第6話:ルーゼン・エリス
ルーゼン・エリス視点
足音が、少しずつ柔らかさを帯びていく。
森の深部を抜けてきた二人の前に、ぽっかりと開けた空間が姿を見せはじめていた。木々の密度は薄まり、風が運ぶ草の香りが鼻先をかすめる。
ルーゼンは一歩足を進めたところで、ふと立ち止まった。
「……風の匂いが、変わったな」
誰にというわけでもない、ぽつりとした呟きだった。安堵とも警戒ともつかない、微妙な色を孕んだ声。
隣を歩くエリスが、彼の動きに合わせて立ち止まり、肩越しにその顔を見た。
「森の終わりが近いですからね。風も、少しあたたかい」
言葉の調子はいつも通りだったが、その足取りは慎重だった。気配を探るように、視線を周囲へと走らせ、耳を澄ませている。
「静かすぎる」
ルーゼンの低い声が、静けさの中に沈んだ。
森を覆っていた密やかなざわめきすら、どこかへと消えている。
「……そうですね。妙に静かです」
短く返したエリスの声にも、わずかな緊張がにじんでいた。その瞳もまた、木々の切れ目の先へと向けられている。
ルーゼンは眉をひそめ、剣の柄に手を添えた。まだ抜くほどではない。ただ、意識を置いておくだけで、少しだけ心が落ち着く。
「……気味が悪いな」
ぼそりと漏らした言葉に、エリスがふと笑った。
「ふふ、何ですかその顔。久しぶりに見ましたよ」
からかうような調子だったが、そこには柔らかな気遣いがにじんでいた。
ルーゼンは返さず、ひとつ息を吐く。
「ここまで来たんです。少しは、肩の力を抜いてもいいんじゃないですか?」
エリスが手を差し出す。風がその指先をなぞり、草の香りが静かに揺れた。
彼女なりの気遣いだとわかっていたが、ルーゼンは首を横に振る。
「もう少し進もう。森を抜けてからだ」
「わかりました」
エリスは頷いた。その笑みには、ほんのわずかに疲労の影があった。
二人の前に、森の終端が見えてくる。
広がる草原の影。夜の名残が空に留まり、風の匂いだけが確かに変わっていた。
虫の声がぽつりぽつりと戻り、夜の帳に溶けていく。緊張が少しずつ解けていくように。
ルーゼンは小さく息を吐いた。喉の奥にあった重さが、わずかに和らいでいく。
「……抜けるぞ」
「はい」
それ以上の言葉はなかったが、二人の歩幅はわずかに揃っていた。
木々の切れ間を抜けた瞬間、視界が一気に開ける。
そこには、静かな草原が広がっていた。
本来なら風に揺れるはずの草が、まるで息を潜めているかのように動かない。
星々はすでに空から姿を消し、東の空には淡い青が滲みはじめていた。
ルーゼンは立ち止まり、足元の草を見下ろす。
踏みしめた感触は柔らかく湿っていたが、なぜか“生きている”という気配が希薄だった。
「……妙な場所だな」
呟きは風に紛れ、空気に溶けていく。
エリスも少し後ろで足を止め、遠くへと視線を走らせた。
広がっているはずの草原は、視線の先で不自然に霞んでいる。霧か、あるいは――。
「風は吹いてるのに、草があまり揺れてませんね」
髪が風に揺れ、彼女は無意識に手でそれを押さえた。
確かに風はある。頬を撫で、外套の裾を揺らすほどに。
けれど、草を渡る音がない。まるで、何かがその存在を押さえ込んでいるかのようだった。
「何かが、抑え込まれているようだ」
ルーゼンの眉間にしわが寄る。
危険とは異なる、違和感。
自然が“自然に見えるように作られている”――そんな歪さがあった。
「それでも」
エリスが笑った。ぎこちなく、それでも前を向こうとするように。
「森を抜けただけでも、少しほっとします。開けているって、それだけで気持ちが違いますから」
「……そうかもな」
ルーゼンは否定しなかった。
確かに、森の緊張からは解き放たれた。体がわずかに軽く感じる。
草を踏む音が、ようやく耳に届き始める。
ぽつり、ぽつりと虫の声。風の中に混じる、ほとんど聞こえない水の音。
世界が少しずつ、音を取り戻していく。
まるで二人の歩みに合わせるように、草原そのものが“息を吹き返している”かのようだった。
「もう少し進んで……様子を見よう」
ルーゼンの声は低く、それでもどこか落ち着いていた。
エリスは頷き、そっと外套の裾を払って彼の隣に並ぶ。
歩幅を合わせ、ゆっくりと草原へと足を踏み出していく。
静けさは、まだ完全には消えていない。
だがその奥で――微かに、何かがこちらを“見ている”気配があった。
それでも、二人の足音は確かに草の上に音を刻んでいた。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
あらすじと序章プロローグを読みやすく修正しました。
内容は変わりないので一度読んだ人は読まなくても大丈夫です!
また暇な時にでわでわ!