第8話:ルーゼン・エリス
ルーゼン・エリス視点
草の海が、静かに風に揺れた。
森を抜けて小川での短い休憩を終えたふたりは、再び歩き出していた。せせらぎの音はすでに背後へ遠ざかり、淡い陽光が草原の斜面を照らし始めている。
けれどその光は、どこか――肌を刺すような冷たさを帯びていた。
ルーゼンは足を止める。空気が、変わった。
風の中に、鉄と香油のような――どこか儀礼を思わせる匂いが混じっていた。
「……誰か来る」
その言葉に、エリスも立ち止まる。視線がわずかに鋭くなった。
なだらかな丘の向こうに、人影が現れる。最初に見えたのは、白い外套が風にたなびく姿。そしてそのあとから、白銀の鎧を身にまとった三人の騎士が続き、中央には銀刺繍の祭服を纏う壮年の男。その隣には、若く落ち着いた雰囲気の青年が寄り添っていた。
彼らは秩序ある隊列を保ったまま、儀式の一環のように、静かにこちらへ近づいてくる。
「……星霊教会」
エリスが呟いた。驚きこそなかったが、声の底にはかすかな緊張が滲んでいた。
ルーゼンは言葉を返さず、ただその一団を凝視する。
胸元に浮かぶ金の星――星霊教会の紋章が、陽に反射して淡く煌めいた瞬間、彼の胸の奥で何かが疼いた。かつて目にした“あの光景”が、ほんの一瞬、脳裏をかすめた。
それでも、剣には手を伸ばさない。ただ視線だけが鋭さを増していく。
やがて、一団の歩みが止まり、司祭が一歩前へ出た。銀髪を整えた顔には柔和な笑みが浮かんでいる。だがその微笑みは、ルーゼンには仮面のように見えた。
――優しさは、ときに最も鋭い刃になる。
司祭は穏やかな声で言った。
「どうかご安心を。私たちは争いを望んで来たのではありません」
その声音は風にかき消されることなく、ふたりのもとへはっきりと届いた。
隣に立つ青年――副司祭は沈黙を保ち、ルーゼンではなくエリスに視線を向けていた。そのまなざしには、冷静を装った観察者のような静けさがあった――いや、あくまで“装った”にすぎない。
ちらりと逸らすその視線には、年若さゆえの戸惑いと、言葉にしづらい感情の揺れがにじんでいた。
エリスは一歩前へ出る。足音が草をやわらかく踏みしめ、風に揺れる外套がふわりと広がる。
ちらとルーゼンを見てから、静かに司祭たちへ向き直る。
「お気遣い、ありがとうございます。ですが、私たちはただの旅人です。それ以上でも、それ以下でも」
口調は丁寧だが、その内には張り詰めた意志があった。拒絶でも敵意でもない。“それ以上、踏み込まないで”という、静かな線引き。
司祭は穏やかに頷く。
「ええ、承知しています。……ただ、私たちはこの近辺に漂っていた“気配”に導かれて来たのです」
彼はそう言いながら、草原をゆっくりと見渡した。
「闇の力――それも、かなり深いものです。私たちは、それが森に続く廃村から流れてきたと判断しました。……ですが、あなた方の姿が見えたことで、声をかけさせていただいたのです」
エリスの表情は変わらない。だが、胸元の留め具にそっと指を添えた――警戒を示す、彼女の癖。
ルーゼンは、司祭の言葉の端々に妙な含みを感じ取っていた。
“この場所にいたことで、声をかけた”――まるで、こちらの素性に心当たりがあるかのような言い回し。だが司祭の表情は最後まで穏やかだった。
背後の光誓騎士たちもまた、ただ黙ってこちらを見つめている。殺気も敵意もない――それが、逆に不気味だった。
「……つまり、私たちは“通りがかった”だけ、ということです」
エリスの微笑みはやわらかく、どこか優雅なものへと変わっていた。
「星霊教会がどんな目的でこの地に来られたとしても……私たちは、それに関わるつもりはありません」
風が、草原をすべっていく。
司祭は目を伏せ、口元にわずかな笑みを浮かべた。
「もちろんです。……それでも、もし何か困ったことがあれば、どうかお声がけください。私たちは敵ではありません。光の誓いにかけて、それをお約束いたします」
それはまるで、儀式の一節のような言葉だった。だが不思議と、嫌味はなかった。
「……ふ〜ん。星霊教会にも、優しい方がいたんですね」
エリスが冗談めかして笑う。だが、その目は最後まで、油断していなかった。
ルーゼンもまた無言のまま、静かに一団を見送り続けていた。
やがて、巡礼者たちはそれ以上の言葉を交わすことなく、草原の奥へと去っていった。
白い外套が風にたなびき、銀の甲冑が陽を受けてわずかにきらめく。
彼らの背が丘の向こうに消える。
草の海に、再び静けさが戻った。
だがそれは、森で感じた静けさとは違っていた。一本の緊張の糸が、空気の中に張り詰めたまま残っている。
ルーゼンはしばらく黙ったまま、一団の背を見つめていた。
やがて視線を外し、低く息を吐く。
「……何か、知っていたな。あの司祭」
「……そう、見えましたか?」
エリスの声は、風に溶けるように柔らかい。
「俺の名も素性も口にしていない。だが、あの目は……見覚えのあるものを見る目だった」
「……たしかに。私は“知られてる”というより、じっと……“見られていた”気がしました。理由は、よくわかりませんけど」
エリスは胸元に手を添え、留め具を指先でなぞる。
それに込められた意味は――彼女自身にも、まだうまく言葉にできなかった。
しばしの沈黙。
「……でも、襲ってこなかった。それだけで、今日は十分ですよ」
どこか疲れをにじませた軽やかな言葉。
「……そうだな」
ルーゼンは短く応じ、空を見上げる。
あの光の奥に、いったい何が潜んでいるのか――今はまだ、深く踏み込むには早すぎた。
「……行きましょうか」
「……ああ」
ふたりは再び、草を踏みしめながら歩き出す。
丘を目指して、静かに進む足音。
やがて、小鳥の声がひとつ、澄んだ空へと伸びていった。
そのとき、ふたりの歩幅は――ほんの少しだけ、近づいていた。
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光と闇、信仰と裏切り。
崩れゆく世界。
これは、運命に抗う者たちの物語です。
救いは、ただ祈ることで手に入るのか。
それとも――誰かの絶望の上に築かれるものなのか。
どうか、あなたの心に何かが残りますように。
それではまた暇な時にでわでわ!