7話 リュシアン初めての父との対面 ⑤
リュシアンを抱きしめたまま、旦那様を無視して馬車に戻った。
追いかけてきたのは執事のセバスチャンだった。
「奥様、お願いです。ソフィア様のご様子も心配ですし、リュシアン坊っちゃまもお疲れです。それに行くところはございますか?」
セバスチャンはわたしの実家の事情を知っている。頼ることができないことを。わたしが今から行くとすればどこか安宿を探して回るしかない。
伯爵夫人なんて言ってはいても手持ちは少ない。自分が使えるお金はほとんど新しい事業のために投資してきた。伯爵家のお金に手をつけるのは嫌なのでここでは必要最低限の経費しかもらっていなかった。
「………それでも出て行きたいと言えば?」
「わたしの家に来ませんか?」
セバスチャンの家はこの屋敷から少し離れたところにあり、子供も独立して夫婦二人で暮らしている。
「……ご迷惑はかけられないわ」
「妻はリュシアン坊っちゃまが可愛くて仕方がありません。迷惑どころか喜ぶと思います。幸い部屋も空いておりますしお二人がゆっくり眠れる場所もあります。それに妻の大きな胸でお二人くらいならゆっくりと泣くこともできますよ?」
「………そう……泣いてもいいのかしら?」
「当たり前です。こんなに頑張っている奥様にぜひわたしからご褒美です」
「ありがとう、ご褒美頂いてもいいかしら?」
「はい、今使いの者が妻に伝言してくれていますので、今頃『まぁ大変だわ』と嬉しそうに用意しているはずです」
「ふふっ、じゃあ、ゆっくりと歩いて行こうかしら?」
「馬車にお乗りください」
セバスチャンは屈んでリュシアンの頭を優しく撫でた。
「坊っちゃま、今夜はアンナといっぱい遊んでいただけますか?」
「うん!アンナ、すきっ」
怯えていたはずのリュシアンがパッと笑顔を見せた。
旦那様が帰るまで、執務で忙しいわたしの代わりに世話をしてくれた。だから屋敷の使用人達みんながリュシアンの家族。
ここを出ていくことができないのはわたし自身もそしてリュシアンにとってもみんなが家族だと思っているから。そして、実家はわたしにとって名前だけの繋がりで、事業提携先の相手でしかない。
セバスチャンの家は馬車に乗ったら数分で着いてしまうので少し遠回りして馬車に揺られた。窓から見える景色にリュシアンは見入っていた。
「かあさま!わんわんがいた!」
散歩中の犬に興奮するリュシアン。
「あ、あのおうち、おはながいっぱい!」
綺麗な花が大好きなリュシアンは遠くの家でも目敏く見つける。
「あかいやね、あおいやね、ちゃいろのやね、おもしろいね?」
屋根を見て毎回色を言って楽しむリュシアン。
馬車に乗ってるだけなのに子供にとっては見る世界が新鮮で楽しいみたい。
「リュシアン、ごめんね?怖かったわよね?」
「うん、あのおじさん、かあさまにバチンッて、した」
わたしの頬にリュシアンの小さな手が触れた。とても温かい柔らかい手。
「いたい?あのおじさんっ、きらい!」
「リュシアン、きらいって言ったらいけないわ。リュシアンが嫌いって言われたら嫌でしょう?」
「や、やっ、だ……いわない」
目に涙が…泣かせるつもりはなかったのに。本当はわたしのことを想って言ってくれているのに、ごめんね。
でもあんな人でもあなたの父親なの。わたしのせいで二人の初めての対面は最悪になってしまった。
わたしがきちんとリュシアンのことを話せばよかったのに意地になってしまったせいでリュシアンを傷つけた。
なのに旦那様にあなたの子供だって言わなかった。
不貞を疑われて本当のことを言いたくなくなった。自分でもわかっている。誤解を解いてリュシアンを伯爵家の正当な後継ぎとして認めてもらわないといけないことも。リュシアンのためにこれからの教育についても話し合わないといけない。
そう、リュシアンのために。
でもわたしの心は?突然小さな女の子を育てろと言われ、冷たい目でわたしを見る夫にどうやって耐えろと言うの?
それでも子供は可愛い。ソフィアに対しても一度もあの子のことを嫌だとか思わなかったし、育てることに抵抗はなかった。
熱を出したことはわたしの不注意かもしれない。でも今日は温かい日だったし、上着も着せていた。そんな無理をさせたつもりはなかった。
なのに言い訳すらさせてもらえず頬を叩かれた。
頬を叩かれた時思い出したのは元夫のこと。そして……継母。
父は継母から、私が我儘で傲慢、すぐに怒り出す。まともに勉強もしない手のかかる娘だと聞かされていた。
よく父に執務室に呼び出されて鞭で手を打たれた。
『お前は母親のことを馬鹿にしているのか!』
『あんな優しい妻にお前はなんて態度なんだ!』
私の手が傷だらけになり腫れているのを満足そうな顔で見る継母。
そして『可哀想に』と一言。
ーー嘘ばっかり。
異母妹のカトリーヌに『お姉様って誰にも愛されないのね?この屋敷には不要なんじゃない?』とクスクス笑われた。
継母の連れ子の兄からは『お前のせいでこの家の雰囲気が悪くなるんだ!』と言われた。
だからこそソフィアにそんな想いはさせたくない。リュシアンにももちろん。
そう想っているのに結局屋敷を出てしまった。
遠回りしていたら疲れたのかリュシアンは馬車の中で眠りについた。
アンナが馬車の止まった音に気がついて急いで家から出てきた。
セバスチャンも領地を持たない名前だけの男爵で代々伯爵家の執事を担ってきた。家は屋敷とまではいかないけどそれなりの大きさがありお手伝いさんを何人か雇っている。
アンナは「私が抱っこするわ」と言って他の人にはリュシアンを触らせない。
アンナも以前は伯爵家に勤めていてリュシアンをとても可愛がってくれる。暇があれば孫のようだと面倒を見てくれるのでリュシアンもアンナには特に懐いている。
「奥様、どうぞ中にお入りになってください。温かいお茶を用意して待っておりました」
リュシアンを客室のベッドに寝かせてから私のそばに戻ってきた。
「頬がまだ腫れていますね。冷やしましょう」
冷たいタオルを頬に当てて「よく頑張りましたね」と優しく微笑んでくれた。
辛くなんてない。意地を張っていたはずの私の心はアンナの前では脆くて簡単に崩壊して涙が溢れた。
「アンナ、私、どうしたらいいのかしら?旦那様の子供を蔑ろにしたつもりはないの。リュシアンのことだって大切にしているのに……母親失格だわ」
セバスチャンの言うとおり、アンナの胸の中で子供のように泣き続けた。