狐の嫁入り
青い空に真っ白な雲という、夏らしい空が広がる。
「――おじいちゃん!」
スーパーに入ろうとしている祖父の姿を見つけて、博翔は声を上げて呼んだ。
「博翔か。学校からの帰りかい?」
「もう夏休みだよ。友達と遊んで帰るところ」
「ああ、朝そう言っていたねぇ」
博翔の家は祖父母と同居しており、今朝ゆっくりと朝食を食べていた祖父の側を虫かごを持って出かけていったのに、すっかり忘れていたらしい。
まだ自然が多く残るこの町では、夏休みともなれば子どもたちは朝からセミを取ったりと外を駆け回る光景がよく見られる。
小学校に入って三回目の夏休みだが、博翔も宿題より先に朝から遊びまわっていて、早くも日焼けして小麦色となっていた。
「おじいちゃんは買い物?」
「ああ。アイス食べるかい?」
「食べる!」
祖父ならそう言ってくれると予想していた博翔は、元気よく返事をして、祖父と一緒に店内へと入った。
店内は冷房が効いていて涼しく、音楽などは流れていないので人の動く音や話し声だけが聞こえた。
一応スーパーという名前はついているが、何でもそろうチェーン店ではなく個人経営のこの店は、車を持っていない高齢者や子どもたちがよく利用する、地元に根付いた店だ。
博翔の好きな、バニラアイスにチョコレートのかかったアイスも置いてある。
祖父は冷たいものは苦手らしくアイスは食べない。
博翔が生まれた頃に教員の職を定年退職した祖父だが、夏でもシャツを着てきっちりした格好が多く、博翔はこれまで祖父が暑がっているところを見たことはなかった。
祖父が買い物をして店内を一周している間、アイスの他にもお菓子の棚を見て回った博翔は、レジの前で祖父と合流して、会計をすませると早くアイスが食べたくて早足で外へと出た。
「あ、雨が降ってる」
外へ踏みだそうとしたとき、先ほどまでは日差しが痛いくらいにかんかん照りだったのに、パラパラと雨が降り注いできた。
「でも空は晴れてるよ。変なの」
雨が降っているのに青空が広がったままの空を見上げて、博翔は首をかしげる。
太陽も顔を出したままで、降り注ぐ雨がきらきらと光って見えた。
「狐の嫁入りだね」
「狐の嫁入り?」
祖父は店内の冷房と外の温度差で曇った眼鏡を拭きながら言った。
「空は晴れているのに雨が降っていることを言うんだよ」
「狐が結婚式するんじゃなくて?」
博翔は狐の話だと思ったようで、少しがっかりした表情を浮かべ、それを見て祖父は微笑んだ。
「不思議な現象をまるで狐に化かされているように感じて、そう呼ばれるようになったんだよ。すぐに止むだろうから――あぁ、もう止んだようだね」
話をしている間に、祖父の言葉通り雨はすぐに止んだ。
雨宿りをしていた他の買い物客たちが帰り始めたのに合わせて、二人も歩き出した。
スーパーを出ると家と畑がぽつぽつと点在するだけの特に何もない景色が続き、先ほどの雨で濡れた草の匂いがした。
「帰りながらアイス食べていい?」
「落とさないように気を付けるんだよ」
博翔は急いでアイスの袋を開け、不要になった袋を買い物袋の中にしまうと、待ちかねていたアイスを頬張った。
バニラアイスの周りをコーティングしたチョコがパリっとするところが、博翔がこのアイスで一番好きなところだ。
パリパリのチョコ部分を落とさないように気を付けながら味わっていると、隣を歩いていた祖父が呟いた。
「でも、おじいちゃんは本当に狐の花嫁を見たことがあるよ」
「えっ、本当に!? いつ!?」
博翔はアイスで冷えた口を動かしながら、祖父に尋ねた。
「博翔のお父さんが生まれる前だから……もう四十年近く前の、今日みたいに暑い日だったよ」
