声がかすれる。
それでも、私は目を逸らさなかった。もう、逃げたくなかった。
「私は、それを見ていたのに、何も残せなかった。記憶にすらできなかった。……怖かったのです」
記すべきものを、私は記せなかった。
一番近くにいながら、一番遠い場所にいたのは、私だった。
ルーゼン様は、何も言わず、ただ黙って私の言葉を受け止めてくれた。
その沈黙の中で、彼の目が静かに遠くを見つめはじめる。
その視線の先にあるのは、きっと彼自身の記憶だった。
「……俺にも、いる」
その声は、低く、けれど確かだった。
「街で、戦場で。名前も知らなかったけど、顔は思い出せる。声も、仕草も。……届くはずだったのに、届かなかった命があった」
彼の手が、ゆっくりと剣の柄に触れる。
それは決して戦いの構えではなかった。
過去を、失ったものを、自分のなかに残すための――“記憶に触れる”動作だった。
「見ないふりをしていた。忘れたかったんじゃない。……思い出すのが、怖かったんだ」
彼の言葉には、悔いもある。けれど、それ以上に――赦しがあった。
「それでも……今なら、言える」
彼は空へと視線を向けた。
「お前は、確かにここに“いた”。俺が覚えてる。それで、もう十分だろ」
その言葉は、過去に置き去りにされたすべての命へ向けられたものだった。
だからこそ、街が応えた。
石畳の隙間から、淡い光がそっと立ち上がる。
それは、ようやく“思い出された”ことを喜ぶように、世界が微かに震える気配だった。
私は、瞼を閉じる。
この瞬間が、痛みだけで終わらぬように。
私たちが記憶を手繰ったこと、その問いに応えたことが、確かにここに“あった”と伝わるように。
ルーゼン様は、剣を抜いていなかった。
もう、彼は“斬る者”ではない。
祈りに応え、問いに寄り添い、忘れ去られた存在に「名」を届ける者――
それが、彼という人の、いまの“戦い”だった。
私は、その背を見つめながら、心のなかでそっと記す。
風のように掠れていった名もなき声が、確かにここに“あった”と――この世界に、記憶されるように。
やがて、空間の向こうに、新たな光が灯った。
それは、新たな問いの兆しだった。
けれど、もう恐れはなかった。
なぜなら、私たちは応えることを選んだから。
この旅は、まだ続いていく。
記憶の終局に向かって。祈りの、その先へ。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
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光と闇、信仰と裏切り。
崩れゆく世界。
これは、運命に抗う者たちの物語です。
救いは、ただ祈ることで手に入るのか。
それとも――誰かの絶望の上に築かれるものなのか。
どうか、あなたの心に何かが残りますように。
それではまた暇な時にでわでわ!




