第29話:ルーゼン・エリス
ルーゼン・エリス視点
中心部に足を踏み入れた瞬間、世界が静止した。
音はない。風もない。すべての気配が消え失せたわけではない。むしろ――静かすぎるその空間には、“呼吸”のようなものが確かにあった。
その正体は、中央に佇む一つの“存在”。
白い衣を纏い、年齢も性別も定かでない、淡い輪郭の人物だった。細く、儚く、まるで触れたら崩れてしまいそうなほどの繊細さ。
けれど、目だけは違っていた。
まっすぐに、こちらを見ていた。にじむ輪郭の奥で、その瞳だけが明確だった。
少年にも見える。少女にも見える。
けれどそれは、“誰でもありえた”が、“誰でもなかった”。
私はその場で、息を呑んだ。
感じたのは痛みだった。心の奥底に沈んでいた“名もなき祈り”たちが、一斉に疼く。
この存在は――記憶ではない。
“記憶になることすら許されなかった祈り”の、集積。
語らない。
声も、名も、ない。
けれど、その瞳は確かに訴えていた。
(私は、誰だったの?)
(私は、本当に“在った”の?)
ひとつ、呼吸を飲み込んだ。
この問いに、私の言葉では応えられない。
彼の手でなければ――届かないと、直感していた。
「エリス、あれは……」
隣に立つ彼の声が、わずかに鋭くなった。
反射的に、剣に手を伸ばそうとしたその動きを、私は軽く制する。
「違います。あれは、斬ってはいけません」
「……理由は?」
「斬れば、それは“なかったもの”になる。けれど、あれは“なかったことにされた存在”です」
私は、声を落とした。
「必要なのは剣じゃない。“触れて、赦す”ことです」
数秒の静寂。
そして彼は、剣の柄から手を放した。
ルーゼン様は歩き出す。剣ではなく、掌を開いたまま。
祈るような仕草だった。
(赦せるでしょうか。この世界が、かつて“与えなかった名”を)
私は黙って、その背を見守る。
白の存在が、わずかに首を傾げた。
その動作は、問いだった。
沈黙の奥から、心の奥底に問いかけてくる。
“本当に、私はここにいてよかったの?”
彼は立ち止まらない。真っすぐに歩を進め、そっと手を伸ばす。
「――お前は、名を持たなかった。けれど、確かに“ここにいた”」
その言葉に、空気が震えた。
白の存在が、わずかに揺れる。
涙でも、言葉でもない。けれど、その体全体から、“ありがとう”のような気配がにじみ出ていた。
「だから今、ここで名を与える。記録じゃない。“証明”として」
指先が、白の輪郭に触れる。
光が生まれる。言葉ではない音が空間を満たし、世界がゆっくりと明るさを帯びていく。
誰にも届かなかった祈りが――今、届いたのだ。
(わたしは……“ここに、いた”)
その声が、確かに彼に届いた。
白の衣がほどけるように崩れ、粒子となって空へ舞う。
けれど、それは“消滅”ではなかった。
“赦された”という形で、彼の手のひらに――名もなき祈りの温もりだけが、最後に残された。
「……応えられた、か?」
呟く彼の声に、私は頷く。
「はい。あなたが触れてくださったことで、あの存在は“確かに在った”と、証明されました」
風が――吹いた。
誰もいないはずの空間で、生まれたはずのない風が。
それは、“終わり”ではなかった。
“始まり”の前触れだった。
その風が吹いたことを、私は一生、忘れないだろう。
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光と闇、信仰と裏切り。
崩れゆく世界。
これは、運命に抗う者たちの物語です。
救いは、ただ祈ることで手に入るのか。
それとも――誰かの絶望の上に築かれるものなのか。
どうか、あなたの心に何かが残りますように。
それではまた暇な時にでわでわ!




