第17話:ルーゼン
ルーゼン視点
風が途切れた。
ほんの一瞬の静寂――のはずだった。けれど、それは異様に長く感じられた。
空は鈍く曇り、色彩を失ったかのように重い。足元の草は乾いていたが、踏みしめたときの感触に微かな違和感がある。わずかに柔らかく、靴裏に伝わる弾力が、記憶していたものと一致しなかった。
(……進んでいる。はずだ)
目印にしていた丘の並びも、風の向きも――すべてが、どこか噛み合わない。
時間か、距離か。それとも、自分の認識そのものか。
“カァン”
そのとき、澄んだ音が風に乗って届いた。
金属が石を打ったような、あるいは鐘の胴を軽く叩いたような――乾いていながらも、妙に深い響き。
一度きり。けれど胸の奥に残る残響は、やけに長く留まった。
「――……」
言葉にならなかった。
だが、体はもう動いていた。音の方角――前方の丘へ向かって、駆け出していた。
崖沿いのわずかな傾斜を抜け、風を切って走る。
足場は確かだ。だが、周囲の視界がわずかに霞んでいた。距離感が歪んでいる。現実と感覚が、うまく重ならない。
それでも迷いはなかった。
あの音を、確かめなければならない。
(なんだ、今の音は……? どこから――)
丘の斜面を登りきったその瞬間。
視界が、ひらけた。
言葉が、消えた。
そこに――王国が、あった。
ただの廃墟ではない。崩れ去ったはずの壁も、風に晒された瓦礫も、そこにはなかった。
整った街路。石造りの建物。塔の頂には、風に揺れる旗が掲げられている。だがその旗は、滅びた時代のものではなかった。見覚えのない紋章が刻まれ、色も、記録に残るものとわずかに違っている。
(……ありえない)
喉が震えたが、声にはならなかった。
遠くの広場を、人影が横切る。火の灯った窓。煙を上げる屋根。
現実が、歪んでいる。
足元がわずかに揺らいだ。
地形そのものが、自分の認識と乖離していく感覚。
背後から、駆けてくる足音。エリスだ。
だが、今は振り返れなかった。
“カァン”
今度の音は、空から降ってくるように響いた。
耳の奥に残る残響が、世界の輪郭を震わせた。
「これは……」
漏れた声は、自分のものとは思えなかった。
目の前に広がるのは、かつて滅びたはずの――
「……何だ……?」
足に力が入らなかった。見えているものが現実なのか、幻なのか。それすら判断ができなかった。
風が戻ってきた。
けれど、その流れは不自然だった。空間をなぞるように吹いては止まり、また向きを変える。まるで、こちらの様子をうかがっているかのように。
景色は消えない。
石の家々。尖塔。開かれた街門。どれも――“在る”。
時間を巻き戻したように、完璧に。
だが、その精密さこそが、不安を呼んでいた。
「……ルーゼン様」
背後から、わずかに息を乱した声が届いた。
振り返らずとも、彼女が隣に立ったのがわかった。
「……見えてるか?」
「ええ……でも……これは……」
その声は、困惑と、わずかな覚悟を帯びていた。
同じものを見て、同じように戸惑っている。
けれど、その感情の奥に――確かめようとする意志があった。
「滅んだはずだ。……俺たちが知っているはずの、リシニアは」
言葉にした瞬間、胸の奥に冷たいものが広がる。
これは、あのリシニアではない。
だが、まったく知らないものでもない。
懐かしさと違和感。記憶の形に寄せられた、どこか現実離れした再現。
「これは……過去?」
誰に向けるでもなく、そう問いかける。
エリスが、静かに言った。
「過去が、こちらに近づいてきているのかもしれません」
その言葉に、初めて目を逸らして彼女を見た。
風に揺れる髪。瞳は細められ、真っ直ぐ前を見据えている。
恐れていない。見極めようとしている。
「……境界を越えて、“こちら側”に何かがにじみ出てきた……と?」
「あるいは、私たちがその中に、足を踏み入れてしまったか……です」
その声には、実感がこもっていた。
俺たちは、あの遺構を抜け、歪んだ草原を越え、現実の輪郭が揺らぐ場所を歩いてきた。
だから、ここに辿り着いた。
丘の下――街には、まだ人影がある。
動いている。会話している。灯が灯っている。
あまりに精緻すぎる幻影。
それとも、これは――別の“現実”か。
「……状況確認するにしても、近づくしかないな」
「そうですね…確かめに行きましょう」
足を踏み出す。
乾いた草が、ふたり分の足音を吸っていく。
風が吹いた。空気が、わずかに引き締まる。
目の前に広がるのは、かつて滅びたはずの王国――リシニア。
だがその姿が、本物かどうかは、まだ誰にもわからない。
“揺らぎ”は、終わってなどいなかった。
それは、足元から――もう一度、こちらへと忍び寄ってきている。
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光と闇、信仰と裏切り。
崩れゆく世界。
これは、運命に抗う者たちの物語です。
救いは、ただ祈ることで手に入るのか。
それとも――誰かの絶望の上に築かれるものなのか。
どうか、あなたの心に何かが残りますように。
それではまた暇な時にでわでわ!




