偽りの福音、虚無の歯車
◇
それは葉脈などという生易しいものではなかった。それは、東京という巨大な生命体の血管に、あるいは神経に、深く侵食していく、禍々しく脈打つ胎動の光だった。閃光は、そこに暮らす全ての人間の運命を、不可逆的に変えてしまった。
「う、う……ぐ……ヴェ……イン……」
レティシアの顔色は土気色に染まり、足取りはまるで糸の切れた操り人形のように覚束ない。ついに力尽きたのか、膝から崩れ落ち、地面に倒れ伏した。
「え……なに……これ……?」
凛子は周囲を見渡す。倒れたのはレティシアだけではない。同じように苦しむ人々が、地面にうずくまっていた。呻き声、叫び声、助けを求める声が、混沌とした空間を満たしていく。中には、何が起こったのか理解できず、混乱した様子で周囲を見回す者もいる。
凛子自身も同様に何の変化もなく、それがより不気味だった。
「なんだ……これ……」
ヴェインは自分のしたことがまるで理解できなかった。瞼の裏に焼き付いた閃光が、未だ残像となって視界を揺らめかせる。何が起きたのか、理解が追いつかない。ただ、胸の奥底に広がる虚無感が、何か取り返しのつかないことが起こったことを告げていた。
その時、乾いた拍手の音が、静寂を切り裂くように響き渡った。まるで嘲笑うかのように、空虚に、冷たく。音の出所を辿ると、そこに立っていたのは、魔王フィアレスだった。
「計画は成功した、これも全て小僧、貴様のおかげだ」
フィアレスの言葉は、ヴェインの耳に届きながらも、脳内で意味を成さないまま空虚に反響する。何が起きたのか、何の計画なのか。混乱する意識の中で、ヴェインはただ言葉を繰り返すことしかできなかった。
「何を……何の……ことを……」
「全人類チート能力者計画。それが我の計画だ。そのためにはシャイニング・トラペゾヘドロンが必要だった」
全人類チート能力者計画───。
その言葉が、ヴェインの脳内に衝撃となって走った。理解した瞬間、全身の血が凍りつくような感覚に襲われる。冷や汗が、まるで滝のように頬を伝い落ちた。フィアレスの真の目的。それは世界を、人類を、根底から覆す狂気じみた計画だった。
「異世界転生者たちが、この世界で幅を利かせられるのはどうしてだと思う?チート能力があるからだ!故に人々は、異世界転生者に焦がれ、崇拝する。だが……もし、チート能力が当たり前の世界になったら?」
フィアレスは、恍惚とした笑みを浮かべながら両手を天に掲げる。その姿は、まるで神を冒涜する異端者のようだった。
「異世界転生者など、無価値となる。否、世界の常識も知らぬ、はぐれものと扱われるだろうな。我はそれを破壊したかった」
破壊、という言葉がヴェインの耳に突き刺さる。フィアレスの言葉は、世界の秩序を破壊し、混沌を招き入れる呪詛のように聞こえた。
「そんなことをして……なにが……」
ヴェインは、絞り出すように言葉を紡ぐ。しかし、フィアレスは、ヴェインの問いかけに答えることなく、己の狂気に酔いしれるように言葉を続ける。
「ああ、これから楽しみだぞ。チート能力者たちの世界!それこそが……我の求めた混沌!」
心底嬉しそうに、フィアレスは答える。その瞳には、狂気の炎が燃え盛っていた。世界を混沌に突き落とすことで、フィアレスは何を求めるのか。ヴェインには、その真意を理解することはできなかった。ただ、フィアレスの言葉が、世界の終わりを告げる鐘の音のように、重く、虚しく、心に響き渡った。
全人類にチート能力を付与する。それは、世界の根幹を揺るがし、人々の価値観を転覆させる、禁断の行為。誰もが夢見た、絶対的な力の獲得。それは、一見、輝かしい未来を予感させる福音のように思えた。
だがしかし───。
「どうして、それじゃあ、みんな倒れているんだ!」
ヴェインの叫びが、静寂を打ち破る。目の前に広がる光景は、彼の想像とはかけ離れていた。苦しみ悶える人々、力なく倒れ伏す者たち。チート能力は、彼らにとって祝福ではなく、呪いとなって降りかかっていた。
ヴェインの疑問に、フィアレスは残酷な笑みを浮かべながら答える。
「それは、適性がないからだ。クク、良いではないか。やがては自然淘汰される」
淘汰───。
それは、弱者にとって死を意味する残酷な言葉。
「淘汰って……それってつまり……」
ヴェインは、言葉を詰まらせる。フィアレスの真意を理解しながらも、それを受け入れることはできなかった。
「ああ、死ぬぞ?弱者は滅び去る」
フィアレスは、冷酷なまでに淡々と答える。その声は、まるで死の宣告のように、ヴェインの耳に響き渡った。
「ふざけるな!人の命をなんだと……」
