第21話:ルーゼン・エリス
ルーゼン・エリス視点
扉の先に広がっていたのは、何もない空間だった。
装飾も、家具も、生活の痕跡すらない。石造りの床と壁だけが、無機質に続いている。まるで、記憶の中から抜け落ちた一頁のようだった。
本当の異質は――“音”がないことだった。
足音が響かない。呼吸すら、空気に吸い込まれていくようだ。
この場所だけ、時間が沈んでいる。
ルーゼンは無意識に指を開き、握り、空気を探った。剣には手をかけていない。だが、この空間には、それでは計れない“何か”があると感じていた。
背後でエリスが黙ったまま、周囲に視線を巡らせていた。その目は、暗がりの奥に何かを測るように細められている。
(……誰かに、視られている)
そう思った。視線とは違う。もっと深く、存在そのものを撫でるような圧。試されているような、あるいは――選ばれているような感覚。
ふと、足元に違和を感じた。
石の床に、薄く擦れたような痕跡。重く、鈍い線が残っている。
以前、別の場所で見たものと同じだった。
ルーゼンは身を低くし、指先で跡をなぞる。石がわずかに削れ、粉じんと小さな欠けがそこにある。“何か”が実際に通った痕だった。
目で追う。線は、奥へ――
エリスの視線と交差した。
空間の中央、わずかな揺らぎ。そこに、違和があった。
空気がひとつ、脈打つ。
波紋のように、静寂を裂く震えが広がる。
次の瞬間、空気が裂けた。
“それ”は、そこにいた。
輪郭が曖昧な人影。幾層もの“記憶の断片”が寄せ集まり、人の形を模している。目も口もない。だが、その存在は――確かに問いかけていた。
何を知っている。
何を選ぶ。
それは言葉ではなかった。空間そのものに刻まれるような“問い”だった。
(……これは、“排除のための記憶”)
エリスはそう観た。
語られず、封じられ、忘れられた思い出。不要とされた記憶が、形を持って“綻び”として現れていた。
異形の右腕が、不自然に膨れている。袋のように垂れ下がり、皮膚ではなく、何か別の質感で覆われている。中には、まだ名も与えられぬ“記憶”が詰まっているようだった。
その腕が、わずかに揺れた。
(……来る)
ルーゼンは直感で察し、身構えた。
そして次の瞬間、“それ”が動いた――。
“それ”は音を立てずに動いた。
床を滑るように進み、曖昧だった輪郭が徐々に形を帯びていく。だが、明瞭になるほどに、逆に“異質さ”が浮かび上がってくる。
人型のようでいて、関節がない。全身がひとつの塊のように、ねじれもなく滑らかに動いていた。右腕――袋のように膨れた異様な腕だけが、わずかに揺れている。
ルーゼンは一歩、前へ出る。
剣を抜いた。銀の刃が光を鈍く返す。
しかし、“それ”は反応を示さない。ただ淡々と、歩を進めてくる。
(……見られている)
歩幅は正確で、動きに無駄がない。まるで記憶された動作を再演しているかのようだった。
「……来るぞ」
低く告げると、背後の気配が揺れた。エリスは動かない。視線だけが、空間をまっすぐ貫いている。
異形の右腕が、静かに持ち上がった。
その中で、何かが蠢いた。
ルーゼンは即座に跳んだ。直後、袋の中から飛び出した黒い塊が石床を砕く。
ようやく空間に音が生まれた。
ただの打撃ではない。石に走ったひびが、何かを塗り潰すように歪んでいる。
記憶が――削られている。
(……これは“斬る”ものじゃない)
違和感が胸の奥に残った。剣で受けても、振るっても、“それ”は本質的に揺らがない。
次の瞬間、異形が跳んだ。膨れた腕を支点に跳ね、読みきれない角度から迫ってくる。
ルーゼンは地を蹴った。剣を構え、踏み込む。
斬撃が、異形の胴をとらえる。
金属ではない感触。だが、確かに断裂する手応えはあった。何層にも重なった“何か”が、無音のまま剥がれ落ちる。
だが、“それ”は怯まない。
斬られた部分からは血も出ず、ただ、霧のように崩れていく。
(……記憶の集合体)
背後から、静かな意志が伝わってきた。
エリスだ。
「ルーゼン様、下がってください」
迷いのない声。
ルーゼンは即座に後退する。次の瞬間、“それ”の右腕が振るわれた。
空間が軋む。
床が割れ、壁が歪む。周囲の“形”が書き換わるように、再構成されていく。
(……攻撃じゃない。これは、“上書き”)
この存在は、物理的な敵ではない。
記憶に触れ、選び、そして塗り替える――そのための“機構”なのだ。
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光と闇、信仰と裏切り。
崩れゆく世界。
これは、運命に抗う者たちの物語です。
救いは、ただ祈ることで手に入るのか。
それとも――誰かの絶望の上に築かれるものなのか。
どうか、あなたの心に何かが残りますように。
それではまた暇な時にでわでわ!




