第10話:ルーゼン
ルーゼン視点
最初に意識したのは、空の広さだった。
森を抜けてから、もう随分と歩いた。陽は西へ傾きはじめ、背後から差す光が草原を斜めに照らしている。風に揺れる草の影が長く伸び、淡くきらめく。
どこまでも広がる空に、鈍い雲がいくつか漂っていたが、雨の気配はなかった。
足を止めると、後ろを歩いていた彼女も立ち止まった。振り返らずに、背負っていた鞄を地面に降ろす。
「ここで、ひと息つこう」
声に出してみると、思っていたよりも疲れていたことに気づいた。腰のあたりに、剣の重みが鈍く残っている。
近くに、小川の流れがあった。しゃらしゃらと、低く静かな水音が風に溶けている。それを確かめてから、地図を取り出した。風で煽られないよう、片手で端を押さえて視線を落とす。
そのとき、隣に気配が寄ってくる。エリスが静かに立ち位置を合わせ、覗き込むようにしてきた。
彼女の指先が、地図の南側をなぞる。
「ここ。南の谷あたりに、村があったはずですよね。……“カイル集落”。」
「……古い地図だ。今もそう呼ばれているかは、わからないが」
「でも、もしまだ残ってたら――食料の補給くらいは、できるかもしれませんよ?」
声は穏やかだったが、その奥に探るような気配があった。
俺は地図から視線を外し、まっすぐ前を向いた。
「進路からは少し外れている。それに、まだ食料にも余裕はある」
それが事実だった。
「わかりました…」
エリスは一言だけそう言い、小川の方へ水を汲みに歩き出す。やがて戻ってきた彼女が、鞄から鍋と保存食を取り出し始めた。干し肉と、細かく削られたチーズ。旅人にはおなじみの素材だったが、その手際はどこか洗練されていた。
「お昼と同じだけど……我慢してくださいね」
湯が沸き、香りが微かに立ち昇る。漂ってくる匂いに、少しだけ心がほどけた気がした。
エリスは、黙って火加減を調整していた。言葉も表情も、必要以上に明るくはない。ただ、そこに在るだけで確かな存在感があった。
しばらくして、黒パンを手で小さくちぎり始める。乾いた音がして、ちぎられたパンが湯に沈んでいく。俺はその様子を黙って見つめていた。
こうして火を囲む時間が、こんなにも静かで、穏やかに流れるとは思っていなかった。
風が、ひときわ強く吹いた。
草原の彼方へ視線を向ける。見渡す限り、誰の姿もない。ただ、その空気の奥に――ほんのわずかに、別の“気配”が混じった気がした。
風でも音でもない。ただ、微かに重なるような違和感。
すぐに何かが起こるわけではなかった。風は落ち着き、草の揺らぎも元の穏やかさを取り戻す。エリスは鍋の火を弱め、静かに座り込んだ。
食事は無言のまま始まった。ふやけたパンは湯を含み、舌の上でじんわりと塩気を広げる。干し肉の旨味、チーズの香り。質素な旅の味ではあるが、腹の奥に沁みた。
「……あたたかいものって、やっぱりいいわね」
彼女の言葉は、ぼそりと独りごとのように落ちた。
俺は返さず、ただ湯気を見つめる。
ぱち、と焚き火が鳴る。その音にまぎれるように、遠くから複数の足音が聞こえた。草を踏みしめる重みが、風とは異なる確かさを持っていた。
エリスも気づいたようだった。湯を含んだ黒パンの最後のひとかけらを口に運びながら、眉をひそめて周囲へ目を向ける。
敵意はまだ感じない。けれど、静けさに対して不自然な足音だった。
空を仰ぐ。夕陽が雲の端を照らし、空の西に赤みが射していた。
その光の向こうから、影が、こちらへと近づいてくる。
剣を手に取り、立ち上がる。背後で物音がした。エリスもすぐに立ち上がり、鞄へ手を伸ばす。火のそばには、食べかけの鍋と湯気の余韻だけが残された。
「……ルーゼン様」
彼女の声には、微かに緊張が混じっていた。
俺は西の地平に視線を投げる。光の残滓が漂う空。その向こう、小さな点のような影が五つ、ゆっくりと近づいてくる。
整った隊列は、祈りを帯びていた。使徒のような歩み。
その中に、微かに震えるような“違和”を孕んだ気配があった。
剣の柄に手を添え、一歩、前へ出る。
風が草を撫で、光が揺れる。
エリスも隣に並ぶ。言葉はない。ただ、その瞳の奥に宿るものが、俺の内にある何かと、静かに呼応した。
やがて――
影が輪郭を持ち始める。白の外套。銀の徽章。祈りを宿す歩み。
その光景は、つい数時間前、森の手前で遭遇した巡礼者たちと同じだった。
「あの装束。間違いない――さっきの巡礼者たちだ」
俺は剣から手を下ろす。彼らに敵意はない――今は。
隣のエリスが問いかける。
「ルーゼン様……どうします?」
「――構わない。偶然か必然か、どちらにせよ避けて通れない道だからな」
静かに草原の空気に身を委ねる。
かつてと同じ姿。だが、かつてとは違う感情が胸にあった。
星痕を持ち、それを失い、それでも歩いてきた今の自分にとって――この再会は、避けがたい宿命の一端にすぎない。
歩み寄ってくる五人の影。
その表情、その声、その祈り――
すべてを、この胸に受け入れる覚悟だけは、もうとっくにできていた。
そして今、再び交わる光と影の輪郭が――確かに、重なろうとしていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
少し空いてしまいました。すみませぬ〜
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光と闇、信仰と裏切り。
崩れゆく世界。
これは、運命に抗う者たちの物語です。
救いは、ただ祈ることで手に入るのか。
それとも――誰かの絶望の上に築かれるものなのか。
どうか、あなたの心に何かが残りますように。
それではまた暇な時にでわでわ!




