それは、悪夢の始まりか、終わりなのか
◇
レティシアたちは待機列でひたすら長い時間を待っていた。長蛇の列。先の見えない行列。炎天下の下、ただ待つだけの時間。
「あっっっつ……こいつら頭おかしいんじゃないのか、あ、またタンカで誰か運ばれてるぞ」
額から流れ落ちる汗を拭いながら、レティシアは思わず愚痴をこぼした。炎天下での長時間の待機は、参加者たちの体力を容赦なく奪っていく。列の中には、熱中症で倒れ、担架で運ばれていく者も少なくなかった。
「あーーーマジで暑い~日焼け止め塗ってて正解だったわぁ~」
スクルドも同様に舌を出して手をパタパタとして扇ぐ。服は既に半ばはだけていて、汗で肌に張り付いたシャツの向こう側には、下着の輪郭がおぼろげに浮かび上がっていた。
炎天下の中、スクルドの我慢も限界に達したようだった。彼女は、まるで挑発するかのようにシャツの裾に手をかけ、それを無造作に脱ぎ捨てた。いよいよ下着姿になった彼女は、「すずしぃ~」と艶っぽく声をあげ、周囲の男性たちの視線を釘付けにした。
その大胆な行動に、スタッフは慌てて駆け寄る。
「ちょ、ちょっとそこの君! 服を着なさい!」
当然の注意だった。
「あー?うるせー!こんな暑い中、待たせるのが悪いんだしー!ねっちゅうしょーでぶっ倒れたらどうすんのー!?」
「スク……」
スクルドは、スタッフに掴みかかり、まるで子供のように駄々をこね始めた。その姿に、レティシアは深い溜息をつき、静かに指先を宙で回した。
「こんな暑い……こんな……お?」
次の瞬間、スクルドの周囲の空気が一変した。灼熱の暑さが嘘のように消え去り、春の陽気を感じさせる心地よい温かさが辺りを包み込んだ。
「連れが迷惑をかけました、こいつバカなんだ、服はこれから着せるから見逃してくれ」
レティシアは、頭を下げながら警備スタッフに謝罪し、スクルドに脱ぎ捨てられたシャツをそっと被せた。まるで幼い子供を窘めるようだった。
「え、これ魔法? なんだよ、シア。こういうのできるなら早めにしてよぉ」
スクルドは、涼しい風に驚きながらも、レティシアに甘えたように声をかけた。
「意味のない魔法は嫌われるんだよ……今回は特別だからな、スク」
レティシアはスクルドに視線を合わせず、ただそう淡々と告げる。その様子は、まるで照れ隠しに見えなくもなかった。
「わぁい、さすがシア、大好き!」
歓喜の声を上げ、スクルドはレティシアに抱きつこうと飛びついた。しかし、その勢いはレティシアの手によって静かに遮られた。
「うるさい、寄るな。暑いんだから茶番はやめろ」
レティシアの言葉は冷たかったが、それは決して照れ隠しなどではなかった。ここでトラブルを起こせば、追い出される可能性もある。そうなれば、ヴェインを助けることもできなくなってしまう。だからこそ、彼女は心底仕方なく、魔法を使ったのだ。
気温操作の魔法は、一見シンプルだが、実は多くの魔力を消費する。エアコンという、異世界転生者が持ち込んだ便利な道具には、感謝するしかない、とレティシアは心の中で呟いた。
そんなやり取りをしている中、ようやくスタッフの声とともに列が動き始める。いよいよアイドル決定戦が始まろうとしているのだ。
「いよいよ始まるな……スク、準備はいいか」
レティシアは、スクルドに視線を向け、静かに問いかけた。
「ああ……サイリウムは用意したし、推しの名前入りのうちわもOK。コスプレもしちゃう?」
スクルドは、真面目な表情を浮かべながら答えた。
少しずつ列が進み、巨大なステージが見えてきた。それは、半屋外に設置された、数十万人の観客を収容できるほどの壮大なステージだった。すでに、アイドルの卵たちがステージ上で新曲を披露し、会場は熱狂の渦に包まれていた。
レティシアたちは、当日券での入場だったため、到着が遅れてしまった。アイドル決定戦は、すでに熱気の高まりとともに、その華やかな幕を開けていたのだ。
「うぉぉぉおおミキちゃぁぁあああん!!愛してるよぉぉぉぉぉ!!」
