エリス:第9話
エリス視点
夜の戦いの記憶が、まだ草原の空気に溶け残っていた。
ルーゼンの「……行こう」という言葉をきっかけに、エリスも歩き出す。
彼の背中は振り返ることなく、風と陽光を背に受けながら、まっすぐに進んでいった。
その背は、どこにも属していなかった。
かつて星の光を抱き、いまはそれを手放した男。
光にも闇にも染まらず、名もない“空白”を歩むその姿は、エリスにとって何よりも美しく映っていた。
だからこそ、彼女は一歩、距離を空けて歩く。
近すぎれば届いてしまう。触れてしまえば、壊れてしまうかもしれない。
それを知っているから、“隣にいる”というかたちにこだわりながらも、ほんの少しだけ風が通る余白を保った。
その距離こそが、エリスにとっての“観測者”としての境界だった。
風が草を撫で、二人の影が静かに並んでゆく。
歩幅は揃わない。けれど、心は離れていなかった。
ふと、エリスは視線を落とす。
足元に揺れる草。その間からのぞく、小さな白い花。
けれど意識は、ついさっきの邂逅へと戻っていた。
星霊教会の一団――その中で、ただ一人、自分を見つめていた青年。
彼の視線は不器用で、鋭さというよりは、ただ迷いを帯びていた。
観察でも、警戒でもない。曖昧なまなざしだけが、肌の奥に残っている。
あれは、力に気づいた目ではなかった。
むしろ――もっと人間らしい、拙い揺らぎ。
初めて誰かに心を引かれたときのような、言葉にしづらい感情。
「……あれは、困る」
誰に聞かせるでもなく、エリスはつぶやいた。
それだけのこと。忘れてしまえば済む。
けれど――忘れられなかった。
自分が気にしている。その事実が、いちばん厄介だった。
(私の何に触れたのか、私にもまだわからない)
そう思いながら、前を歩くルーゼンの背に視線を戻す。
ふと、陽の揺らぎのなかで、その影がきらめいたように見えた。
エリスはほんのわずかに歩調を緩め、再び距離を整える。
干渉しないこと。触れないこと。
自分は、ただ“観測者”でいなければならない。
空を仰ぐ。雲ひとつない澄んだ空。
けれど、どこにも星はなかった。
それでも、エリスは思う。
(……いまのあなたのほうが、ずっと自然に見える)
星の力を抱いていた頃の彼は、まるで誰の声も届かない高みにいた。
正しさと規律に縛られた、孤高の光。
でもいまの彼は、風の音に耳を傾け、草の気配に歩を緩める。
他者と同じ呼吸の中で、歩いている。
それが、エリスには何よりも心惹かれた。
――けれど、“ ”とは言わない。
その言葉は境界を越えてしまう。
それを、誰よりも知っているから。
だから彼女は、ただ隣にいる。
触れず、囁かず、ただ静かに歩みを合わせながら。
風が向きを変えた。
草原の広がりは変わらないのに、肌を撫でる風だけが、どこか異質だった。
そこに混じっていた“何か”が、エリスの足をふと止めさせた。
(……まだ、残ってる)
星霊教会が言い残した“名残”。
気配は消えていなかった。
むしろ、地の底で今も沈黙して息を潜めているようだった。
ルーゼンも、きっと気づいている。
だが、彼は振り返らない。
(強い)
ただ、そう思った。
気づいた上で歩き続ける。
その選択は、静かに語りかけてくる。
――お前は動じるな。
そう言われている気がした。
でも、エリスにはわかっていた。
あの気配は、ただの残り香じゃない。
まだ、何かがいる。眠っているだけの存在。
草の葉が逆に揺れる。
それだけで、胸の奥がひりついた。
通り過ぎていいのか。
その問いが、喉元に浮かんで――消えた。
言葉にした瞬間、それは境界を越える。
だから彼女は沈黙を選ぶ。
そっと歩を進め、隣に並ぶ。
ふたりの間を、風が吹き抜けていく。
音はない。けれど、確かな共鳴だけがそこにあった。
言葉がなくても、理解できる。
それでいい。
今は、それだけで十分だった。
草の音が、遠くで重なる。
ルーゼンの歩みがまた、ひとつ進む。
エリスも、それに続いた。
その背を、追いかけるのではない。
ただ、隣に在るために――
未来はまだ、霧の向こうにある。
けれど、今ここにあるこの歩みだけは、確かだった。
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光と闇、信仰と裏切り。
崩れゆく世界。
これは、運命に抗う者たちの物語です。
救いは、ただ祈ることで手に入るのか。
それとも――誰かの絶望の上に築かれるものなのか。
どうか、あなたの心に何かが残りますように。
それではまた暇な時にでわでわ!