エリス:第26話
エリス視点
扉が消え、影も祈りも空へ還っていったはずなのに――
ルーゼン様の掌に宿っていた記憶の“ぬくもり”は、まだ、そこに残っていた。
それは力でも、熱でもない。触れられるものではなかった。けれど私にはわかる。彼の内側で、何かが確かに“揺らいでいる”ことを。
「……少し、空気が変わったな」
その呟きに、私は静かに頷いた。
「はい。ひとつの祈りが、応えを得たのでしょう」
「応えた……か」
彼の足取りには、確かに迷いがない。けれど、その背中は少しだけ――前よりも柔らかくなっていた。
街の空気は、ほんのわずかに変化していた。風も音もないのに、時間の流れが生まれている。祈りに応えた者と、それを記憶にした空間が、互いに呼応し始めていた。
「進もう。まだ……終わっちゃいない」
「ええ。けれど、今度は少し注意が必要です」
「……また、来るのか?」
「はい。反応があります。“次”が、こちらの動きをうかがっている」
私は言いながら、周囲に漂う“気配”を探る。まだはっきりとはしていない。けれど確かに、記憶の底に潜んだ“問い”が、息を潜めて待っている。
曲がり角を過ぎたとき、足元に散らばる粉のような陶片が目に入った。
「これは……」
「“否定された記憶”です。誰にも応えられず、誰にも祈られず、ただ消えていった記憶」
私は、わずかに声を低めた。
「それでも……残ってるんだな」
「ええ。どんなに拒まれても、一度生まれた記憶は、完全には消えきれない」
彼は剣に手を添えた。
それは攻撃のためではない。祈りに触れるための、“応答”の姿勢だった。
舞い上がる陶片の粉。その中央に、空間の裂け目がゆっくりと開き始めた。
膜が裂けるような音。
その向こうから、曖昧な色の波が流れ出してくる。
「……姿が、定まっていない?」
「はい。“存在しきれなかった記憶”です。形を持つにはあまりに脆弱で、けれど、消えきれなかった――そんな断片」
濁った色は人の形を模しているようで、模しきれていない。誰でもありえた“何者か”の気配だけが、淡く漂っていた。
「来るぞ」
ルーゼン様が剣を構える。
影が滑るように接近してくる。刃が走る。だが手応えはない。
霧のように、ただ静かに、崩れていく。
その瞬間――
私は見た。
彼の表情がわずかに変わるのを。
寒さ。痛み。声のない叫び。
“何者にもなれなかった誰か”の記憶が、彼に届いたのだ。
次の影が来る。
彼は斬る。
そしてまた、記憶が彼に語りかける。
声にならなかった祈りが、今、形となって彼の中に流れ込んでいく。
(応えている……)
そう、これは戦いではない。
問われた者が、応えを選び取る瞬間。
ルーゼン様は、何も言わずにその問いに“肯定”を示していく。
影が消えるたびに、感情だけが空に昇っていった。
「……応えられた、か?」
「はい。あなたが応じたから、この断片は記憶され、救われました」
私はそう言いながら、彼の背中をそっと見つめる。
この人は、もはや“剣を振るう者”ではない。
祈りに耳を傾け、記憶に応える者。
歩みの先に、微かな“ほころび”が現れる。
「……ほころび、か?」
「はい。記憶が再生を続ければ、やがて変化が生まれます。固定された記憶にも、“揺らぎ”が生じるのです」
「その“揺らぎ”の先には、何がある?」
「……“選択”です」
「選択、か」
「はい。祈りの最も純粋な形です。ゆえに、“抵抗”もまた強くなるでしょう」
言い終える前に、空気が跳ねた。
街路の先が揺れ、水面のように波打つ。
その中から現れた影は、はっきりと“人の形”をしていた。
けれど、その幼い背には輪郭しかない。言葉も表情も持たない“誰か”。
ただ――まっすぐに、こちらへ歩いてくる。
「……“誰か”だ」
ルーゼン様が呟く。
私は言葉を飲み込む。
その“誰か”は、小さな手を差し出していた。
そこにあったのは、光を帯びた陶片。
粉でも、欠片でもない。“生きたままの記憶”。
「……遺された選択肢、かもしれません」
「選択……されなかったもの、じゃなくて?」
「いいえ。むしろ、“選ばれようとしている”記憶……でしょうか」
ルーゼン様が、そっと手を伸ばす。
掌が陶片に触れた瞬間、空間が静かに染まる。
高い天井。閉ざされた祭壇。
幼い背が、ひとり祈っていた。
誰にも届かず、誰にも知られなかった祈り。
それを、今、彼が――受け取ろうとしている。
「……応えなければ、ならないな」
剣に手をかける彼の背に、私は確信を抱いた。
この人は、祈りに応える者。
記憶に触れ、問いに向き合い、“存在”を救う者。
だからこそ――
私はこの記憶を、記し続ける。
彼が応え続ける限り、私はこのすべてを見届ける。
空間に溶けていく祈りの記憶。その余韻の中で、ルーゼン様は一度も振り返らず、ただ剣を収めた。
その動作には、迷いも後悔もなかった。
ただ静かに――けれど確かに、“応え終えた者”の覚悟があった。
私はそっと歩を進め、彼の隣に並ぶ。
陶片から立ち上った光はすでに消え、街路は再び沈黙を取り戻していた。けれど、それは先ほどまでの“死んだ静けさ”ではなかった。
違う。
記憶が応えられたことで、この空間は、ようやく“語り返す力”を持ち始めたのだ。
「……あなたは、やはり」
思わず、声が漏れる。
「この記憶たちの、祈りの応答者です」
「そう決まってるわけじゃない。ただ、誰かがやらなきゃいけないなら――俺がやるだけだ」
その言葉には、いつも通りの簡潔さがあった。けれど、そこには確かに、かつての彼にはなかった“受容”の気配が宿っていた。
誰かの痛みを、記憶の重さを、祈りの叫びを――そのまま拒まず、抱きしめようとする意思。
その心が、きっとこの世界を揺らす。
私は目を伏せ、深く呼吸を整えた。
まだ終わらない。
この空間の問いは、いまだ応答を求めている。
その証に、街路の先――石畳の中心に、淡く光る“新たな陶片”がひとつ、静かに落ちていた。
それはまるで、“次の問い”の入り口を示す標のようだった。
「ルーゼン様、あれを……」
「……ああ、わかってる」
彼が歩き出す。私はその背に、再び歩調を合わせる。
その一歩は、過去への追憶ではない。未来へと踏み出すための、記憶との対話。
たとえそれが、どれだけ歪み、傷ついた記憶であっても――
この人なら、きっと、応えてくれる。
だから私は見届ける。
記憶が、彼に何を問うのか。
彼が、それにどう応えるのか。
そしてその先に――どんな世界が生まれていくのか。
問いはまだ続いている。
記憶の街は、静かに呼吸を始めていた。
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光と闇、信仰と裏切り。
崩れゆく世界。
これは、運命に抗う者たちの物語です。
救いは、ただ祈ることで手に入るのか。
それとも――誰かの絶望の上に築かれるものなのか。
どうか、あなたの心に何かが残りますように。
それではまた暇な時にでわでわ!




