エリス:第2話
エリス視点
森の終わりが、近づいていた。
木々の密度が徐々に薄れ、冷たい夜気の中に草原の香りが混じりはじめる。
木立の隙間から、なだらかな丘の稜線がぼんやりと浮かんだ。
ルーゼンは無言のまま、少し前を歩いている。
その背中を見つめながら、エリスは一歩後ろを静かに歩いていた。
焚き火の残り香も、いまは風に紛れ、過ぎ去った夜の残滓のように消えていく。
(丘……もうすぐ、森を抜ける)
彼の足取りは、ほんのわずかに不安定だった。
その小さな揺れと沈黙の気配――それは、エリスにとって“変化の兆し”に他ならなかった。
この時間。
彼の背中を観察するこの瞬間こそが、彼女にとって最も大切なものだった。
(少し……足取りが鈍い)
そう気づいたのは、ほんの数歩のこと。
先ほどの戦いでは鋭く、静かに敵を屠っていた彼の動きが、今はどこか“重たく”感じられた。
ただの疲労ではない。
“内側”から、何かが滲み出している――そう思わせる、確かな違和感。
「……全部だ」
彼がそう呟いたとき、エリスは何も言わず、その言葉を胸に収めた。
けれど、本当は問いたいことが山ほどあった。
(その“全部”の中に、私のことも含まれていますか?)
けれどそれは、訊いてはいけない。
少なくとも今の自分には、その問いを投げかける資格などない。
静かに歩を進めながら、エリスはそっと彼の横顔を盗み見た。
冷たい風が彼の前髪を揺らし、月のない空がその瞳をわずかに照らす。
そして、気づく。
彼の右手――その指先が、微かに震えていた。
(やっぱり……)
闇魔法の代償。
それが今、彼の身体に明確な“異常”として現れている。
「ねえ、ルーゼン様」
あえて明るい声で話しかける。「今日は……ちょっと疲れましたね」
彼は振り返らないまま、静かに答えた。
「……そうかもしれない」
思いのほか、かすれた声だった。
(もう、限界が近い)
エリスは唇を噛む。
彼の内側で広がる異物感――それがどこから来るものか、彼女には分かっていた。
だが今、それを口にするつもりはない。
(……星でも、闇でもない)
そう感じたのは、理屈ではなく、直感だった。
名を持たない感覚。形にならない恐れ。
自分の中にある“それ”と、彼の中にある“何か”が――
互いに呼応しているような、そんな気配。
足元の土が崩れる音がした。
その瞬間、ルーゼンの歩幅が乱れ、右膝がふらついた。
「ルーゼン様!」
エリスはすぐに駆け寄った。
彼はその場に膝をつき、肩で荒く息をしていた。額にはうっすらと汗が浮かび、右手は地面を押さえたまま拳を握っている。
「……ただの……疲労だ」
その声は、かろうじて意識の残っている証だったが――
(違う、これは……)
エリスは腰の袋から小さな水筒と布を取り出し、そっと彼の額に当てる。
だが、その瞬間、手がわずかに痺れた。
(やっぱり……何かが暴れてる)
彼の内側で、“何か”が蠢いていた。
まるで、器の限界を試すように、正体の知れない力が暴れ回っている。
「ダメ……まだ、ダメよ」
エリスは囁くように呟いた。
彼の頬に手を当てる。額に刻まれた震え――それは、身体が“均衡”を失い始めている兆しだった。
「私は、まだ……あなたを壊すつもりなんて、ないのよ」
だが、その言葉を彼が聞いたかどうかは分からない。
ルーゼンの身体は、重力に従うように、静かに傾いていく。
「ルーゼン様……!」
腕を差し伸べたときには、もう彼の瞼は閉じられていた。
そして――彼は、そのまま倒れた。
エリスはその身体を抱き留め、静かに膝をつく。
彼の呼吸はかすかに安定していたが、魔力の流れは、嵐のように荒れていた。
(……それでも、私には“それ”が見える)
それが星でも闇でもない、もっと深い、もっと原始的な闇であることを――
彼女は確かに感じ取っていた。
今はまだ、その名を口にすることはない。
ただ、それが彼の魂の奥底で、確かに息づいていることだけは分かっていた。
「……今さら引き返せないのなら、せめて――」
その夜。
星のない空の下で、エリスはそっとルーゼンの体を抱きしめた。
そこにはもう“従者”ではない、“見届ける者”としての彼女の想いが、静かに滲んでいた。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
※この作品は【夜・深夜】更新しています。
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光と闇、信仰と裏切り。
崩れゆく世界。
これは、運命に抗う者たちの物語です。
救いは、ただ祈ることで手に入るのか。
それとも――誰かの絶望の上に築かれるものなのか。
どうか、あなたの心に何かが残りますように。
それではまた暇な時にでわでわ!