エリス:第18話
エリス視点
この“風景”が幻であろうと、誰かの“記憶”であろうと、見届けるべきものは確かにそこにある。
私たちは、静かに歩き出す。
草を踏みしめる音が、ふたり分、かすかに響いた。
一歩、また一歩。足元に広がる草は、色を濃くし始めていた。乾いた土に落ちる影が、陽の角度とともに伸びていく。けれど、それは今“ここにある”私たちの影だった。
私たちは、リシニア――そう呼ばれていたはずの王国の輪郭へと、近づいていく。
門のようなものが見えてきた。街路の始まりと思われる石畳が、丘の下に広がっている。
人影がそこをゆっくりと横切っていた。何かを語り合っているような、ささやかな動作。けれどその声は、こちらには届かない。風の音だけが、静かに耳をなぞる。
(……まるで、音だけが別の時間を生きているみたい)
私たちは止まらない。私は、あらゆる情報を拾い上げていた。
街の配置、建物の形状、掲げられた紋章、屋根から立ち上る煙。
それらは、教典に伝えられたリシニアと“よく似ていた”。けれど完全ではなかった。色、構造、空気の層。すべてが微かにずれていた。
(この街は、記憶の中にはない)
けれど、今はここにある。確かに“存在”している。
ルーゼンは、何も言わず隣を歩いていた。いつでも抜ける位置にある剣には触れず、それでも全身に注意を巡らせている。
私たちは、門の縁まで辿り着いた。
石畳に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
音がこもる。街の壁が風の通り道を断ち切り、静寂が広がっていく。
私は歩調を落とし、辺りを観察する。
人影――門を越える前には、確かに見えていた。
だが、いまは誰の姿も見えない。
生活の痕跡だけが残っていた。張られた洗濯物、開いたままの扉、焼きたてのパンのような香り。
けれどそれらには、“現在”を感じさせる動きがない。
在るのに、止まっている。時間が凍っているような印象だった。
「……変ですね」
自然と、声に出ていた。
ルーゼンは無言で頷いた。それだけで、彼もまた同じ感覚を抱いているとわかった。
街路の先――広場へと続く通りが開けていた。
私は静かに前へ出る。
石畳の下から、まるで何かが滲み出すような錯覚。
足元が、ほんのわずかに沈むような感覚。
広場の中央には、噴水があった。
だが、水は流れていなかった。今にも動き出しそうでいて、完全に静止している。
時間だけが、そこに置き去りにされたかのようだった。
「……あそこ」
ルーゼンの声に、私は視線を移す。
噴水の向こうに、ひとつの人影があった。
女性のようだった。けれど、輪郭が曖昧で、細部がぼやけている。抱えているものの形も定かではない。
祈っているのか、佇んでいるのか、判断できなかった。
私は、思わず息を詰める。
「……あれは、」
「見えるだけかもしれない。……行こう」
ルーゼンが先に歩き出す。
私は外套の留め具に触れ、その背を追った。
この街は、誰の記憶にも残っていない。
それでも、確かに今ここに“ある”。
幻か、過去か、想起の具現か。
その答えを得るために――私は歩く。
石畳に落ちる足音が、静かに吸い込まれていく。
距離が近づくたび、空気がわずかに重くなっていった。
気温は変わらない。けれど、触れる空気が粒立ち、密度を増している。
人影は、動かない。
それが本当に“人”であるかどうか、近づいても確信は持てなかった。
髪の流れ、服の縁、肌の陰影――どれもわずかに揺れていた。
まるで、誰かの記憶の中にしか存在しない映像を、そのまま現実に貼り出したかのような存在。
「……気をつけてください」
私が小さく告げると、ルーゼンは頷いた。
剣に手は添えない。だが、気配は明らかに警戒の中にあった。
あと十歩。
あと五歩。
その距離まで近づいたとき――
人影が、ふいにこちらを振り返った。
瞳は、なかった。
あるはずの場所に、霧のような空白があった。
けれど、確かにこちらを“視て”いた。
私は動きを止める。ルーゼンもまた、わずかに気配を立てた。
「……視られている」
人影は、音もなく、残像だけを残して滑るように奥へと退いていく。
通りの先、霧が揺れる方向へと、沈むように消えていった。
「……今のは」
「“記憶”か、記憶が生み出した何かか、それとも……」
ルーゼンの言葉は途中で途切れた。
私もまた、答えを持っていなかった。
ただ、あれがこの現実とは異なる“層”にあるものだということ――それだけは確信できた。
ふと視線を落とす。
人影が立っていた場所に、何かが落ちていた。
私はしゃがみこみ、それを拾い上げた。
白く、欠けた陶片。指先に冷たさが残る。
よく見ると、青い花弁のような絵付けがわずかに残っていた。
「……これ、リシニアの工房で焼かれていた陶器の意匠に似ています」
私が呟くと、ルーゼンも目を落とした。
「断片……それも、ただの物じゃないな」
陶片は冷たかった。けれど、どこか手に馴染んだ。
遠い昔に触れた“記憶”が、輪郭を持って蘇るような感触。
私は、しばらくそれを見つめていた。
「……進みましょう」
顔を上げてそう言うと、ルーゼンもまた静かに頷いていた。
人影が消えた先へ。
その向こうに何があるかは、まだわからない。
けれど――
今、ここに在るこの街と、そこにあった何かは、もう見逃すことのできないものだった。
私たちは、また歩き出す。
記憶に残されなかった風景の、その奥へ。
そこに残された“何か”を見届けるために。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
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光と闇、信仰と裏切り。
崩れゆく世界。
これは、運命に抗う者たちの物語です。
救いは、ただ祈ることで手に入るのか。
それとも――誰かの絶望の上に築かれるものなのか。
どうか、あなたの心に何かが残りますように。
それではまた暇な時にでわでわ!




