エリス:第20話
エリス視点
風の流れが変わった。
それは些細な変化だった。温度も、匂いも、大きくは違っていない。けれど、肌に触れる感触だけが、ほんのわずかに――記憶に刻まれたものではない、“粒立ち”を帯びていた。
私は歩みを止めずに、視線を動かす。ルーゼンの背が、少し前を進んでいる。
先ほど見送った霧のような騎士たちの影――そして残された足跡。
(あれは、記憶ではない)
確かにそこに“あった”痕。誰かが歩いた、あるいは何かを残した。記憶にも思い出にも刻まれない、けれど紛れもない出来事。
それを確かめるために、私はここにいる。
街路の構造は、依然として精緻だった。
壁面の装飾、窓の間隔、敷き詰められた石の並び――すべてが均整を保ちすぎていた。まるで「街とはこうあるべきだ」という命題に従い、誰かが設計図通りに築き上げたかのような風景。
(……これは、人の営みの形ではない)
そこにあるのは暮らしではなく、“定義”だった。
雑さがない。歪みがない。使い込まれた形跡も、歳月の摩耗もない。
私は、そっと壁に手を添える。石の感触はあった。だが、それは“自分の記憶”にあるあの場所とは異なる、どこか“他者の記憶”に触れているような温度だった。
「整いすぎている……」
無意識に漏れた声が、歩く音の合間に微かに響いた。
ふと、視界の端に映る小さな白が、足を止めさせた。
路地の隅。かつて見張り台があったはずの地点の近く。石畳の隙間に、一輪の花が咲いていた。
それは、整然とした街並みの中で、不意に現れた“綻び”だった。
白い花弁が、かすかな風に揺れている。
規則を乱すように、石と石のわずかな隙間から、けれど確かに芽吹いていた。
私はしゃがみ込み、その花を見つめた。
(これは……誰かが植えたものじゃない)
偶然に、あるいは生きる意思に導かれて芽吹いたもの。けれど、それゆえにこの場所の“現実”として、あまりにも鮮やかに目に映った。
「……在るべきではなかった“もの”」
私の声に応じるように、ルーゼンがこちらを振り返る。
「……何か見つけたのか?」
「……いいえ。少しだけ、風が……変わったような気がしたので」
それは、正確に言えば答えになっていなかった。けれど、言葉にしきれない感覚を伝えるには、それが精一杯だった。
この街には、確かに“何か”が息づいている。
それは、記憶にも思い出にも現れない。けれど、綻びの中に確かに存在している。
名もなく、形も定かでない、けれど排除されずに“残っているもの”。
私は、その断片に触れるために、ここにいる。
路地を抜けると、もうひとつの広場が開けていた。
中心には構造物もなく、ただ空間だけがぽっかりと広がっていた。
だが、その“空白”にこそ強い引力が宿っていた。何もないはずなのに、視線が自然と引き寄せられていく。
その縁に、ひとつの扉があった。
閉ざされている。
けれど、その材質、留め具の細工、装飾の意匠――どれもが、“記憶の中には存在しない”ものであることが、すぐに分かった。
ルーゼンが立ち止まり、その扉を見つめる。
「……ここは」
その声には、思い出と一致しないことへの戸惑いが滲んでいた。
私は、彼の背を静かに見つめながら、思う。
(ルーゼン様も、“記憶”に縛られている)
この街を、かつての“リシニア”として見ようとしている。その記憶の枠で、この風景を測ろうとしている。
だが、これは――似て非なるもの。
記憶でも、思い出でもない、もうひとつの“層”。
私は前へ出て、扉に近づく。指先を、そっと取っ手に沿わせた。
冷たい。けれど、それは物質の温度ではなかった。
「……この扉、使われた気配がありません」
誰にも開けられず、誰にも閉じられなかった痕跡。
だがそこには、“触れられた記憶”だけが、確かに残っていた。
「ここは、誰かが“閉じた”場所です。きっと、“語られないために”」
ルーゼンは何も返さなかった。けれど、視線は扉の奥へ向いていた。
そのとき――風がまた変わった。
街の流れとは異なる、わずかな逆流。
“外”から吹くのではなく、“内”から吹いてくる風。
この街の奥が、今も生きている。
構造でも、装飾でもない、“誰かの感情”のような流れがそこにあった。
私は、風を背に、再び歩き出す。
ルーゼンもまた、それに並ぶ。
ふたりの足音が、静かに重なる。
石畳の模様は変わらない。整然としたまま、繰り返される構図。
けれど、その下には――まだ誰も触れたことのない物語が、眠っている。
私たちは歩いていく。
構造化された記憶の風景の隙間に、“生”の痕を探しながら。
語られなかった想いに、手を伸ばしながら。
―思い出されることのなかった風景の、その奥へ。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
※この作品は【夜・深夜】更新しています。
ブックマーク・評価・ご感想など、何かしらの形で応援していただけると励みになります!
光と闇、信仰と裏切り。
崩れゆく世界。
これは、運命に抗う者たちの物語です。
救いは、ただ祈ることで手に入るのか。
それとも――誰かの絶望の上に築かれるものなのか。
どうか、あなたの心に何かが残りますように。
それではまた暇な時にでわでわ!