「小僧、貴様はチート能力者側なのだ、喜んだらどうだ?これまでの人生、どう思っているのだ」
その言葉は、まるで甘い蜜のように、ヴェインの心の奥底に潜む鬱屈した感情に絡みつく。コンビニバイトの日々。理不尽な客、無神経な店長。東京という街は、ヴェインにとって、冷たく、容赦のない場所だった。
テレビの向こう側で活躍する異世界転生者たち。彼らが持つチート能力は、ヴェインにとって憧憬の対象であり、同時に、手の届かない絶望でもあった。
そんな世界が、今、目の前に広がっている。フィアレスの言葉は、ヴェインの心の弱さにつけ込み、彼を誘惑する。
「素直になれ、お前は英雄になれるのだ!きっかけは我だが、人類にチート能力を与えた神にも等しい英雄!これからの人生は、バラ色ではないか」
悲惨な最後を遂げた父。村の人たちは、そんな父を死後も侮辱していた。
父は最後まで、真摯に仕事をしていただけだった。真摯に仕事をすれば認められると言っていたのに、最後があんな悲惨なもので、幼きヴェインにとって許しがたいもので。
「我の仕事は終わりだ、オールマンがやってくる?だからなんだ、オールマンもやがてはただの人となる、チート能力が当たり前の世界では、奴は少し力のあるだけのスポーツ選手と変わらない」
そう、何もかもが変わる。
オールマンの立ち位置は、もしかしたヴェインになるかもしれない。
世界を変えた、英雄として───。
ふと、脳裏に浮かんだのは恋人の姿。
混沌の渦中にあっても、心の奥底に灯る微かな光。それは、東京で出会った、愛しい恋人の記憶。彼女は、荒波に揉まれるヴェインにとって、唯一無二の心の拠り所だった。
二人で過ごした日々は、ささやかで、何気ない日常の繰り返し。それでも、ヴェインにとっては、かけがえのない、宝物のような時間だった。
ルキナ───。
その名は、今もヴェインの胸の中で、優しく、温かく、輝きを放ち続ける。彼女は、一体、何を求めていたのだろうか。静寂と安らぎか、それとも、刺激的な冒険か。英雄か、それともただ隣で支えるだけしかできない自分か。
フィアレスは、勝利を確信し、満足げにその場を立ち去ろうとしていた。その時、異変が起こる。ヴェインの身体から、微かな光の脈動が感じられたのだ。
「……違う」
力なく、しかし、確かな意志を持って、ヴェインは呟く。その声は、フィアレスの背中に冷たい恐怖を突き刺す。
ヴェインの微かな呟きが、静寂を破る波紋のように、世界に変化をもたらす。呼応するかのように、彼の身体から発せられる光は、さらに輝きを増していく。
周囲に倒れ伏していた人々からも、光が吸い寄せられるようにヴェインへと集まり、無数の光の玉となって彼を包み込む。それは、まるで、長い眠りから覚めた魂が、再び光を放ち始めるかのような、神秘的な光景だった。
「なんだ、これは……?」
フィアレスの顔に、驚きと困惑の色が浮かぶ。計画の成功に酔いしれていた彼にとって、このような事態は、想定外だった。
ヴェインをチート能力に目覚めさせたことは、フィアレスの目論見通りだった。しかし、彼がどのような能力を手にしたのか、フィアレス自身、知る由もなかったのだ。
「チート能力、そうだよ、そのとおりだフィアレス。誰だって欲しい理想の能力。異世界転生者は憧れだった。それが身近に、誰だってなれるようになれるなら、きっと最初は嬉しい」
ヴェインの声は、どこか悲しげに響く。
チート能力───。
それは、人知を超えた力、誰もが憧れる奇跡の象徴。その力は、多種多様で、無限の可能性を秘めている。
それは誰もが憧れる不思議な力。説明できない圧倒的な能力。夢の欠片のようなもの。
「だが、フィアレス、貴様が与えたものは、儚い希望に過ぎない。その果てに待つのは、終わりのない争いと、果てしない憎悪だ」
ヴェインの声は、静かな怒りを孕み、フィアレスの心に突き刺さる。チート能力は、確かに人々に新たな可能性を与える。しかし、それは同時に、人々の心を蝕む毒となる。
誰もが異なる能力を持つということは、すなわち、優劣が生まれ、格差が生まれるということ。限られた者だけが享受できる力を前に、嫉妬や憎悪が渦巻き、差別や争いが生まれる。それは、新たな悲劇の始まりに過ぎない。
「たくさんの人を犠牲にして、多くの人を屍の上に立って、それが世界の英雄だというのなら!俺は……英雄なんていらない!」
ヴェインの叫びは、彼の揺るぎない意志を示す。力なき者たちの悲鳴、苦しみ、そして死。それらを代償に得る英雄の称号など、彼にとって何の意味も持たない。
彼の瞳に刻まれた刻印が迸る。それは憎悪や怒り、恐怖に蝕まれたものではない。明日を見る、人類の灯火であった。