スクルドは、ステージに向かってサイリウムを激しく振り回し、頭にうちわを乗せていた。その姿は、まるで燃え盛る炎のように情熱的だった。
「そろそろ怒っていいか、スク?」
レティシアは、呆れたようにスクルドを見つめた。
「塩対応すぎない、シア? いやでもさ、せっかくの一大イベントだよ。楽しまないと損だって。マジでアイドルに興味ゼロなの?」
「ないよ、どうでもいい……。いや、スクルドがアイドルに思い入れがあるのは分かるよ。でも、今はそれどころじゃないだろ」
レティシアは、用意された席に座りながら、静かに答えた。彼女たちの目的は、アイドルを楽しむことではない。
まずは、凛子の登場を待たなければならない。彼女こそが、このアイドル決定戦の主役であり、観客全員の視線を集める存在だ。
だからこそ、その時こそがチャンスなのだ。この大観衆の中でヴェインと合流し、隠密行動をするには、これほど最適なタイミングはない。レティシアは、静かにその時を待った。
「ヴェインのやつ……凛子になにかされてなかったらいいが」
レティシアは、不安げな表情で呟いた。彼女の心は、ヴェインの安否に対する心配で満たされていた。
「うわぅぁぁぁぁぅぁぁぁ!!アイちゃぁぁぁああぁんん!!こっち向いてぇぇぇええ!!」
隣で叫ぶスクルドの頭を、レティシアは軽く叩いた。不満を漏らし抗議するスクルドを無視し、彼女は神妙な顔つきで、ただその時が来るのを待っていた。
やがてその時は、やってくる。
煌煌と輝く照明、地鳴りのような歓声、そして期待に満ちた熱気。巨大なステージは、まさに祭りの坩堝と化していた。その中心に、一人の少女がゆっくりと姿を現した。恋ヶ崎凛子。この世界を代表するトップアイドル、その存在感は、登場しただけで会場の空気を一変させた。
「みんなー! 今日は来てくれてありがとう!」
凛子の第一声は、まるで春の陽光のように温かく、会場全体を包み込んだ。その笑顔は、何千何万という観客一人ひとりの心を、一瞬にして掴んで離さない。
「今日は、みんなと一緒に最高の思い出を作りたいと思ってるんだ! 最後まで楽しんでいってね!」
凛子の言葉は、観客たちの心をさらに熱くさせた。会場は、割れんばかりの歓声と拍手で埋め尽くされた。
凛子は、まるで妖精のように軽やかにステージを舞い、観客たちとのトークを楽しんだ。その言葉の一つ一つが、観客たちの心を揺さぶり、会場全体を笑顔で満たしていく。
このステージは、これから始まる壮大な物語の序章に過ぎない。しかし、その幕開けは、すでに観客たちの心を鷲掴みにし、これから何が起こるのかという期待感を最高潮にまで高めていた。
「ちっ……あの女……!」
レティシアはヴェインの存在に気がついた。ヴェインは凛子の専属警備員として採用されている。アイドルコンサートでの警備員の仕事の一つに、最前列で観客の前に立ち、興奮したファンがアイドルに飛びかかるのを防ぐ仕事もある。
故に、警備員たちはコンサートを見ることなどできず、観客たちを睨み続けることになるのだが……。
「おいシア……あれって」
スクルドも気がつく。ヴェインの立ち位置は、明らかに異常だった。
他の警備員同様最前列に立たされている。それは良い。問題は向きである。なぜか彼だけが、凛子の方を向いているのだ。
それは凛子が提案をしたこと。
「ねぇ警備員だけどさぁ、私の背後から暴漢が忍び寄ることもありえない?」
その提案から、ヴェインは、凛子の背後に忍び寄ってくる暴漢がいないかを監視する役目を負ったのだ。無論、それは建前。
トークが一段落すると、静かに凛子はステージの中央に立つ。
期待のこもった静寂が会場を支配する。
凛子もまたレティシアとスクルドに気がついたのか、勝ち誇ったような視線を二人に送る。
「……!ヴェイン、逃げろ!!今すぐそこからッ!!」
レティシアが叫ぶのと同時にそれをかき消すようにイントロの旋律が流れ出す。瞬間、世界が色を変えた。