「へぇ。狐の花嫁さん、どんな感じだったの?」
「それが、泣いていたんだ」
「どうして? 花嫁さんなのに?」
博翔の驚いた声が青空に吸い込まれる。
「理由を聞いたら、見知らぬ相手と結婚するのが怖くて不安で、嫁入り行列から逃げてきたと言ったんだ」
「えっ、知らない人と結婚するの? かわいそう」
「あんまりシクシクと泣くものだから、おじいちゃんもかわいそうに思えて、一度きりの人生だから泣くほど怖いことよりも、自分のしたいことをした方が良いよと言ったんだ」
「ぼくも知らない人と泣きながら結婚するより、好きな人と結婚する方が良いと思う」
現代っ子からしてみれば、知らない相手に嫁ぐなんてことは考えられないことだろう。
先ほどまで嬉しそうにアイスを頬張っていたのに、眉を下げて悲しそうな表情を浮かべた孫に、祖父は微笑みながらその頭を撫でた。
そのとき、二人に声がかけられた。
「――お帰りなさい。博翔も一緒だったのね」
話しながら歩いている内に自宅までたどり着き、坂道の上にある家の窓から祖母が顔を出していた。
博翔は急いでアイスを食べ終え、祖父の手を引いて坂道を上った。
「頼まれていたものを買ってきたよ」
「ありがとうございます」
祖父の買い物は夕飯の材料だったらしく、買い物袋を祖母に手渡した。
祖母は珍しく今でも着物を着て生活しており、祖父と似てのんびりと優しい性格で、博翔は昔からおじいちゃんおばあちゃんっ子だ。
祖父から買い物袋を受け取った祖母は、軽やかな足取りで台所へと戻っていった。
「……ねぇ、おじいちゃん。狐の花嫁さん、その後どうしたの?」
博翔は先ほどの続きを祖父に尋ねた。
狐の花嫁は泣き止んだのだろうか。
そのまま知らない人と結婚したのだろうか。
心配そうな表情を浮かべる博翔に、祖父はしゃがんで目線を合わせながら言った。
「好きな相手のところへお嫁に行ったよ」
その言葉を聞いて、博翔の表情がぱっと晴れやかになる。
「じゃあ、狐の花嫁さん、今は幸せに暮らしているんだね」
「きっとそうだろうね」
「良かった!」
まるで自分のことのように安堵して喜ぶ孫を、祖父は優しい目で見つめている。
ちょうどそのとき、家の中から博翔を呼ぶ彼の母親の声が聞こえた。
「博翔、帰ってきてるの? 遊んだ分、ちゃんと夏休みの宿題もやるのよ」
「あっ、宿題しなきゃ!」
朝から遊びに行っていた博翔は、慌てて靴を脱いで家の中に入り、自室へと駆け上がっていった。
庭の木で大合唱をしているセミのように、元気が有り余っている様子だ。
孫とは違い、祖父はゆっくりとした足取りで家の中に戻り台所を覗くと、買い物袋の中身を取り出していた祖母が振り返った。
「博さん。狐って聞こえましたけど、何の話をしていたんですか?」
「さっき雨が降っていただろう? 久しぶりに狐の嫁入りを見たから、昔を思い出してね」
その言葉を聞いて、祖母は目を瞬かせた。
「博翔は、知らない相手のところにお嫁に行く狐の花嫁を心配していたよ」
背の高い祖父は、小柄な祖母を覗き込んで尋ねる。
「楓さん。今、幸せかい?」
その問いかけに、祖母は色白の顔をくしゃっと微笑ませた。
「とても幸せですよ」
「それは良かった」
互いに顔を見合わせて笑う。
四十年前、晴れた空に雨が降った日の出会い。
あの日、泣いていた花嫁は、今は隣で笑っている。
「今日の夕食はお稲荷さんですよ」
「ああ、君の大好物だね。楽しみだ」
今はない尻尾が、着物の後ろで揺れた気がした。
孫・博翔、祖父・博、祖母・楓。
番外編以降は、祖父と祖母の昭和の新婚話を書きたいです。