第16話:ルーゼン
ルーゼン視点
風が、また吹いてきた。
谷から吹き上がる気流は鋭さこそないが、肌をかすめるたびに、何かを試されているような気配が残る。
崖沿いの狭い道を歩きながら、俺は無言のまま足を進めていた。
土は乾ききっていて、踏みしめるたびに鈍く硬い感触が伝わる。もはや草原とは呼べないこの土地に、以前までの空気はなかった。風景も、風の流れも、どこか歪んでいる。
視界の端に、エリスの姿が映る。
一定の距離を保ちつつ並ぶように歩く彼女は、沈黙の中でも常に周囲を見ていた。目に映るすべてのもの――地面の模様、揺れる草、遠くの木々の影。それらに潜む変化を、細やかに拾おうとしている。
彼女のそういう動きには、型がない。けれど、その精度は異様なほど高かった。
俺たちがいま進んでいるのは、ただの草原ではない。
見えている地形は変わらずとも、何かが確実に“変わっている”。
それは肌が覚えている。あの遺構で感じた“揺らぎ”――名もなき違和の残滓が、まだこの土地に残っている。
ふと、風が止んだ。
その瞬間、耳の奥で何かが“ずれた”。
ほんのわずかだが、時間がよじれるような感覚。音が遅れて届く。影の形が揺れ、光の輪郭が一瞬、かすんで見えた。
立ち止まり、空を仰ぐ。雲間から射した光が、足元に歪な影を落としている。
「……さっきの“音”、聞こえました?」
エリスの声が、低く届いた。
俺は視線だけを彼女に向けて、頷いた。
返す言葉はない。けれど、これで十分だ。
再び歩き出す。
もはや“道”とは呼べない。ただ、踏み出す場所がある。それだけだ。
地図にも記されないこの土地で、俺たちは言葉少なに進み続けていた。
風はもう頼りにならない。方向も匂いも、目印にならないものばかりだ。足元の感触すら、時折、浮いているように思える。
ただ、それでも――止まらない。
しばらくして、地形が落ち着き始めた。
傾斜がゆるみ、土に草が戻り始める。空気の重さも、わずかに引いていく。
エリスが立ち止まり、外套の留め具に添えていた手をそっと下ろす。その仕草を見て、俺もまた歩みを緩めた。
背後を振り返る。
変わらない風景。変わらない空と草原。
だが、確かに越えたという感覚があった。
あの“揺らぎ”の中を、無事に抜けた――そう思えた。
「……変わりませんね、景色は」
ぽつりと彼女が呟く。
俺はそのまま前を見たまま、言葉を返した。
「変わらないように見えるだけだ。……俺たちが変わったのかもしれない」
それは、思考というより、実感だった。
変わらない景色の中に、自分の“輪郭”だけが微かに変わっている。目に見えるものは据え置かれたまま、感覚の芯が揺れている。そんな違和感。
彼女が隣にいる。
それが、どれだけ異常な空間でも俺の歩みを支えていた。
言葉を交わすよりも、ただ静かに並ぶ方が、何倍も心強いと知った。
草の上に伸びる影が、風に揺れながら、少し先まで伸びていく。
それは、さっきまでの影よりも、ほんのわずかに遠くまで届いていた。
この先に何があるかはわからない。
けれど、もう迷いはなかった。
足を踏み出す。
次に見えるものが“向こう側”の景色なら――俺は、それをこの目で見届ける。
それが、ここにいる理由だ。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
休日ってなんでこんな早く過ぎてしまうのでしょか…
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光と闇、信仰と裏切り。
崩れゆく世界。
これは、運命に抗う者たちの物語です。
救いは、ただ祈ることで手に入るのか。
それとも――誰かの絶望の上に築かれるものなのか。
どうか、あなたの心に何かが残りますように。
それではまた暇な時にでわでわ!




