好きな食べ物
――昭和五十九年、新婚。
人間に姿を変え、好きな人の元に嫁いだ狐の花嫁。
まだ人間の生活様式には慣れないことも多いが、人間と元狐の新婚生活はゆっくりとスタートした。
「博さん。お夕飯ができましたよ」
新妻の呼ぶ声と、窓辺につるした風鈴が夕方の少し涼しくなった風で揺れる音が重なる。
夏休み中に片付けようと学校から持って帰ってきた仕事をしていた博は、手を止めて居間へと移動した。
食卓には楓お手製の食事が並び、特に中央に置かれた大皿の一品に目がいった。
「今日は稲荷寿司?」
大皿の上には、俵型の稲荷寿司が綺麗に並んでいる。
「はい。お口に合うと良いのですが……」
「ありがとう。頂くよ」
食卓には稲荷寿司の他に、鰺の南蛮漬けときゅうりの和え物が並び、暑い夏にも食欲をそそられた。
これまで一人暮らしをしてきた博は、他の独身男性と同じく料理は得意ではなく、特に稲荷寿司は自分では作ったことがなかったので新鮮だった。
さっそく食べてみると、甘辛い味がじゅわっと口の中に広がる美味しさだった。
「美味しいよ、楓さん」
「本当ですか? 良かった」
美味しそうに食べる夫の姿に、楓は安堵した様子で笑った。
翌日も、食卓の上には稲荷寿司があり、昨日とは中のご飯が少し違っていた。
「今日の稲荷寿司は炊き込みご飯なんだね」
「大家さんに作り方を教えて頂きました」
「美味しいよ」
二人が住むアパートの大家である年配女性は、普段から着物を愛用しまだ人間の生活様式に不慣れな楓を見て、良家の箱入り娘だと思ったらしく何かと世話を焼いてくれる。
にこにこと微笑みながら食べる夫に、楓もにこにこと微笑んだ。
さらに翌日は、稲荷寿司と油揚げの乗ったうどんだった。
三日連続で食卓に出てくると、さすがに博も気づいた。
「……楓さん、もしかして稲荷寿司、好き?」
「大好きです。明日は三角形のお稲荷さんを作ってみようかと……」
「そ、それも楽しみだけど、明日は仕事が休みだから、たまにはぼくが作るよ。稲荷寿司は週に三回くらいが良いんじゃないかな?」
元狐の新妻との食文化の違いを知った夜だった。
***
――令和。
「ただいまー……あっ、おばあちゃん、お稲荷さん作ってるの?」
外から帰ってきた博翔は、台所で夕食の準備をしていた祖母を見て声を上げた。
「お帰りなさい。今日のお夕飯はお稲荷さんよ」
「わーい! ねぇ、ぼくもご飯詰めるのやりたいな」
「じゃあ、手を洗ってきなさいな」
祖母に促されて、博翔はしっかり手を洗ってから側に並んだ。
博翔はこれまでも祖母の手伝いをしたことはあり、味付けされた油揚げを広げ、祖母が先に分けておいてあった酢飯を手に取り、押し込めすぎないように気を付けながら油揚げの中に詰める。
途中で、祖母が一口サイズにした酢飯に油揚げの残った煮汁をつけ、それを博翔の口に放り込んでくれて、博翔はこの味見が好きだった。
一個、二個……とお皿の上に完成した稲荷寿司が並んでいく。
「おや、博翔もお手伝いしているのかい?」
「おじいちゃん。今日の夕ご飯はお稲荷さんだよ」
手伝っていると祖父も台所にやってきて、二人の手元を覗き込んだ。
「ぼくね、お稲荷さん大好き。毎日食べたいくらい」
「おばあちゃんも、毎日食べたいくらい大好きよ」
「じゃあ、毎日お稲荷さんにしようよ!」
酢飯を詰めながら提案する博翔に、隣に立っていた祖父が小さな声で呟いた。
「おじいちゃんも大好きだけど、週に三回くらいが良いと思うなぁ」
稲荷寿司を見つめながらそう零す祖父に、祖母はころころと笑っていた。
毎日…とは言いませんが、稲荷寿司おいしくて好きです。